「一番稼いだ男」

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ノルマを達成できない社員には容赦なく鉄拳が飛び、ときには顧客に損をさせることがわかっていても、商品を買わせることがある。

気づけば同期は一人また一人と姿を消し、残った者たちも次第に出社するのが嫌で仕方がなくなり、日曜の昼から酒を煽るようになる――。

これは、昨今話題のブラック企業の話ではない。70~80年代の証券会社の世界で当たり前に見られた光景だ。

パワハラという言葉などまだ影も形もなかった時代、証券の世界は戦場だった。「失われた20年」に至る金融業界の内幕を、トップ証券マンが描いた『野村證券 第2事業法人部』が発売された。

トヨタを上回る約5000億円もの経常利益を叩きだし、日本一儲けた会社だった野村證券。その黄金の日々を克明に描く(amazonはこちらから)
金融・証券業界では「バブルの時代を総括する、とんでもない本が出るらしい…」と発売前から話題になっていたこの一冊。

著者の横尾宣政氏は、当時の証券界では知らないものはいないと言われたほどの人物だ。

1954年、兵庫県生まれ。1978年に京都大学経済学部を卒業し、「株にはまったく興味がなかった」にもかかわらず、父の勧めもあって野村證券に入社。金沢支店を皮切りに第2事業法人部、営業業務部運用企画課長、高崎支店長、新宿野村ビル支店長などを歴任。

その稼ぎぶりから「バブル期の野村證券で、一番稼いだ男」「コミッション(手数料収入)の亡者」と呼ばれた証券マンだったが、1998年に野村證券を退社、コンサルティング会社「GCI」を設立した。GCIではベンチャー企業の発掘や投資に携わっていたが、2011年に発覚したオリンパスの巨額粉飾決算事件における「指南役」として逮捕、起訴され、1・2審では有罪判決を受けた。

そんな横尾氏が、なぜ今、この本を著したのか。現在は最高裁に上告中という横尾氏に、執筆にかけた思いを聞いた。

「一種の暴露本のように受け取られる方もいるかもしれませんが、それは違います。野村證券に恨みがあるわけではありません。厳しいながらも結果を出せば、若くても権限を与えてくれる極めて自由闊達な社風で育ったことは、いまでも誇りを持っています。

私がこの本を書こうと考えたのは、『オリンパス粉飾決算事件』の捜査やその後の裁判、つまりは日本の司法制度がいかに杜撰なものかを明らかにしたかったからです。しかし、一般の方にはこの事件について興味を持ってもらえないこともわかっていました。今の自分にあるものは何かを見直した時、私が20年近く務めた野村證券の話なら、金融・証券マンのみならず、多くの方の関心を呼ぶだろう、と……。

そこで、一人の証券マンが地獄へと転落する過程を赤裸々に綴り、追体験してもらうことで、この国の経済システムや司法制度の歪みを知ってもらおうと考えたのです」

バブル期の野村證券で「一番稼いだ男の告白」を、辿ってみよう――。

嫁まで怒られる世界

異例の大抜擢

横尾氏が入社した当時の野村證券は、同業他社から「ノルマ証券」などと揶揄されるほど苛酷なノルマ至上主義を敷いていた。各地の支店に配属された新入社員は、軍隊さながらの厳しい日々を送った。

「ノルマが達成できなければ、上司に殴られるのは当然で、私も何度か殴られました。怒り狂った支店の課長が部下に電話機を投げつけて壊してしまったこともあります。その時は、たまたま初めて野村と取引する電話工事会社の社長が株券を持って来店していて、『電話を粗末に扱う奴らとは付き合えん!』とひどく怒られましたね(笑)。

成績の上がらない課長代理とその奥さんが応接室に呼び出され、上司から厳しく叱責されている姿を目撃したこともあります。その上司は『奥さん、こいつのためにみんなが迷惑しているんです。どうにかしてください!』と怒鳴っていた。本人だけならまだしも、奥さんまで怒られるなんて、本当に気の毒でした。

横尾宣政氏

新入社員は株価を示す電光掲示板の前に立たされ、特定の銘柄について、株価が動くたびに『○○円!』と叫ばされることもありました。べつに意味があるわけではないんです。『気合を入れるため』だったのでしょう。

当時の支店は接客カウンターと営業部の間に仕切りがありませんでしたから、お客さんもそうした光景を目撃するわけですが、日常茶飯事だったせいか『ああ、またやってる』と、誰も気にしていなかったですね」

ノルマを達成しなければ制裁されるとなれば、なりふり構わってはいられない。売買に伴うコミッションを稼ぐため、横尾氏ら営業マンは顧客が持っている銘柄が少しでも値上がりすると売却させ、別の銘柄に乗り換えさせた。顧客は儲けが出る前に次々と株を買い替えさせられるため、最終的には損をしてしまうこともあった。

