「世界に誇れる日本の交番」

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昨日お伝えしましたカデロ大使のお話の中で、「交番というのはもとは日本にしかない制度」というものがありましたが、これはほんとうのことです。

そしてこの交番は、実は、犯罪の予防にとても役立っている存在であり、その存在は、まさに日本の文化の発露ということができます。

シンガポールといえば、世界有数の治安の良い国として有名です。
犯罪発生率は、日本よりも低いのですが、なぜそうなったかというと、理由の一つが「交番制度」にあるといわれています。

実はその交番、日本からの技術協力で輸入した制度です。

実は、高度経済成長を目指した1980年頃のシンガポールでは、高層住宅の林立するニュータウンで、人夫となった外国人等による犯罪増加が大きな悩みとなっていました。

ここはとても大切なところで、外国人の作業労働者を多く招けば、必ず犯罪が多発するようになります。
これは、必ずそうなります。

民度や教育がどうのという話ではありません。
生き方の基礎になる適法、違法の概念が違うのです。
たとえば飲酒運転は、日本では犯罪ですが、多くの国では犯罪ではなく、日常の常識です。

これは実際にあった例ですが、ある国の青年は、日本で何度も飲酒運転で捕まり、免許証も取り上げられていますが、罰金も払わず、平気で運転を続けていました。

彼の国では、飲酒して運転することは、日常であって犯罪ではないし、日本語がわからないから犯罪であることが理解できないのです。

ですからかつてのシンガポールでも、外国人犯罪に本当に困っていました。

そこで犯罪撲滅のために警察組織の再検討を目指したシンガポール政府は、犯罪の少ない日本を視察しました。
そして日本の「交番制度」に注目しました。

日本は、1981年からシンガポールの要請を受けて、交番設立のための専門家の派遣や、実務研修などの技術協力を行ないました。
そして1983年。シンガポールのトア・パヨに交番(NPP: Neighborhood Police Post)第1号が誕生したのです。

シンガポール政府は、続けて高層住宅団地の一階部分など住民のアクセスの良い場所に交番を次々と設置しました。さらに地域での防犯活動も進み、結果として、国全体での犯罪の発生率が急激に低下したのです。

日本とシンガポールで共同で実施されている「21世紀のための日本シンガポール・パートナーシップ・プログラム」では、両国が協力して途上国に対する研修を行うものです。

「交番システムコース」は最も成功した一つといわれています。

実はこの「交番」、日本人にとっては歴史の古いものです。
江戸時代には、現代の「交番」の前身にあたる、町奉行配下の「番屋」や「自身番」、大名によって配置された「辻番」などが置かれていました。

たとえば長屋ごとに設置された「番屋」は、ゴミやし尿処理、長屋内の清掃、共同井戸の管理などの他、防火や消防、冠婚葬祭の立会人などもその仕事のうちでした。

「番屋」といまのマンションの管理人との大きな違いは、長屋内(マンション内)で犯罪が起きた場合、番屋の管理人も処罰の対象となったことです。

犯罪というものは、起きてからでは遅いのです。
被害者も、加害者も、両者の家族にとっても不幸です。
ひとつの犯罪は、数多くの不幸を生産します。
ですから江戸時代、犯罪そのものが発生しない世の中を築くことを大切にしてきたのです。

たとえば、江戸時代の庶民生活を研究しておいでの秋吉聡子先生によりますと、借家で売春行為をしていたことが発覚しますと、その店主さんは遠島です。

番所の番人は、売春に直接関わっていなくても入牢です。
土地の地主さんも監督不行き届きで牢屋行きです。
さらに18世紀頃ですと、その建物自体が取り壊しです。
ご近所の五人組の人たち全員、一定期間、毎月罰金です。
隠れ売春には、これだけ厳しい制裁がありました。

ですから、ちょっとでも変な人は、借家も長屋も貸してもらえませんでしたし、大家さんも地主さんも、かなり頻繁に、自分の持ち物である土地や建物に異変がないかを監視していました。
その監視のために置かれていたのが、番屋の番人だったわけです。

