「掃除」

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日本は「シラス(知らす)」国です。
シラス国において、最大の「たから」は、民衆です。
その民衆が、豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことが、政治の役割です。

そして民衆が誰の「たから」なのかといえば、天皇のたからです。
これを「おほみたから」といいます。
つまり、民衆は、天皇という存在があるから、政治的にも「たから」とされるのです。

天皇の存在が失われれば、その瞬間に、民衆は自分たちが「たから」であるという地位を失います。
そうなると、民衆は、ただ「収奪される対象」というにすぎなくなります。

日本が日本であるために必要なことは、天皇の存在と、その天皇の存在の意味するところを国民が理解することです。
これが失われることで、いちばん損をするのは民衆です。

ところがどうでしょう。

教育現場では、国旗も国歌も教えず、日本人で入ることが恥ずかしくなるような教育が堂々となされています。

ということは、日本がどこかの国によって滅ぼされて、子どもたちが隷民とされることを、教育者たちが希望しているということになります。
教え子たちが、外国人によって蹂躙され、強制労働させられるような未来を希望しているのが教育者の仮面を付けているなら、それは部屋に散らかったゴミと同じです。

掃除をして廃棄しなければなりません。

ゴミは、放置しておくと、そのうちその家はゴミ屋敷になります。
世界にはそのような、まるでゴミ屋敷そのもののような国が現実にあるし、日本もまた、昨今、そんなゴミ屋敷国家に成り下がりつつあります。

新聞やメディアも同じです。

戦前戦中の取材をし、事実を知りながら、その事実を秘匿して、どこかの国に都合のよい報道を、すでにそれが間違いとわかっていながら、30年以上も、ウソの情報を流し続ける。

たとえばそういう新聞社が、いまなお堂々と国会内に取材に入れるということ自体が、異常な出来事です。
世界中どこの国であっても、営業停止処分くらいはあたりまえだし、記者会見席から排除するくらいのことは、当然に行われることです。
要するに、ゴミは掃除されるのです。
これは言論統制ではありません。
単なるゴミ掃除です。

いまの日本は、そんなゴミ掃除すらできず、国自体がゴミ屋敷と化そうとしています。
これは国の歪みです。
そしてその歪みを正すのは、国会でもなければ、内閣でもありません。
日本人一人一人が目覚めることです。

ゴミを掃除して、国家的決意を固め、世界最強国家となっていく。
それこそが、私たちがかつての戦争から学ぶべき最大のことなのではないかと思います。

本来であれば、ゴミ掃除は毎日しなければならないことです。
けれど、日本は、70年以上にわたって、これを怠ってきました。
ならば、もとの美しい日本を取り戻すためには、大掃除をしなければならない。

ところがいまの日本は、何がゴミで、なにが大切なものかの区別さえも失ってしまっています。

つまり、私たちは、ゴミをゴミだと指摘するだけでなく、失ってはならないものと、捨てるべきものとをしっかりと区別できる分別を取り戻していく努力も、同時並行で必要なのです。
もっというなら、ゴミとして遺棄されたくないないなら、たいせつなものをそれぞれの個人が取り戻すことです。

実は、大掃除の日は近いのです。

もうすこし続けます。
大昔は、神様と繋がるための祭壇は、カマドの上に作りました。
いまでは、お参りといえば、神社に行きますけれど、まだ神社という設備がなかった時代には、カマドの上に祭壇をつくって、そこに神様に降りてきていただいていたのです。

降りてきていただいた神様と繋がるお役目がシラスです。
国全体でいうなら、そのお役目をされるのが天皇です。
天皇は、民を代表して神々とつながります。

その場所であるカマドは、人々に暖かさを与えてくれます。
けれど同時にカマドには、ススがたまります。
ススを放っておけば、煙突が詰まり、部屋中が煙だらけになってしまい、カマドの火も消えてしまいます。
ですから、一定期間ごとにすす払いをしました。

ススは、真っ黒なものです。
ススを払えば、手も顔も真っ黒に汚れます。
ですから、水で汚れをきれいに洗い流します。
これが、払い、清めです。

ススを掃き出す払うという作業は、ゴシゴシと、有無を言わせず強引にやらなければなりません。
たいてい、その役目は、その家の主人の役目でした。
主人のことを、古い言葉で「ウシ」と言いました。
その「ウシ」が「掃(は)く」から、「ウシハク」です。

シラスために、ウシハクがあるのです。
ウシハクだけでシラスがなければ、人は神々とつながれないのです。

このことから、ウシハクは、シラスに内包されて、はじめて意味を持つことがわかります。
ウシハクの中にシラスはないし、シラスとウシハクは、並立するものでもありません。シラスがあり、シラスを維持し、保持するためにウシハクがあります。

戦後70年、掃除をしなかった日本という家のカマドの煙突は、いまや真っ黒です。

カマドが詰まり、暖炉の暖かさも維持できなくなり、火を焚こうとすれば、室内が煙だらけになります。
もはや、家そのものを取り壊すか、煙突の大掃除をするかしかないという状況にまで至っているということができます。

そのような場所であれば、神々も降りてくることはありますまい。

そうであれば、私たちは、カマドの意義をもういちどしっかりと踏まえて、勇気をもってススをかぶりながら大掃除をしていく必要がある、ということです。

冒頭にゴミ屋敷の写真を貼りました。
写真にあるゴミの中には、使えるものもあるのかもしれません。
けれど、ここまで来たら、もうどれが使えるかとかではなく、一気に全部処分してしまわなければ、いつまで経っても肩付かないのです。

ゴミとそうでないものを区別するということは、正常な状態という価値観を取り戻すことにほかなりません。

その上で、ゴミ屋敷は、個々のゴミの中に、使えるものがあるかないかではなく、一気呵成に処分してしまわなければならないということです。

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