「古代ハイウエイ」

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古代の偉大な建築物は秦の始皇帝の万里の長城やエジプトのピラミッドです。その時代、日本は文明がなかったようなことを言われていますが、とんでもありません。古墳時代が終了して、奈良時代になると日本は恐るべき大事業を行ったのです。

全国の4千キロにわたってハイウエイを造ったのです。本当にビックリします。日本人はすごいものを造ります。約2千年前のことです。奈良から始まるのですが、すべて直線の道路です。山があればよけて通るのではなく、山を崩して道路を造ったのです。

古代のハイウエイは、古代日本の中央政府が飛鳥時代から平安時代前期にかけて計画的に整備・建設した道路です。地方では6~12メートル、都の周囲では24~42メートルに及ぶ広い道路幅です。また、路線形状が直線的である(時に直線が 30km 以上)という特徴を持っています。

すごい道路です。両側には排水溝があり、道路には石を引きつめて下に木炭を引いています。今のアスファルトと同じ構造になっていたので、何台もの車が通れるそれだけの強度があったのです。

約30里(16キロ)に1カ所の厩(うまや、駅)があったのです。駅には馬屋があり、駅伝制を布いていたのです。これを宿駅伝馬制度といいました。これが古代のハイウエイです。古代にハイウエイがあったことは、教科書でも教えません。

要するに朝廷に納めるための年貢を運ぶために道路を造ったのです。古代のハイウエイを通り、全国から特産物が朝廷に届けられたのです。担いで持ってくるのではありません。車で運ぶのですから、道路は車が通れなければいけません。車が通る立派な道だったのです。

山は崩して道路を造ったので、4千キロにわたる古代のハイウエイは完成していたのです。すごい技術力です。発掘調査などによれば、少なくとも大化の改新直後には畿内及び山陽道で直線的な駅家(うまや)の整備が行われ、680年頃までには九州(西海道)北部から関東地方(東海道)に至るまでの広範囲にわたって整備が進んだようです。

古代のハイウエイは現代の高速道路と在来道路との関係に類似しているとの指摘もあります。実際に、古代駅路と高速道路の設定ルートや、駅家とインターチェンジの設定位置が、ほぼ同一となっている事例も多くあります。

古代のハイウエイを通り、年貢はただちに奈良に集まったのです。一瞬にして各地方に行くこともできたのです。軍隊の移動もこの道路を使うから、何万名の軍隊も瞬時に地方におくることができたのです。

そのように考えていくと、日本は古代から超大国だったのです。朝鮮人がいうように「何もない日本に文化を伝えてやった」という事実は全くありません。そんなすごい文化を日本は持っていたのです。

古代のハイウエイの跡が各地から出てきて、証拠があがってきたのです。畑の中に道路の跡があるのです。これを通って東から西から北から南から物資が往来し、人々が往来し、豊かな文化が朝廷の元へ集まったのです。

日本は大国です。一瞬にしてどこへでも行けたのです。「九州へ行け!」「関東へ行け!」と命令すれば、軍隊は素早く現地に到着することができたのです。これも道路がなければできません。道路は非常に大事です。道路は国力につながります。

奈良時代、朝鮮半島には道路はありません。道路を造ると、敵が道路を通って攻めてきます。だから、「道路はない方がよいのだ」という考え方です。

一人か二人しか通れない道しかなかったのです。それを獣道(けものみち)といいます。朝鮮人は獣道を重たい土甕を担いで、そこに荷物を入れて運んでいたのです。

日本でいうと剛力(ごうりき)のようなものです。剛力は山の頂上に荷物を届けます。一人で30キロくらいの重い荷物をしょって山を登るのです。それを剛力といいます。箱根や富士山には剛力がいたのです。頂上の小屋まで剛力が荷物を運んだのです。

人間一人が運ぶのですから、持てる荷物の量はたいしたことはありません。今だとインスタントラーメンや、水などを積んで小屋まで運ぶのです。車でいける所ではありません。人が運ぶので、運搬料金は高いのです。富士山の頂上などはヘリコプターではいけません。剛力が荷物を運んだのです。

朝鮮半島は剛力文化です。人間が物資を担いで運んだのです。朝鮮半島には、ハイウエイなどという文明的なものは何もありません。橋もありません。ひどい文化だとわかります。この道路一つを見ても日本は最高の文明国です。幅12メートルの道路が約4千キロもあったのです。

朝鮮半島ではこのような道路は絶対にありえません。朝鮮は剛力文化です。獣道を通って物資を運んでいたのです。

この獣道はすごいのです。江戸時代の話ですが、「箱根八里は、馬でも超すが」という言葉があります。箱根の旧道は道幅が狭いのです。1人か2人しか通れません。その下には丸い石がゴロゴロと置いてあるので、それにコケがはえて雨が降るとすべるのです。転んだら大怪我をします。その道をどんどん登っていくのです。

「♪箱根の山は天下の険♪」という歌があるように、箱根越えは本当に大変だったのです。年寄りや、怪我人は箱根を超えられません。峠の茶屋が山の上にあり、そこでは団子など出したのですが、材料は剛力が運んだのです。

箱根越えは大変だとわかります。石畳と言うと、神社にあるようにピシッと敷き詰められている石畳を想像しますが、そうではありません。箱根の石畳は石がボンと置いてあるだけですから、転んだりすると足を切って怪我をしてしまいます。

箱根では戦争などできません。これは余談ですが、勝海舟は「官軍を箱根でやれ」と言ったのです。官軍が攻めてきても箱根は超えられません。ほんとうに危ない道です。雨が降るとツルン・ツルンと足がすべるのです。道は泥沼になり、道は一人か二人しか通れません。徳川幕府は、わざとそうしたのです。

そこで軍艦が相模湾から行って攻撃すれば官軍は全滅です。当時、幕府は軍艦をたくさん所有していました。艦砲射撃すれば官軍は箱根を登れません。そうすれば「幕府は官軍に勝てる」と言っていたのです。当時、幕府にはお金もあったし、旗本八万騎の戦力があったのです。

何故負けたのかというと、「戦争をやるべきではない。国内が2つに割れる」と考えたのです。それが勝海舟の進歩的な考え方だったのです。

それはともかくとして、朝鮮半島の道は獣道しかなかったのです。古代から日本は大量の物資、大量の兵隊を瞬時に移動できるハイウエイがあったのです。日本は本当にすごい文化大国だったのです。
 
徒然日記

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