その番屋の番人と、奉行所の役人やその下請けの岡っ引きなどは、日頃から良好な人間関係を保っていました。ですから少しでもなにか不穏な動きがあると、奉行所ではすぐに情報をキャッチすることができたのです。
ほんのわずかな奉行所の与力や同心たちで、江戸100万人の治安が維持できた背景には、番屋の存在が欠かせないものでした。

要するに番屋の番人は、いまどきのマンションの管理人や町会長や、町内自治会の班長などと違って、単にゴミ出しなどの管理をする人というだけでなく、長屋の住民に対して管理責任を負っていたのです。そして管理責任を負うということは、その管理のために必要な一定の権限も与えられます。

この「権限と責任は常にセット」という考え方は、日本神話にもとづいています。

三貴神の一角であり、天照大御神の実弟でもある須佐之男命でさえ、権力行使によって責任を問われているのです。神様でさえ権力と責任はセットなのです。まして人間なら、それはあたりまえのことです。

ついでにもうすこし脱線すると、会議というものは、あらゆることを民衆の代表だけで決めるというのが現代の選挙制度、代議士制度ですが、少し考えたら、どんなに地域の代表の代議員でも、問題によっては、利害関係のない問題もあるわけです。もちろんその逆もあります。

利害関係がなければ、当事者能力を欠きますから判断がいい加減になることもあり得ます。利害関係があれば、自分の欲や身贔屓に引きずられることもあり得ます。

ですから昔の日本では、大勢を巻き込むような事柄の意思決定については、利害関係者全員参加が原則でした。

たとえば、道路を造る、橋を架ける、土地を拓く、氏神様のおわす神社の改築をする等々、それぞれについて、「このようにしたい」という意思決定と、予算設定はお上が行いますが、その実行にあたっては、必ず、利害関係の発生する村人たち全員参加で、協議が積み重ねられたのです。

こうすることで、時間はかかっても、みんなの気持ちがひとつにされ、そのことによる利益も不利益も、全員が等分に負ったのです。

ところが明治時代に入ると、廃藩置県によって大名が廃止されました。
大名は、天子様から領土領民を預かる大名主のことですが、その大名制度が廃止されたために、町方の「番屋」(武家用は辻番)を統合する必要がでてきました。

そこで明治政府は、明治4(1874)年に、東京で「羅卒(らそつ)」を採用し、「羅卒」を配置するための「屯所(とんしょ)」を設置しました。
これがいまの警察署の元になります。

さらに明治7(1874)年には、東京に警視庁を設置し、「羅卒」の名称を「巡査」に改めました。そして「巡査」を東京の各「交番舎」に配置しました。巡査を交代で「屯所」から「交番舎」へ行かせ、立番や、周辺地域の巡回を行なうようにしたのです。

さらに明治14(1881)年には、「交番舎」を「派出所」と「駐在所」に分けます。「交番舎」は、屯所から巡査が通うところ、「駐在所」は、巡査が住み込む施設です。明治21(1881)年には、これが全国に拡大となりました。

「巡査」には、元・武士たちが優先的に採用されましたし、武士たちには「民の安寧を守る」という明確な誇りがありました。
また江戸時代からの番屋制度の流れから、一般庶民の理解も、「駐在さん」の存在は、昔からある番屋や奉行所の与力・同心などと同じものという理解でした。

ですから、「駐在さん」の働きは、常に庶民の生活の安寧を守る、ありがたい存在という理解でしたし、駐在さんの側も、自分たちの存在はどこまでも管内の人々の安寧のため、という強い自覚と信念に裏付けられるものでした。

町の人々と駐在さんは、ほんとうに仲良しでしたし、何か困ったことがあれば、常に相談の対象は、町の駐在さんであったりしていたわけです。

たとえば明治時代に殉職した増田敬太郎巡査は、管轄する地域がコレラに襲われたのですが、駐在さんとして、先頭に立って患者の家をまわり、消毒を行い、縄を張りめぐらして人々の往来を禁止し、生水を飲んだり、生のままの魚介類を食べないよう指導し、亡くなられた方を、自ら背負って対岸の丘の上の墓地に埋葬しました。

