「移動しなくなった日本人」

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地方から出ることをためらう人びと

現在の「地方創生」の声の賑やかさには、これまでにない特徴がある。
地方都市の「消滅」に対する危機感があおられ、巨額の税金がそれを回避するという名目で地方に投入されている。しかしその一方で、地方を居心地のよい場所とみなす声も少なくない。

ベストセラーになった藻谷浩介らの『里山資本主義』から、ネットで話題のイケダハヤト氏のブログまで、地方はしばしば快適で、金がかからず、ひょっとすれば人情のある場所としてもてはやされているのである。

たしかに地方を理想化する声だけなら、かつてもみられた。魂の故郷として地方を称えることは、たとえば戦前の農本主義や、1970年代の第三次全国総合開発計画(三全総)でみられたことである。地方を純朴な場とみなす一方で、都会の風俗の堕落を嘆き、その都会によって地方が汚染されていると批判すること――それがこれまで地方賛美のひとつの型になってきた。

ただし現在の賛美の声において興味深いのは、地方が理念的にもちあげられるだけではなく、集団的な「移動」の変容というかたちで、地方への固執が実際に確認されることである。

たしかに地方に向かうUターン、Iターンの動きが大きくなっているわけではない。しかし地方に入ってくる人が減るのに応じて、地方からの転出者も少なくなっていることが確かめられる。

たとえば下のグラフは東京、中京、大阪の三大都市圏に移動した人口を示したものである。長期的にみれば移動者は1970年に158万人を記録して以降、70年代、また90年代なかばや00年代末に目立って減少し、2011年には最盛期の半分の79万人にまで減っている。 

移動の退潮を引き起こしたのは、ひとつには少子高齢化である。日本では10代後半から20代の若者の移動率が高いのであり、それゆえ少子化による若者層の縮小はそれだけ移動者数の減少にむすびつく。
ただ移動が少なくなっているのは、そのためだけではない。詳述はしないが、若者自体の移動率の減少も目立つのであり、その両者が重なることで移動者は急減している。

こうした移動の減速が一概に悪いかといえば、そうはいえないだろう。地方を出る若者が減ったのは、端的にいえば地方が「豊か」になったからではないか。地方に快適な家が立ち並び、また巨大なモールがつくられることで、都会発のモードに遅れない暮らしが容易になった。

それに加え、商業環境の充実は、雇用の場――ただし非正規的なものが多い――を誰にでも開きつつある。これまでのように受け継ぐ土地や資産やコネを持たなくとも、地方に留まることのできる状況が生まれているのである。 

移動できる/できないの二極化

移動は階層化し、地方は閉塞する

以上のような見方を、ここで否定したいわけではない。知らない人の多い大都市で、古くて狭い家に住み、長い通勤時間に耐え暮らすことに比べれば、地方の暮らしのほうがよっぽど「快適」とみる見方も、一定の説得力をもっている。

ただしだからといって地方から出る人の動きが小さくなっていることを、手放しで喜ぶことはできない。最大の問題は、移動の減少が均一にではなく、格差を伴い起こっている恐れが強いことである。

たとえば近年、大学進学のため、また大学卒業後に就職のために地方を出る人びとはかならずしも減っていないのに対し、進学や就職のため県外に出る高卒者や専門学校卒の人びとは減少している(学校基本調査)。
それはつまり移動が階層化されていることを意味しよう。学歴、そしておそらく特別の資産やコネをもたない者は、地方を出づらい傾向が高まっているのである。

言い換えるならば、「移動できる者」と「できない者」の二極化が、地方では進んでいる。近年、国境さえ超える社会的な移動が活発になっていることがしばしば話題になっているが、移動の拡大には、あくまで学歴的、資産的な偏りが大きいのである。

