蔓延

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蔓延(はびこ)る賤民資本主義

強欲資本主義が世界を横行してゐる。
悪(あく)の野蠻國(やばんこく)が三つある。
米國、ロシヤ、シナ。

三者に共通する野蠻は、他者を際限なく貪(むさぼ)る者を野放しにしてゐる點(てん)にある。
これでは、世界は修羅の巷(ちまた)になるほかない。
「金儲けは悪いことですか?」と問ふた人が居た。

悪事に決つてゐるではないか。
それが目的なら。
それがけじめを辨(わきま)へぬなら。

給食費を拂(はら)つてゐるから、
「戴(いただ)きます」
「御馳走(ごちそう)様」
と言ふ必要はないと言つた母親が居(ゐ)た。

植物にせよ動物にせよ、生ある物の生命を戴いて生きることへの感謝の念が根本にあり、育てた人、調理した人への謝意も含むことを忘れた罰當(あた)りな發言(はつげん)である。
このやうに、日本も腐つて来た。

責任ある地位に居ながら、税金や利權(りけん)にたかるだけで責任を果さぬ「背任横領の徒」が蔓延(はびこ)つてゐる。
とつくの昔に占領が終つて獨立(どくりつ)した筈(はず)なのに、日本弱體(じゃくたい)化の占領政策を政府もメディアも後生大事に守つてゐるのでこんなことになつた。

略字・漢字制限・現代假名(かな)遣(づか)ひは、戰後育ちに戰前の書物を讀(よ)ませぬための日本文化断絶(だんぜつ)策だつたのに、政府もメディアもひたすら遵守(じゅんしゅ)してゐる。
こんな政府もメディアも「反日の元兇(げんきょう)」と言はざるを得ない。

▼野蠻國へ退化するか

正統を護持せずに、何で日本が日本で居られやうか。
私は5年前の5月に「反日蔓延る不思議の國日本」を、昨年3月に「動物文明から植物文明へ轉換(てんかん)しやう」を、この欄に書いた。
再讀三讀して頂きたい文章である。

日本は元禄以降、つまり18世紀に世界最初の文明國を築いた。
勤勉實直(じっちょく)・薄利多賣・見ず知らずの他人を信用してかかる高信用社會(かい)である。
西歐(せいおう)が高信用社會を築くのが19世紀だ。
ロシヤとシナは現在に到るまで、やらずぶつたくりの低信用社會の儘(まま)に留まつてゐる。

米國は原住民も黒人も排除した「市民」だけで造つた人造共和國である。
移民社會だけに、下層民を信用してゐない。
だから大統領を選ぶのに、一般國民の直選にせず、大統領選擧人(信用ある名望家)を選ばせる間接選擧を採用して現在に到る。
共和國(國民が市民共同體を形成し、自由で平等で友愛の間柄)と帝國(人民は雜多で不自由・不平等・差別)の二重構造なのだ。

日本は天皇家を宗家とする家中心の安定した社會構造を持つてゐた。
それを占領軍が民法を長子相續(そうぞく)から均分相續に變(か)へた。
それ以來、家も近隣社會も國民共同體もばらばらに分解した。
そこへ慾惚(よくぼ)けと邪魔臭がりに基くやらずぶつたくりの利己主義が蔓延して、今や野蠻國に退化しつつある。

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▼みそぎによる浄化を
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占領軍に限らず、外國は日本を弱體化することによつて生延びやうとしてゐる。
19世紀ロシヤにニヒリズムが生れて以來、人生と社會を根底から破壞するニヒリズムが世界に蔓延して來た。
共産主義(レーニン主義)は、ロシヤ・ニヒリズムの嫡出子である。

曾(かつ)て素晴しい共存共榮(きょうえい)の社會を築いた大和民族がかうまで墮落(だらく)した姿を見るにつけ、私は「死んでも死に切れぬ」思ひを禁じ得ない。
美と崇高への獻身(けんしん)、謙虚で強くて慈愛に満ちてゐたあの立派な日本と日本國民は何處(どこ)へ行つた?