「コミッションは株を売り買いしてもらわないと発生しませんから、長く同じ銘柄を持たれると困るんです。私の知る限り、わずか半年も経たないうちに信用取引(保証金を入れ、手持ち資金以上の投資を行うこと)で2~3億円なくなる、などというケースはざらにありました。

損をするとわかっていながら株を勧めるときは、申し訳ない気持ちでした。特に、私たちのようなノルマに苦しむ新米社員に資金を出してくれるのは、いい人が多かった。

そんな人たちが資産を失い、口座を引き揚げるときに、『お前は銀行マンみたいに信頼できると思っていたのに、やっぱりただの証券マンだったな』とすごく悲しそうな顔をするんです。20代前半の私にとっては辛い経験でした」

新人時代には多くの顧客に恨み言をぶつけられたという横尾氏。だが、時には思いがけず温かい言葉をかけられたこともあった。

「ある旅館の経営者のもとに3年間通いつめ、億単位の取引をしてもらえるようになったんですが、うまくいかずに数億円の損失を出してしまった。そのまま損を取り返せないうちに本社への異動が決まったので、ご挨拶に伺うと、その経営者は『俺がスった数億が、君の人生の肥やしになってくれるならそれでいい。立派になれよ』と快く送り出してくれました。あの言葉は終生、忘れられないですね。

横尾氏は、入社4年目に東京本社の第2事業法人部に異動となる。事業法人部は、大企業を相手にする証券会社の花形部門。異例の大抜擢だった。

日経新聞の一面に載った男

日経平均は5万円まで上がっていたはず
第2事業法人部では、法人向けの営業活動だけでなく、金融商品の開発にも取り組んだ。金融国際化の波に乗ろうとする野村證券。本社の号令のもと、横尾氏は「天国地獄債」など、当時としては画期的な金融商品を編み出し、世に送り出した。

「『天国地獄債』は、為替レートによって大儲けすることもあるし、大損することもあるということで、この名称になったのです。その年の最も優れた債券ということで、フランスの有名な賞を取り、日経新聞の1面に記事が掲載されました。

当時の担当取締役もこれには喜んで『(高級ブランデーの)ナポレオンをあげよう』というので、『ナポレオンはいりません。代わりに溜まっている飲み屋のツケを払ってください』とお願いしたことを、よく覚えています」

1985年9月22日に、いわゆる「プラザ合意」が結ばれると、円高ドル安の流れが一気に加速する。この緊急事態に対応するため、野村證券は当時、株式担当だった橘田喜和取締役が発案した「トリプルメリット」と「ウォーターフロント」というふたつのキーワードで、株式市場を牽引していった。

「トリプルメリット」とは「円高、金利安、原油安」のこと。一方の「ウォーターフロント」とは、再開発プロジェクトにより地価が高騰した東京湾岸地域を指す。

「トリプルメリットの恩恵を受ける企業として、電力会社やガス会社、さらに関電工など電気設備会社の株が多く買われたのですが、次第に他業種も巻き込んで、相場全体が上がっていったんです。

トリプルメリット相場が落ち着き始めると、今度は『ウォーターフロント』が盛り上がり、東京湾岸に土地を保有するIHIや東京ガス、日本鋼管(NKK)などの銘柄が盛んに買われていました。

株価が暴騰するのに伴い、エクイティファイナンス(株式発行を伴う資金調達)も流行しました。特にワラント債(その会社の株を取得する権利がついた社債)は当時、マイナスコストで発行できたので、多くの会社が2000億円とか3000億円分の債権を発行。集まった資金をふんだんに研究開発や設備投資に使っていった。

あの頃、日本では半導体などの技術開発が急速に進みましたが、それを支えていたのは、野村が仕掛けた『トリプルメリット・ウォーターフロント相場』でした。この相場がなければ、日本経済は急激な円高によって間違いなく崩壊していたでしょう」

1987年のブラックマンデーで、一時株価は低迷するも、1989年末には日経平均株価が過去最高となる約3万8900円を記録した。しかし、1990年代に入るとバブル崩壊により株価は大暴落。証券会社が大口顧客の損失を補填する「証券不祥事」も起こり、国民の証券業界に対する不信感が高まっていく。

横尾氏は、野村證券による損失補てんが発覚し、田淵義久氏が辞任する時の様子も克明に記している。

〈 社長辞任会見の3日後に開催された、91年6月27日の野村の株主総会の日。その様子は、総会が開かれている8階の講堂の横に並べられたモニターで見た。昭和シェルのワラント売買に関する記事が出て以降、私は「あいつが張本人だ」と戦犯扱いされ、簡単に社内を歩ける状況ではなかった。
87年末に鈴木専務の指示を受け、良かれと思って必死に取り組んだことが、結果的に田淵社長を辞任に追い込んでしまった。〉