問題になるのは、そのせいで地方社会の風通しが悪くなっていることである。学歴に優れ、資産を持つ「社会的な強者」がいち早く抜けていく地方で、なお留まる人びとには、これまで以上に地元の人間関係やしきたりを大切にすることが迫られる。地方を出る可能性が低いとすれば、それらを何よりの資源としてサバイバルしていかなければならないためである。
結果として、地方には、「地域カースト」的とでも呼べる上下関係が目立つようになっている。移動の機会の減少は、それまでの人間関係を変え、ちがう自分になる可能性を奪う。

それによって子供のころからの関係がたびたび持ちだされ、補強されていくのであり、そのはてに飲み屋や「まちづくり」の場などで大きな顔をするのはいつも一定の集団――最近「ヤンキーの虎」などと呼ばれもてはやされ始めているが――になり、そうではない人は地元でこっそり暮らすという分断が、地方社会で強められているのである。

半世紀前の「上京」の意味

かつての上京者:永山則夫

「豊かさ」の後ろで地方が抱えるこうした閉塞に迫るために、ここではおよそ50年前の一人の男性犯罪者と、2000年代に罪を犯した(とみられる)二人の女性の移動の軌跡を対比させてみておきたい。

彼・彼女たちはいずれも10代のうちに、北日本の故郷――青森、北海道、新潟――を出て東京に赴き、人を殺す。しかしその動機、またその後の世間の反応は大きくちがった。

まずその一人、1949年生まれ――「団塊」最後の年――の永山則夫が青森県板柳を出たのは、端的に貧しかったことが大きかった。ひどい貧困のなか、今ならネグレクトともいえる家庭内環境で育てられた彼が留まることのできる居場所は、家にも街のなかにもかなり限られていた。

だから永山は東京へ赴き、クリーニング店を皮切りに、米屋や牛乳店での住み込みの仕事や、ジャズ喫茶のアルバイトなどを転々として暮らしていく。

ただし重要なことはこうした移動の背後に、同じように故郷を離れ上京した大量の移動者がいわば「同伴」していたことである。
時代は中卒者が金の卵ともてはやされる集団就職の時代――映画『三丁目の夕日』でノスタルジックに描かれたように――を迎えており、実際、彼が逮捕された1969年には三大都市圏に向かった人口は、156万人と史上2位の多さ――最大は翌年の1970年――に達している。

そうして同じように家を出た大量の移動者を背景として、彼の事件には大きな共感が寄せられた。永山は盗んだ拳銃で函館、名古屋と広域的に射殺事件を起こしたのだが、その事件にはそれを理解しようとするさまざまな言葉が群がる。

寺山修二、井上光晴、平岡正明、中上健次などを代表に、永山の犯罪は、同時代の人びとが自分も犯すかもしれなかった事件として、共感を込め語られていったのである。

現代の上京者:木嶋佳苗、三橋香織

それに対し、同じく北日本から上京し事件を起こした、ともに1974年生まれの二人の女性の移動の状況は大きく異なる。最大のちがいは、永山のいわば子ども世代――つまり団塊ジュニア――にあたる二人の女性が、地方でそれなりに豊かに暮らしていたことである。

司法書士、また社長という地方の名士の娘として、二人は少なくとも物質的には「快適」な生活を送り、その意味で永山の「貧しさ」のような「上京」のためのあきらかな原因はもっていなかったようにみえる。

それでも二人は「上京」したのであり、だから二人の生活は困難に陥る。家庭との不和や不幸もあったが、地方ではあたりまえの「快適」な暮らしを自分で維持することは、高卒の木嶋佳苗のみならず、白百合女子大学を出た三橋香織でもむずかしかった。

たんにバブル後の不況のためではなく、ひとつには東京にはすでに移動を完了した第二世代としての団塊ジュニアたちが蝟集していたためである。資産やコネを持つ同世代の定住者と、不況下の東京で彼女たちは競い合わなければならなかった。