みそぎによる浄化が必要だと思ふ。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)による國民精神の再生が不可欠だと思へてならない。
それが日本だけでなく、世界をも救ふ筈である。

幸か不幸か、目下、米國の強欲資本主義に端を發する金融危機が、世界經濟を破綻(はたん)に導きかけてゐる。
これが、日本を含む人類の浄化に役立つかも知れない。
といふより、これを契機に新しい共存共榮が出來るやうに文明を轉換すべきである。

奪ふ文明、人間性を破壞する文明から、與へる文明へ、多元的で寛容な美と慈悲の文明へ。
幸ひ、日本には天皇陛下が居られる。
今上陛下が體現してをられる美と崇高と獻身と優しさこそ、日本を救ひ、世界を救ふ植物文明の原理である。

日本は、慾惚けと邪魔臭がりと引籠りから脱却し、生きる歡びに目覺めるべき秋である。
物的欲望は最小限に抑へ、仲間との絆(きずな)に基く聯帯(れんたい)と心の豐かさを求めるべき秋である。

この原稿はその趣旨から「正漢字・歴史的假名遣い」で執筆しました。
(いはらきちのすけ)

 ***

まさに正論だと思います。
そしてこのようなご意見は、戦後ずっといろいろなところでささやかれ続けてきたことです。
ところが怒涛のような時代の波に打ち消され、これまではごく一部の人々の中でささやかれていた少数意見でしかなかったわけです。

ところがここへきて、戦後体制の申し子といえる民進党議員たちのあまりの醜悪さ、日本全体に起こった経済格差の拡大、終身雇用などの古くからある日本の姿の変更による富の偏在と貧困の拡大、まるでおとなりの国かと思わせるような(というか実際にそうなのだけれど)大学生による女性への集団暴行事件の多発など、あまりの醜悪さから、「本来の日本とは」ということに多くの人々が「目覚めなければならない」と自覚しはじめるようになりました。

そうした中で、上にあるようなご意見をあらためて読むと、なるほど、とご納得いただけることも多いのではないかと思います。

さて、「三大神勅(さんだいしんちょく)」という言葉があります。
天照大御神による、
1 天壌無窮の神勅(てんじようむきゅうのしんちよく)
2 宝鏡奉斎の神勅(ほうきようほうさいのしんちよく)
3 斎庭稲穂の神勅(ゆにはいなほのしんちよく)
という3つの御神勅です。

これは日本書紀に出てくるお話で、
1は「豊葦原の千五百秋之瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たる可き地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。行牟、寶祚の隆えまさむこと、當に天壌と無窮かるべし」というもので、稲作をずっと続けなさいというもの。

2は「吾が兒(みこ)、此の寶鏡を視まさむこと、當に吾れを視るがごとくすべし。與に床を同じくし、殿を共にして、斎鏡(いはいのかかみ)と為す可し」というもの。

3は「吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が兒に御せまつるべし」というものです。

このうち1と3が稲作に関する御神勅となっています。

実は先日、日本は縄文以来、狩猟採取生活をしてきた国であって、それを稲作中心の文化にしたことが国を歪めた原因であるとおっしゃられた方がいました。
なるほど、稲はもともと熱帯性植物であり、西日本にとっては稲作は良いものであったとしても、東日本にとっては、いまでこそ品種改良によって寒冷地でも美味しいお米が採れるようになりましたが、昔は本当に苦労であったわけです。その意味ではご指摘のように、我が国は狩猟採取型と、稲作農耕型の二つの文化が隣り合わせにある国であるということになります。

ところが稲作を否定すると、三大神勅の1・3とぶつかってしまうわけです。
実は、古来この点が、我が国統治にとって最大の悩みの種でもありました。
なぜなら、ご指摘の通り、東日本と西日本では作付けの内容が異なるからです。

