「聖徳太子」

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最近の歴史の教科書には「厩戸皇子」と記述されている聖徳太子ですが、歴史の授業で「聖徳太子が中国の皇帝に出した手紙に『日没する処の天子(=中国)』と書いたことで皇帝が激怒した」と習ったことをご記憶の方も多いかと思います。

しかし、今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介されている小学校教諭・齋藤武夫先生によれば、皇帝が激怒した原因はこのフレーズではないとのこと。

では一体なぜ? メルマガ記事では、受け持ちの児童たちにその理由を考えさせる齋藤先生のユニークな授業風景が描かれています。

聖徳太子の大戦略

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。

齋藤先生は授業の冒頭でいきなり黒板にこう書いて言った。「さあ、読んで下さい。読めないところはホニャラと読みましょう」。小学校6年生の子供たちを先生は列ごとに指名して、順番に読ませていく。
「ひのでるショのテンシ、ショを、ニチボツするショのテンシにいたす。ホニャラなきや」

わけのわからなさに笑いが起こる。初夏の風が通う教室は和やかな気分につつまれた。『学校で学びたい歴史』で紹介されている齋藤武夫先生の授業風景である。

「大変よく読めました。ほとんど正解と言っていいでしょう。それではふつうの読み方を教えましょう。」と言って先生は、こう読み上げた。

「ひいづるところのテンシ、ショを、ひぼっするところのテンシにいたす、つつがなきや」

先生について、子供たちに後を続かせる。その後、子供たちだけで声をそろえて二度ほど読ませる。皆で一斉に読むので「斉読」と呼んでいる。
誰が誰に出した手紙でしょう?

「これは、歴史上たいへん有名な手紙の書き出しです。ある意味で日本の歴史の中で最も重要な手紙だと言えるかも知れません。誰が誰に出した手紙でしょう?」

先生の問いかけに、一人の生徒が答えた。「聖徳太子からツツガナキヤさんに出した。」

「すばらしい。聖徳太子は半分正解です。ですが、ツツガナキヤは人の名前ではありません。この手紙は、当時の女性天皇だった推古天皇の摂政、今で言えば総理大臣だった聖徳太子が書いて、推古天皇の名で、どこかの国のトップに出したものです。国書と言って、国から国へ出した手紙です。どこの国に出したのでしょう」

「中国だと思います」とすかさず、別の生徒が答える。
「大正解。この国書は推古天皇から中国の皇帝にあてた手紙です。出されたのは西暦607年、この国書を出すまでの100年ほどの間、日本は中国との直接のつきあいはありませんでした。中国はいくつかの国に分裂して争っていたからです。

ところが、ちょうど聖徳太子の頃、隋という大帝国が中国を統一します。聖徳太子は中国から進んだ文化を学ぼうとして、遣隋使という使いを中国に送りました。その代表が小野妹子です。

『妹子』ですが、この人は男性ですよ。この国書は、小野妹子が隋の皇帝に渡したものです」
ここで齋藤先生は、もう一度、手紙の文章を皆で斉読させた。漢文の歯切れの良いリズムが子供たちの体に心地よく響いてくる。それは聖徳太子の強い意志を伝えるかのようだ。

なぜ隋の皇帝は激怒したのか?

皇帝はなぜ怒ったのか?
「さて、隋の宮殿に着いた小野妹子は、皇帝の煬帝(ようだい)に天皇からの国書を渡しました。皇帝は手紙を読み始めたとたん「このような野蛮国の無礼な手紙が来ても、これからは私に見せるな」と臣下に言いつけたそうです。この手紙のどこかに皇帝を怒らせる言葉があったのですね。それはどの言葉でしょう」

「なんとなくだけど、『つつがなきや』」と自信なさそうな答。
「『つつがなきや』は意味が分からないからね。怪しいと思ったでしょう。でも残念でした。これは『お元気ですか?』という意味です。

別の生徒が答えた。「『日出づる処の天子』と『日没する処の天子』です。『日出づる』日本はこれから発展していく感じですが、中国は『日没する』でこれから夜になるみたいです」