そして、自分もコレラに罹患して、お亡くなりになっています。

日本の交番勤務の駐在さんたちは、法の番人というだけでなく、庶民を守る存在として、地域の人々から尊敬され、信頼される人でした。
そしてその交番制度は、実は我が国では、江戸時代から続く400年の伝統と信用があったのです。

ところが最近では、日本における「交番」が、あたかも「制服を着た恐ろしい庶民の敵がいるところ」でり、警察官は「庶民の敵」であるかのような印象操作が行われています。

これは、戦前から続く反社会活動を行う在日外国人が、もっぱら警察を敵として宣伝活動を続けてきたことによります。

終戦後のGHQ統治期間、彼らは戦争当事国の第三国の戦勝国民であり、自分たちは朝鮮半島からの進駐軍であると自称して、日本人に対して、好き放題の乱暴狼藉を働きました。

増長した彼らは、ついに米軍の将校の妻女なども襲撃して強姦するといったデタラメを繰り返し、あまりのことにGHQは、いったんは完全解除させていた日本の警察官の再武装を認めました。

これにより、警察官による三国人の取締が始まるのですが、その取締に対抗するために彼らが偽装したのが赤軍や宗教団体で、これになかなか生活が良くならない庶民や労組や大学生たちが騙されていき、いつの間にか、「警察は庶民の敵」というような摩訶不思議な文化が生まれ、挙句、「警察は国家権力だから監視しなければならない」といった、おかしな論がまかり通るようになりました。

けれど、振り返ってみれば、昭和30年代、40年代頃には交番といえば、「優しくて立派な駐在さんがいるところ」
という認識が日本人の庶民間に深く浸透しており、町内の一人暮らしの老人の姿が少し見えなければ、ご近所さんは心配して交番の駐在さんのところに相談に行ったし、財布などの落とし物を見つければ、必ず交番に届けたりといったことが、ごく普通に行われていました。

いまでは喧嘩騒動があったり、不審な人を見かけたり、落し物を拾ったりしたら、110番に通報しますが、ひと昔前までは、誰もが交番の「おまわりさん」に相談に行ったものです。

この交番という制度は、身近なところに常に庶民の安全を守る駐在さんが常駐しており、怪しい人がいたら、すぐに相談に行ける場所が身近にあって、しかもその交番の巡査と日頃からの人間関係ができあがっているという体制は、治安維持のためにとても役立つものです。

ところが、世界には、もともとこの交番という制度はありません。
巡査というのは、町を歩いたりパトカーに乗って巡回するものであって、身近に常駐するということはないわけです。
当然、庶民と巡査との間には、距離感が生まれます。

日本はもともと犯罪の極端に少ない国家でしたが、それがなぜ実現できているのかは、多くの国の関心事となりました。
そしていまでは、ニューヨークのマンハッタンにも、こうした日本式交番が設置されるようになりましたし、インドネシアやブラジルにも、日本式交番制度が導入されています。

ブラジル・サンパウロ市内の交差点にある交番=14日(共同) 南米ブラジルで最大の人口を擁するサンパウロ州の州軍警察が、日本の協力により交番制度を2005年から導入し、殺人などの事件発生が大幅に減少する効果を上げている。

政府は「(交番制度は)治安改善の切り札」とみて、全土に広める。
他の中南米諸国への普及にも本腰を入れ、「犯罪大国」の汚名返上に躍起になっている。

同州の約270カ所に交番があり、サンパウロ中心街のビラ・ブアルケ地区では公園わきにガラス張りの交番が立つ。
13人の警官が2交代で常時勤務。
横行していた薬物売買や車上狙いも減り、夜間の外出も問題なくなったという。

州軍警察によると、地域住民と綿密に情報交換し、地域の諸問題の解決策を探りながら犯罪を予防するのが交番制度の狙いで、警官が常駐する交番はその活動の中心拠点。

警察署は、世界中にあるものです。
しかし警察署と交番では、大きな違いがあります。
もともと西洋では、城塞都市の中で紛争が起こったとき、少数の兵力ではどうにもならないから、常時大人数で待機し、なにかあったら大人数でおしかける。パロトールの警察官が襲われたら、大人数で押し出し、対抗するというのが常識でした。