それでも彼女たちは「快適」な暮らしを得ることをあきらめず、だからこそ風俗店で働き、愛人契約を結ぶといった危うい生活を続けていく。
しかし、なおうまくいかず、結局、一方は結婚詐欺をくりかえしつつ近寄ってきた男たちを殺害――ただし現在上告中――、他方は夫と別れられず、DVを甘受する生活をつづけたはてに、最後には殺害し新宿や町田に遺棄する事件へと追い込まれる。

この彼女たちの事件と、永山の事件に重なる部分がないわけではない。共通するのは、彼・彼女たちが地方での生活に満足できず、何かを求め北日本の故郷からの「上京」したことである。

しかしその「移動」が、時代の流れに乗っていたかどうかは、対称的である。永山が「貧しさ」のために上京した大勢のなかの一人として理解され、また本人もそう振る舞ったのに対し、彼女たちはそうではなかった。彼女たちの時代、地方から都会への移動は階層化するとともに、半減していたためである。

それはひとつには、彼女たちと同じように、多くの人びとが地方でそれなりに「快適」な暮らしを送っていたためといえよう。上京した場合、よっぽど力がなければ、同程度の暮らしを送れなくなる恐れが強く、だからこそ多くの地方出生者はせいぜい県内に滞留する。

それでも木嶋佳苗や三橋香織はあきらめなかった。彼女たちは時代の流れに逆行しても、地方を出て東京で何かをつかもうとあがくのであり、そのはてに同じようにもがきつつ東京で生きていた人びとを殺害するという破局に陥るのである。

地方を転々とした加藤智大

事件があきらかにするもの

以上のような彼女たちの軌跡が照らしだすのは、まず、①現代の「上京」が過去に比べ独自の困難を背負っているという現実である。かつて永山は上京し、苦しい暮らしを積み重ねることを恐れなかった。

地方での貧困に比べれば少しでもましな暮らしが待っているように期待されたためだが、現在そう思える人は少ないだろう。いまや地方の暮らしはそれなりに「快適」なのであり、逆に東京では、すでに住宅やコネをもつ者とのシビアな競争が求められる。そのなかで特別の「才能」や資産、そして自分に対する自信を持たない人が、わざわざ上京することをためらうのも当然といえる。

ただし上京する者が皆無なわけではない。量としては半減しつつも、木嶋佳苗や三橋香織のように「上京」する人びとは現在でもいる。そのことは逆に、②置き去りにされた地方の生きがたさを照らしだす。

なぜ木嶋佳苗や三橋香織は地方での暮らしを捨て、上京したがったのか。その理由は具体的にはあきらかではないとしても、彼女たちが地方に居心地の良い場所をみつけられなかったことは事実であり、そこに「快適」さのなかで閉塞していく地方の生きづらさが透かしてみえる。

次世代の移動者:加藤智大

上京すること、地方に留まることは、今ではこうしてそれぞれの困難を抱えている。だからこそ、その二者択一を相対化する道も浮上している。
先に大都市に向かう移動が減少していることをみたが、それはあくまで県を出る長距離の移動にかんしてであり、県内、または地方の中核都市へと向かう近距離の移動は実はかならずしも減っていない(国勢調査)。

そのことは、大都市を目指さず、しかし生まれた場所に留まることで生じるしがらみを地方間の移動によって回避する動きが、現在一定数選択され始めていることを浮かび上がらせる。

それを極端なかたちで示すのが、木嶋佳苗や三橋香織の次の世代、「秋葉原事件」を起こした1982年生まれの加藤智大の移動の軌跡である。
加藤は青森の高校を卒業した後、岐阜県の短大に入学。卒業後は仙台、埼玉、茨木などで非正規の職を転々として暮らしている。しかしその暮らしは、彼自身の手記(『解』)では、かならずしもつらいものと描かれていない。

加藤は地方の工場で、好きな自動車にかかわるそれなりに満足できる仕事をみつけられたのであり、だからこそ事件を起こすまで、加藤は東京にはたまに買い物に訪れるのみで、地方を転々としながら暮らしていた。

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