「本当にそうですね。先生も子供の頃はそう教わりました。だから正解とします。でも、これについては単に東と西という意味で、皇帝もそんなに気にしなかったのではないか、というのが、最近の研究のようです。実は皇帝がいちばん許せなかったのは『天子』という言葉なのです。なぜでしょう?」

「日本の天皇と中国の皇帝が同じ偉さになってしまう。だから、そんなこと絶対に許せんって中国は怒ったんだと思いました」
「よく考えましたね」と齋藤先生は当時の「冊封(さくほう)」体制について説明を始める。中国の皇帝が一番偉くて、周りの国は皇帝の家来であり、中国に貢ぎ物をして、そのお返しに自分の国の「王」だと認めて貰う仕組みである。

どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを書いたのか?
いよいよ授業は、核心の問いに到達した。齋藤先生は言った。
「聖徳太子は、どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを書いたのでしょうか? 自分の考えをノートに書きなさい」

その授業でいちばんノーミソを使ってほしいところでは書かせるのがよい、というのが齋藤先生の流儀だ。生徒たちは一生懸命ノートに向かう。静かな教室に鉛筆の走る音だけが聞こえる。しばらくしてから挙手している生徒を指名して答えさせる。

「これからは、中国と日本の関係を親分子分じゃなくて、日本は独立して中国と同じになる」
「前は日本は中国に従っていたから、『邪馬台国』の邪とか、『卑弥呼』の卑しいとか、悪い字を使われていたじゃないですか。そういう関係はイヤだと思った」

言っている内容は似ているが、言い方にそれぞれの子供の個性が出る。
そんなにうまくいくのか?

「ちょっとみんなに言いたいんですけど」と一人の生徒が反論する。
「国と国とが平等になって独立するのはいいんですけど、日本はこれから中国から文化とかを学んで発展したいんじゃないですか。それなのに、いま親分子分の関係をやめて中国から離れてしまったら、文化や技術を学べなくなっちゃうんじゃないですか?」

この反論から、生徒間の議論が始まった。
「中国の下にいたら、何でも自由にはできない。それだったら、中国から学べないとしても、独立してやっていく方がいい」
「中国から学んでも、国としては平等になろうということだから、中国にそれを認めてもらえれば、それはできると思います」
「でも、実際には皇帝は怒っているんですよね。うまくいかないと思うんですけど」
一人の子供の反論から始まった議論で、子供たちは分かっていたつもりの風景を、反対側からも見るようになった。反論が出せる教室は素晴らしい、というのが齋藤先生の思いである。

聖徳太子が国書に込めた「決意」

聖徳太子の読み
「みんなよく考えました。冊封体制から離れて、国として中国と対等の関係になるというのが、まさしく聖徳太子の考えです。
特に最後の話し合いは大変重要です。確かに、もしこの政策によって中国からまったく学べないことになったら、留学生を送れなくなって、聖徳太子の考えた日本の発展はなくなるかもしれません。学べなくとも中国の子分でいるよりは独立を選ぶという意見がありましたが、実は聖徳太子にはある読みがあったらしいのです。ある理由があって、日本を独立させるにはこの計画は必ず成功するという確信がもてた。だから聖徳太子は決断したのです。その理由を説明しましょう」

隋は、朝鮮北部を領土とする高句麗との戦争にてこずっていた。その戦争を有利に運ぶために、隋は日本を味方にしておきたいはずだ、そういう聖徳太子の国際情勢の判断を、齋藤先生は地図を使って説明していく。遠くの国を味方にして、近くの国を攻める「遠交近攻策」という中国伝統の戦略についても説明する。子供たちから「すごいなあ」という嘆声がもれてきた。最後に齋藤先生はこうまとめた。

「中国(隋)を先生として尊敬しこれからも学んでいくが、国と国との関係は対等になりたい。中国との親分・子分関係をやめて、国としては中国と対等の関係にしたい。ズバリ言えば自立した国、独立した国になりたいと聖徳太子は考え、この国書でその考えを実行したのです」

