「日本の歴史は半島トライではない」

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近年の日本の歴史学会の通説は、日本が支那の衛星文明であり、半島から進んだ文化が採り入れられたとするものです。

つまり西暦552年に百済王から仏像や仏教経典が贈られたことが、そもそも日本における文字文化のはじまりであると考えるわけです。

ところが仏教経典や仏像を贈られたことは、実は日本にとっては全然、ありがたいことではありません。

実はそれ以前の西暦512年に、百済は朝鮮半島にあった日本の直轄地である任那の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(おろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)という任那の西側4県を、倭国から騙し取っているのです。

当時の百済は日本の属国で、日本に王子を人質に出していたのですが、日本にゴマをする一方で、日本の政府高官に賄賂を渡して、領土を増やそうとしたわけです。

これがケシカランと、当時の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)、のちの安閑天皇が猛反対したという記述が日本書紀にみられます。

ところが、割譲派の人たちが、「百済は日本の属国であるし、海を渡った向こうにある土地なのだから、百済に面倒を見てもらうのも良いではないか」みたいなことを言い出して、結果、日本は領土の割譲をしてしまっています。

ところが任那の4県は、自分たちはどこまでも倭国の民であって、百済ごときの民ではないと怒り、その後およそ百年に渡って百済への納税を拒み続けて、倭国に納税を続けています。

普通なら、ここで百済が怒って兵をあげそうなところですが、なにせ倭人たちは強兵です。百済は、政治的に任那4県を手に入れはしたけれど、事実上の支配はできないまま、百年が徒過したわけです。

この時代、百済は新羅や高句麗の軍事的圧力を受けています。

ですから、倭国の土地を騙し取りはしたものの、倭国との関係の悪化はどうしても避けたかったのです。

それならば、領土を騙し取るようなツマラナイことをしなければ良いと思うのですが、そこが半島特有の二枚舌で、欲張りなところです。
一方、百済の日本における立場は、やはり任那4県を騙し取ったということが、どうしても「しこり」になります。

どうにも座りが悪い。

そこで百済が、日本にゴマをするために行ったことが、唐の坊さんの日本への派遣と、仏像と仏教経典の日本へのプレゼントであり、これが「仏教伝来」と呼ばれるものです。
全然、ありがたくないのです。

普通、こうしたときにはその国のもっとも進んだ文化物が贈られるところなのですが、百済が贈ったのは、すべて唐のものであったということは、百済には倭国に負けないだけの優れた文物が、何もなかったということを意味します。

ちなみにこの時代、百済と新羅は国王の息子であり、次の国王となる王子を、倭国に人質に出しています。

百済が滅ぼされたときも、倭国には豊璋王(ほうしょうおう)という名の百済の王子がいました。この時代、属国となった国は、その宗主国に次期国王となる王子を人質に差し出すのが習わしだったのです。

従って、この一点をもってしても、百済や新羅が、日本よりも進んだ文化文明を持っていた先進国であり、日本が遅れていた国であったという事実は否定されます。

しかも日本が、百済や新羅に皇太子を人質に出したという実績は、歴史上、ただの一度もないのです。

つまり、552年の百済からの仏教伝来は、日本にとってはありがたいことでもなんでもなくて、任那の半分をだまし取った百済が、倭国にゴマをするために、倭人たちが喜びそうな仏像や経典を贈ったということにすぎないのです。

そして仏教経典を贈られて、倭人たちが喜ぶということは、倭人たちにはその時点で、漢語で書かれた書を読む力が当然にあったということを意味します。

さらにいうならば、西暦57年には、倭の奴国王が後漢に使いを送り、「漢委倭奴国王」の金印を戴いていますが、およそ印というものは、文書に押捺するものです。

文字文化がない国へ、しかも金印を贈るなどは、当時の東亜社会においてありえないことです。つまり、1世紀の段階で、日本では、普通に文字が使われていたということです。

そもそも、文明文化を語るに際して、どちらかが「進んでいて」、どちらかが「遅れていた」という認識の仕方自体が間違いといえます。

文化文明というものは、その土地に合った文化文明が起こり育まれるものです。ですから進んでいるとか遅れているとかいう考え方自体が誤りです。

たとえば、南方の島々では、いまでも原始時代さながらの生活が行われている島があります。それは遅れた文化文明なのかというと、そうではないと思います。その土地にあった社会の仕組みが営まれているのです。

そもそも、進んだ文明といわれる西欧文明においては、一生懸命に働いて大金持ちになってどうしたいのかといえば、老後は南の島で釣り糸を垂れながらのんびりと過ごしたいから、なのだそうです。

そのような生活なら、南の島の住民は、生まれたときから手に入れています。

今日のタイトルに「日本文化は支那朝鮮からの渡来ではない」と書かせていただきました。

日本には日本の文化文明があり、必要に応じて大陸からの文明を採り入れて、日本人は文化文明をつむいできました。

秦の始皇帝は、不老不死を求めて、人類のもっとも進んだ文化文明を持つ蓬莱山へと使いを送りました。

その蓬莱山がどこかと思ったら、なんのことはない、日本のことです。

日本は、いまも昔も、人類社会の天国に一番近い島なのです。

ねずさん

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