内部にいた者しか知り得ない野村の混乱ぶりを、すべて実名で描いた本書は、まさに「秘録」と呼ぶにふさわしい。

激しくも懐かしい野村時代と人生を暗転させた事件のすべてを実名で書いた

横尾氏は同時に、日本の株価が長期にわたり低迷している理由についても、独自の見解を示す。

「証券不祥事を受けて、野村では『特定の銘柄を推奨してはいけない。適合性の原則(顧客のレベルにあった勧誘をすること)を守れ』などと口うるさく言われるようになりました。

しかし私は、証券マンが銘柄を推奨しなくなったことが株価低迷の要因だと思っています。投資に関する教育をほとんど受けない日本人は、営業マンに推奨されなければおいそれと株を買うことはできない。もちろん、伸びない会社を推薦してはいけませんが、これはという企業には積極的に投資するべきです。そういう健全な市場ができていれば、今ごろ日本の株価は4万~5万円台まで上がっていたと思います。

ただ、一方で証券マンの<質>が、平成に入るころから下がってきたのも事実です。どこが伸びる会社なのか、お客さんは何を求めているのかが判断できない社員が増えてきたのです」

勝ち残ってきた自負がある

さらば野村證券!

そこで横尾氏が目をつけたのは、「データベース・マーケティング」だった。これは、膨大なデータを収集・分析し、顧客ひとりひとりに最適な商品を勧めるというもの。現代の用語に置き換えれば「ビッグデータの活用」と言えるかもしれない。

「高崎支店長を務めていた頃、お客さんにアンケートを取ったんです。するとお客さんは『証券マンは無駄な電話ばかりかけてきて、必要な時に電話がない』と考えていることがわかった。そのうえで『株価がどのくらい下がったら、このお客さんはしびれを切らすのか』といった、お客さん個人の傾向もつかめるようになった。

そこで、それをデータベース化して、それぞれの顧客に合ったサービスを提供できないかと考え始めたんです」
しかし、データベース・マーケティングを実現するには大型コンピュータなど多額の投資が必要とあって、野村の役員はゴーサインを出してくれなかった。

野村では自分の夢であるデータベース・マーケティングを手掛けられないと悟った横尾氏は、この時期、ヤマダ電機会長の山田昇会長や、流通大手の「ベイシアグループ」を率いる土屋嘉雄会長といった起業家に出会い、大いに独立心を刺激される。そして1998年に野村証券を退職。コンサルティング会社「GCI」を立ち上げたのだった。

「GCIではデータベース・マーケティングのシステムを金融業界に売り込もうと考えていました。1998年の12月から銀行の窓口での投資信託販売が始まったのですが、彼らは投信を売るノウハウも知識もないですから、証券マンが蓄えたデータベースは喉から手が出るほど欲しいだろう、と。

しかし、GCIが自らシステムを構築することは費用の問題もあってできない。そこで目を付けたのが、オリンパスの子会社・ユーバス(現・オリンパスシステムズ)でした。ユーバスは当時、アパレル業界向けのデータベース・マーケティングシステムを構築していましたから、これを金融業界向けに使おうと考えたんです」

野村證券在籍時にオリンパスが出した300億円の損失を8ヵ月かけて取り返した経緯もあり、同社幹部と知己のあった横尾氏は、ユーバスの活用を巡って同社に接触。しかし、結果的にこれが粉飾決算事件に巻き込まれる引き金となった。

オリンパス事件の詳細や経緯は本書に譲るが、そもそもなぜこれほどの巨額粉飾が起こったのだろうか。横尾氏はその遠因をこう分析する。

「資金運用に関する情報をオリンパスの経営陣が知らなかったことが挙げられます。オリンパスでは財務部長、副社長、監査役などを歴任したひとりの人物が、独断で資金運用を行ない、莫大な損失を抱えていた、と考えています。歴代の社長たちはそのことを知らず、ようやく気づいた時点ではもう手遅れの状態だった。

私は野村證券時代、この人物に『無茶な運用はおやめなさい』とさんざん忠告していたのに、彼は聞き入れなかった。そればかりか、後になって粉飾の『指南役』は私だったなどと事実に反する証言をしている。もっと早い段階で、オリンパスとの関係を断っておくべきでした。

この事件をめぐる上告審の行方は、なお予断を許しませんが、私はまだ諦めていません。日本の刑事事件の無罪確率は、0.1%、1000人に一人です。とても低い数字ですが、私はあの野村で、それよりもっと低い確率の中で勝ち残ってきたという自負がありますから」

本書では、「損失補てん問題」や「バブル崩壊」といった局面で、野村證券の幹部たちが何を言い、どう動いたかが実名で描かれている。いわば、「日本経済の裏面史」が横尾氏を通してストーリー仕立てで展開していく。時代に翻弄された元証券マンの告白を、読者はどう受け止めるだろうか。

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