「皇帝」と「天皇」
これに続けて、齋藤先生は次のように黒板に書いた。

「東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す」
今度はすぐに読み方を教え、全員で斉読する。「ヒムガシのテンノウ、つつしみて、ニシのコウテイにもうす」
「これは、その翌年に、再び隋の皇帝に送った国書の書き出しです。東の国日本の天皇が、西の国隋の皇帝に心をこめて申し上げる、という意味です。

聖徳太子は、このときも中国の冊封体制から外れて独立する、中国と日本を対等な関係にするという大方針を変えませんでした。それがわかる言葉はどれでしょう」

「『皇帝』と『天皇』だと思います」とすぐに一人の生徒が答えた。
「その通りです。『皇』という字は中国の『皇帝』だけが使える特別な文字でした。だから、子分の国の王様には『王』という字を使わせていたのです。ところが、この手紙で日本の王は『天皇」ですよと言ったわけです。これからは日本も『皇』の字を使います、という事です。
天皇には北極星という意味があるそうです。天の星はすべて北極星の周りを回りますね。国のまとまりの中心という感じがよく表れている言葉です。

中国の皇帝はまた怒ったでしょうが、実際はどうだったか、記録はありません。しかし、この後も遣隋使は続けられたので、隋は『天皇』という言葉を受け入れたことがわかります。この国書によって、日本の自立は完成したと見てよいでしょう。

聖徳太子は、見事に『中国から進んだ文化を学ぶ』『国としては自立し、中国と対等につきあう』という二つのねらいを実現したのです。

歴史を通して見える、日本人が持つべき「誇り」

子供たちの感想
この授業のあとで、子供たちは次のような感想文を書いた。
聖徳太子がいなかったら、もしかしたら今でも日本は中国の家来になってしまっていたのかなと思った。国の大きさや力はちがっても、同じ国々なのだから、対等につきあうのがよいと思った。

聖徳太子の方針はすごくいいと思った。「自分の国は自分の足で立つ!」「今までのような日本ではだめだ」。そう気づいたのだと思う。…今こうして「日本」という国が独立してやっていけるのも聖徳太子のおかげだと思った。

聖徳太子の隋と大和(日本)が平等につきあえる国にするという考えは、ふつうの人は思いつかない。私なら、自立したらもうつきあいはないと思ってしまう。独立はつきあいがなくなるわけではない。現在の日本と中国も昔を見習ってほしいと思った。

隋に、日本も隋も平等だという手紙を出した聖徳太子の勇気に感動しました。隋の皇帝に怒られたりどなられたりしたのを耐えた小野妹子も、すごい根性だなと感心しました。

ぼくはみんなと少しちがって、わざと隋の皇帝を怒らすなんて「何やってるんだよ」と思っていた。自分が聖徳太子だったとしても、こんな危険な賭けはやらなかったと思った。ぼくも日本を独立させたいと思うのはいっしょだけど、もっとちがうやり方を考えたと思う。ただ、聖徳太子が国づくりの天才だということはまちがいない。日本の国に誇りを持っているのだと思う。

今の日本に欠けているものを教える歴史授業
生徒たちは、この授業から実に多くの事を受け止めている。国家の独立と対等な外交を求める気概、時には相手を怒らしても主張を貫徹する交渉力、そしてその根底にある自国への誇り。今の日本に欠けているものばかりである。

こうしたことが抽象論でなく、具体的な事件を通して学べる点が、わが国の歴史の豊かさなのである。その豊かな地下水脈から先祖の思いや考えを引き出して、子供たちの素直な感性に注ぎ込み、そこから瑞々しい感動を呼び起こす齋藤先生の授業方法には感嘆の念を禁じ得ない。

齋藤先生の「学校で学びたい歴史」には、さらにキリシタン問題、廃藩置県、東京裁判などを通じて、我らの父祖がどのような思いと考えで、それぞれの困難な時代を生き抜いてきたのか、を生徒に考えさせる授業が紹介されている。こういう授業で育った子供たちが大人になったら、まさに「国際派日本人」としてわが国の未来を開き、国際社会で立派に活躍してくれるだろう。

MAG2

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