ところが古事記は、この問題をまったく起こしていません。
そもそも古事記には、この三大神勅は書かれていないのです。
では古事記がどのように書いているかというと、
要約しますと、
「物流や流通が織りなす商業国家は、中心が欲得になるから世の中が騒々しくなり、また、一部の人にだけ富が偏在するようになる。だから我が国は生産・製造・建設などのモノ作りを国の柱とし、そのために迩々芸(ににぎのみこと)が天孫降臨した」
と書いています。

もちろん水穂の国として、稲作を大切にするのですが、稲作だけにこだわらず、モノの生産活動そのものを大切な「黎元(おほみたから)としていくということが描かれているわけです。

少し考えたらわかることですが、商業流通物流社会というのは、安く買い叩いて高く売れば儲かります。ですから、仕入支那の王朝は、ずっとこれが統治の基本でしたし、今の中共政府も、共産主義を標榜しながら、実際にやっていることは、企業を公営化した商業国です。

商業国の場合、モノ作りをする人は、常に買い叩かれることになりますから、生産者は安くしなければ作ったものを買ってもらえないし、安く売れば生活が圧迫されます。そうなると、よい物をつくるよりも、いかに儲けるかのほうが、世の中の価値観の中心になります。

そして売るため、買うために、ウソをついてでも自分さえ儲かれば良いという風潮が世の中を支配することになります。

ところが、誰もがそのような方向に向かうと、誰もが大金持ちになってシアワセに暮らせるようになるかというと、そんなことは100%ありえません。

極端に強欲な一部の者だけが大金持ちになり、その他の圧倒的多数の人々は貧困を強いられるようになります。

そういう社会の状態を、古事記は「狭蝿那須満(さばえなすみつ)」と書いています。

まるで狭いところでたくさんのハエがブンブン飛び回っているような情況だというのです。

あるいは「伊多久佐夜芸弖(いたくさやぎて)あり」と書かれています。
ひどく騒々しいというのです。

神々は、そのような社会を望まれない。
では、どのようにしたら良いのか。
答えから先に述べますと、古事記は、「モノ作りを国の柱にしなさい」と説いています。

モノ作り社会というのは、生産者や製造者が大切にされる社会です。
その生産者や製造者が「おほみたから」です。
農林水産業に従事したり、製造業、建設業などの一字二次産業に従事する人々こそが、国の宝だというのが、古事記の姿勢です。

これによって、生産者や製造者が「買い叩かれることがない」社会を築こうとしてきたのが、古くからの日本です。
生産者や製造者が「買い叩かれることがない」ということは、市場競争は、価格ではなく品質での競争となります。
いかに儲けるかではなくて、いかに良いものをつくるかが、世の中における正しい価値観とされるのです。

つまり、次のようなことです。

 ☓ 商業中心の経済=価格競争社会
 ◯ 生産中心の経済=品質競争社会

上にある井原先生の小論も、先日お会いした稲作ではなく狩猟民だとおっしゃられた方が憂いておいでなのは、まさにこのことなのではないかと思います。
古事記には、このように我が国が国是としてきた価値観の源が明確に書かれています。
そしてそのことは、どれも日本再生のヒントになることですし、企業経営や組織運営、あるいは人間関係などにおいても、役立つ挿話が、ずらりと並び、描かれています。

このことは、古事記の上辺だけを読んでも、まったくわかりません。
少しきつい言い方をするならば、同じ話でも、幼児向けの童話として読むときと、おとなが読むのでは、読み方が違って当然です。
たとえば大国主神(おほくにぬし)は、八十神(やそかみ)たちの荷物を運んでいました。
荷物を持たせた八十神たちは、手ぶらで自分たちの楽しみだけを夢見ていました。
けれど、最後にはその八十神たちは討伐され、地味に荷物を運んでいた大国主神が、大いなる国の主になるのです。
そこには明確なひとつの価値観と、古代の日本からの現代日本人へのメッセージがあります。

日本人が古事記を取り戻すということには、私たち日本人としてのアイデンティティを取り戻すということです。
そしてそのことは、実は世界の構造をも一変させてしまうだけの大きなポテンシャリティがあります。
いまこそ古事記の蘇りが必要なときに至ったのです。

ねずさん

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