昔の大陸では、小規模交番など設置したら、暴動の都度、そこは狙われ、破壊され、警察官が殺されてしまったのです。

これは、暴動や犯罪が「起きてから対処する」という制度上の欠陥によるものです。

日本では、暴動や犯罪そのものが起こらないように、平素からおまわりさんが街の人々と濃厚な信頼関係を構築し、暴動や事故そのものが起こらないように予防するということが、行われてきたのです。
だから少人数の交番で対処できたのです。

毎日のように出動して消火活動を行う消防署員は、実に勇壮で、頼りになる存在です。

しかしほんとうに必要なことは、火災そのものがおこらないように予防することです。
平素から防災のために、消防署の職員があちこちをまわり、火災の発生そのものがないように、指導する。
町ぐるみで火災の発生を抑止する。
その結果、火災が起きなくなる。消防署の出動回数は減る。
消防署員は暇になるかもしれない。
しかしそれはとっても良いことです。

同様に、犯罪が発生する都度、何十人もの警察官が出動し捜査し、犯人を逮捕することは、テレビドラマみたいで、とっても勇壮かもしれないけれど、犯罪が起きれば、それだけで庶民の暮らしは恐怖にさらされているのです。

犯罪そのものを抑止するために、地域住民と相互の信頼関係を構築する。
そのために辻々に交番を置き、地域の住民との信頼関係を構築する。
それはとても良いことです。

ただ、江戸時代の番屋と、明治以降の交番の大きな違いがひとつあります。

江戸時代の番屋は、長屋で何かがあれば、責任を問われました。
そして責任を問われる代わりに、長屋の治安等に関して、長屋の人々に対して一定の権限の行使が認められていました。
つまり、権力と責任が一体のものでした。

ところが番屋の番人が明治以降に公務員である巡査となることで、責任を問いにくい存在となりました。

派出所の管内で犯罪が発生したからといって、都度、警官に責任を問うて牢屋に入れたり遠島を申し付けたりすることはできません。
このあたりは、現状の交番制度の本質的な問題として、あらためて考えてみるべき事柄なのではないかと思います。

江戸時代の日本社会というのは、5人組という共同連帯責任を負わされる制度があったり、長屋毎に(これはいまで言ったらマンション毎に)置かれた番屋(管理人)によって、ある意味、監視される社会であったりという、面倒な社会という側面はあったかもしれません。

しかしこのことを日本社会が実現できたのは、庶民は天子様の「おほみたから」である、という明確な自覚があったからにほかなりません。
その「天子様のたから」を保護するのが、「おかみ」と呼ばれた「臣」の役割です。

「皇臣民」といいますが、「皇(すめらみこと)」は権力行使をせず、民を「おほみたから」とする。
「臣(おみ)」は、民への政治権力の行使者ですが、その民は、臣の雇い主である皇の「おほみたから」です。

そしてこの「民は皇によって、おほみたからとされている」という明確な自覚が、実は同時に「臣」に対する「民」の信頼にもつながっていたのです。

そして実は、世界に誇る日本の交番制度は、こうした「皇臣民」というシラス統治を根幹にしていたからこそ、交番は、単に犯罪者逮捕のための機構ではなく、庶民生活の保護者としての機能がもたらされていたということができます。

そうした父祖が築きあげてきた、日本の形について、私たちは、単に形式を継承したり、場当たり的な改善を施すというだけでなく、もっと大きな日本社会の本質として、あらためて議論すべきときにきているように思います。

ちなみに先日も書きましたが、カデロ大使が指摘されるように、交番に「KOBAN」とローマ字表記をすることは、どうみても間抜けなことです。
「KOBAN」では、日本語のわからない外国人には、まったく意味がわからない。
やはり交番には、「○○交番」と日本語表記する他に、もうひとつ「Police Dept」等と英語表記すべきだと思います。

是非警察にはご検討いただきたいところです。

ねずさん

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