「主権」

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憲法改正に向かって大事なことは、政治家には無理だとわかった上で言っておきます。主権を天皇に帰すのです。これが憲法改正でなければいけません。主権は天皇にあります。我々に主権はありません。

そこに「公」が成立してきます。国民に主権があったら「公」はありません。みんな個人の意見がぶつかりあって、「俺が、俺が、俺が・・・」と権力の分捕り合戦ですから、「公」などありません。

天皇に主権があって、国民に主権がないから「公」という言葉が生きてくるのです。「お前達国民は勝手なことをやっていていいのだよ。主権は天皇にあるのだ」ということです。天皇の存在とは、「この紋所が目に入らぬか!」というようなものです。すると国民は「ハッハッー」となるのです。天皇は主権者です。

戦前はそうです。徳川幕府も太閤秀吉も、天皇のご意向がなければ何もできません。天皇は主権者です。「この人間を大名にしようと思いますが、如何でしょうか」と言われて、幕府が大名にします。

「守(かみ)を与えてくれませんか?」というと、それは天皇しか与えられません。多額なお金を持ってきて、「今度、この人間を安房の守にしてもらえませんか?」とお伺いをたてて、天皇の許可を得て「安房の守」という位を天皇からもらうのです。天皇しか出せない位です。天皇から守(かみ)という位をもらい始めて「安房の守」になったのです。

「守(かみ)」とは守り神という意味です。その土地と民を守るのです。天皇から位をもらい始めて「安房の守」と名乗れるのです。主権は天皇にあります。それがないとおかしなことになってしまうのです。

人間には変わっていけないものと、変わらなければならないものがあります。民意など変わっていくものですから、変わっても構いません。それだけだと右に行くか、左に行くのかもわかりません。

風の向くまま気の向くまま、世界の情勢により、どこに行くのかもわかりません。国民だからいいのです。日本国の主権者は天皇です。これは動いてはいけないのです。この両方がないと上手くいきません。片方だけではダメなのです。

フランス革命では国王がギロチンにかけられました。庶民が王様をギロチンにかけたのです。下剋上でこれではどうにもまとまりません。マリーアントワネットも刑所の露と消えたのです。これは良いも悪いもありません。そんなことをやってはいけないのです。

それを国民がわかっていません。伝統は変えてはいけないのです。国民の側がそれをわかっていないのです。国民の側は縁によって変わってよいのです。仏教でいうと、隨縁真如の智といいます。不変真如の理は変わってはいけないことです。主権は理論ですから変わってはいけないのです。理論が変わったらおかしいのです。理論とは、日本国の理念です。そのような意味の理です。だから変わってはいけないのです。日本は2800年それを守ってきたのです。

主権が明確でない国は易姓革命になり、あちらへフラフラ、こちらへフラフラ、今度は「王様を奴隷にしてやろう」という世界です。日本はそれがなかったのです。主権の交代がなかったのが日本です。

我が国の主権者は一貫して天皇です。その間、武士が殺しあっているのはかまいません。だからここまで国がもってきたのです。もっと持たせようとしたら主権は天皇に返さなければいけません。

それを「天皇ご一家」「皇太子ご一家」などわけのわからないことを言っているのです。天皇の存在はそんなものではありません。主権の存在です。この主権を出されたら、国民は黙らざる負えません。葵の紋所を水戸黄門は出します。それと同じです。「お前達、戦争をしているのか、止めなさい!」天皇は主権者だから言えるのです。

みんな「ハッハッー」となって主権者に頭を下げるのです。タイの王様は一番よい例です。タイで革命軍と政府が戦っていると、「止めなさい」と言うと、国王にひれ伏したのです。それで治まるのです。タイでは主権は国王にしかありません。

日本は天皇にしか主権はありません。「総理大臣来なさい、いい加減にしなさい!」と言えば「ハッハッー!」となる存在です。社会全体がそのようなことで治まっていくのです。「俺の物だ!」「冗談じゃない、これは俺のものだ!」と言い出したらどこまでいっても治まりません。これが韓国です。韓国には主権がありません。主権がなければ有象無象でどこまでいっても争いです。韓国の争いは永久に終わりません。どこまででもやるのです。

中国はまだその点はしっかりしています。中国共産党がしっかりと主権を取っています。中国国民には主権などありません。中国共産党に主権があります。この主権のためには、2千万人~3千万人殺してもよいのです。殺さなければ主権は確立しません。

中国共産党が「主権を持っている」と言っても「どこに持っているのだよ」と言われてしまいますから、「生意気言うな、ぶち殺せ!」と言うのです。庶民は怯えて「あそこに主権があるな」と思うのです。
中国国民に主権などありません。「ぶち殺せ!」で終わりです。「20万人殺せばしばらくは治まる」というのが毛沢東の思想です。自国民を殺せば殺すほど主権が強くなります。

我が国の天皇の主権はそうではありません。中国共産党のように人殺しの上に成り立っている主権ではありません。神代の大昔からずっと続いてきている主権ですから、「神聖にして侵すべからず」です。

天皇は2.26事件では主権の発動をしました。陸軍同士の争いです。反乱軍も陸軍、攻撃されているのも陸軍です。決起したのは青年将校です。それは正義かどうかわかりません。一瞬攻撃をためらったのです。

その時に天皇は「朕が近衛をもって討伐する!」と言われたのです。「間違いなくあれは反乱軍である。誰もやらないならば私がやる!」という御決意です。「私の国で暴れて、大事な重臣を殺した。これは反乱軍以外の何者でもないだろう。誰もやらないならば私がやる!」これが主権者です。

ドゥテルテも主権がすごいのです。「俺の国民に麻薬を売りつける奴は許さん!」と言うのです。「俺の国民」が鍵です。主権は自分にあるのです。だからぶち殺してやるのです。「こうやって殺すのだ」と自ら機関銃で殺して「みんなもやれ!」と言うのです。ドゥテルテに強力な主権意識があるから治まるのです。

民主主義など本当はありません。しかし、日本は民主国家です。民主政治は衆愚政治になって放っておくと「金・金・金!」です。金を稼ぐ奴が出世します。どんどん金で買収されて、ロクなことをやりません。どんどん政治家は馬鹿になってしまいます。政治家は金で買われて、民主政治は衆愚政治に変わって、議会政治は終わるのです。

その次に独裁者が出てくるのです。これがヒトラーです。「全権をよこせ」と言ったのです。ヒトラーは全権を取って独裁者になったのです。衆愚政治の終わりが独裁者の始まりです。

アメリカもそうです。今までは民主政治でゴチャゴチャやってきましたが、トランプが出てきたのです。大衆は馬鹿です。馬鹿な政治は終わって独裁国家になってきたのです。

日本は天皇がいる限り独裁国家にはなりません。天皇は独裁者ではありません。憲法問題を考えるときには、「主権」の問題を本当に考えなければいけません。僕は天皇に主権をお返ししたほうがよいと思います。この国はもともと天皇しか主権を持っていません。

この論議を徹底的にやったらよいと思います。「今更、主権を天皇に帰すなど、お前はまともなのか?」という意見もあります。まともだから言っているのです。民衆が主権など持ってはいけません。民衆は自分のことしか考えていません。自分の出世、自分の金儲け、自分の財産、自分が有名になりたいのです。そのような連中が主権を持ってはいけないのです。

天皇は何も考えていません。天皇に主権を返すということは、まったく時代遅れでもなければ何でもない話です。日本国を継続していくという長い目で見た場合、それしかありません。このようなことを第一に考えてもらいたいと思います。
 
徒然日記

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