「人格者」

画像の説明臼田畏斎(うすだ いさい)は、備前(いまの岡山県南東部)の家老だった人です。

ところが38歳のとき、(当時の38歳というと、いまの53歳くらいの感覚かと思います)その高官である職を捨てて京に遊学しました。

彼は都で、学問を求めてあちこちの門をくぐりました。
けれど、どこの門をくぐっても、納得がいかない。
組織人として、また、官僚、政治家としての実績と経験を持つ臼田畏斎にとって、ただ論をあげつらうだけの学問所は、学問の名に値するもの、納得のできるものではなかったのです。

もっとも、門をたたいて教えを乞うといっても、実際には、それぞれの塾にひとたびは入門します。その都度、ばかにならない費用がかかりました。禄を捨てた臼田畏斎には、収入がありません。
蓄えも底をつきだし、やむなく彼は代書屋をはじめます。

もっとも当時の代書屋で儲かったのは、やはり色街の恋文代書らしいのですが、道を求める臼田畏斎には、そのようなことはできません。
お堅いお役所への提出文書や、証文の書付など、仕事を選んで受けるので、なかなか収入がままなりません。

おかげで、米が買えず、野菜だけを煮炊きしてようやく妻子を養うといった日々が続きました。

住まいも、貧乏長屋です。
いくら元は、雄藩の御家老であったといっても、生活状況は貧乏な庶民以下の暮らし向きでした。ところが、臼田畏斎に会う人は、誰も彼が貧しい生活状況にあるとは思いません。どうみても、毎日祇園あたりで芸者をあげて遊べるくらいのお金持ちにしかみえない。
もちろん臼田畏斎には、そんな余裕などありませんが。

たまたま、臼田畏斎の家に行った人がいました。
あまりの貧乏な暮らしぶりに、驚いた彼は、臼田畏斎に食べ物などを贈ってくれたそうです。けれど臼田畏斎は、決して受け取ろうとしませんでした。

そんなある日、友人が言ったそうです。
「朋友であれば、 財を貸借するという方法もある。貴兄は窮困にありながら、なぜ人から借りることさえしないのか。」

臼田畏斎は笑って次のように答えたそうです。
「まったく受けないということではありませんよ。もし朝晩の食事ができず、空腹によって外出さえもままならないということにでもなるなら、
もちろん、好意をお受けします。しかし私は、貧乏はしていても、
幸い、衣食に困り、飢えているわけではありません。だからあえて、お受けしないでいるだけです。」

そんな臼田畏斎でしたから、だんだんに彼の評判は高まり、仕官の話も舞い込むようになりました。いまで言ったら大学教授にあたる、藩校の教授の話が舞い込んだりするようになったそうです。
ところが臼田畏斎は、これらさえまったく受け付けません。

目的が違うのです。
彼は、世の真実を知り、本当の意味で人の上に立つものにとって必要な、実のある学問を求めていたのです。それを得るために、藩を捨て、家老職をも捨てたのです。それを途中であきらめて、自ら「役に立たない」と感じた儒学を、いまさら人に教えるなど、できる相談ではありません。

臼田畏斎の住まいは貧乏長屋だったのですが、そんな長屋の人達は、病になっても、ゆっくり寝てもいられません。
そんな窮状を見かねた臼田畏斎は、そんな長屋の某人のために、疲労回復や元気の出る薬を調合して与えました。
いまで言ったら、アリナミンAの粉末のようなものです。
これがものすごく効きました。

いつのまにか臼田畏斎のこの薬は、評判が口コミで広がって、遠方からまで買いに来る人が出るようにさえなりました。
これより後は、暮らし向きもかなり改善されたといいたいところですが、臼田畏斎は、窮民からは正規の値段をとろうとしない。
そんな人にこそ、薬をより多く与え、「お金がなくても構わないよ。いつでもいらっしゃい」という態度であったのだそうです。

そんな畏斎が3〜4人の友人と野外に遊んだとき、人が卒倒して肥溜の中に落ちてしまうというところに遭遇しました。
友人たちも、また通行人の人々も、その様子を憐むのだけれど、糞尿の中です。誰もあえて近づこうとしません。
このとき臼田畏斎は、すぐに手を肥溜めの中に差し入れて、人を救い出しました。その様子は、まるで不潔を感じていないかのようであったそうです。

倒れた人は、ひさしく癲癇(てんかん)の発作を持つ人でした。たまたまこのとき発症して、肥溜めに落ちてしまったのです。
もしこのとき助けてくれなければ、体は人に知られることもなく肥溜めの中で朽ち果ててしまったかもしれないと、おおいに、これを謝しました。

また臼田畏斎は、ある日、借金の返済のためにと、金五両(いまの30万円くらい)を懐に入れて家を出たのですが、途中でこれを落としてしまったのです。

一生懸命に探しましたが、ついにそのお金は出てきませんでした。
奥さんは、さすがにこのとき怒ったそうです。ところがこのとき畏齋が言うのには、「楚人が弓を失えば、楚人が之を得る。落とす者に損があれば、拾う者に益ありという。だから惜しむ意味はないよ」
臼田畏斎は、どこまでも政治を行う立場の人であったのです。

あるとき、市場で魚を買った小者が、泥棒に買った魚を奪われました。
小者は、手ぶらで帰ればその主に叱られるからと、帰ることもできず、泣いていました。
畏齋は、これを見て、その小者に銭を与え、その小者に同じ魚を買って持ち去らせました。臼田畏斎は、慈愛の人であったのです。

この時代に、中村惕斎(てきさい)という儒者がいました。
『講学筆記二巻』を著し、また程宋学を教え、またその学問を得るための工夫を極めて詳細に説いていた人です。
その中村惕斎が、ある日、臼田畏斎に言いました。
「私は日頃、知識を天命として論じています。天は常に見ているし、天を畏るべしと論じていますが、いまだ天の法則を理解するには遠く及ばずにいます。」

臼田畏齋は答えました。
「人は、身体や目の色を弁じたり、耳で聞く声で審査したり、そのことを口に出したり、舌で味わったり、手足で運動したりします。それらすべてが『天の神々の命ずる所』です。何事も神々の命(みこと)によります。

我々が、自らの意のままにその命(みこと)を私用するならば、それは汚穢にまみれることと同じことです。誰もが天の徳を備ええいると知れば、
天の命(みこと)を畏れざるをえません。

暗闇にあっても、天の目を逃れることはできません。それは役人の十手(じゅって)より厳しいものです。もし天徳を蔑(ないがしろ)にし、
それを穢(けが)すなら、いずれ天誅を免れることはできなくなります。

神のまにまに、そして日々の行動や仕事などを通じて、常に人々の幸せを願い続けることのみが、大切なことなのではないでしょうか」

中村惕斎(てきさい)は、この説を聞いておおいに感服し、ついにこれを筆記に載せ、先賢の言として紹介しています。

臼田畏齋は、元禄3(1690)年の夏に病に伏し、その年の10月に亡くなりました。享年46歳でした。いまで言ったら、61歳くらいの感覚です。

名聞冥利という言葉がありますが、名声を博することや、お金持ちになることが◯◯ドリームなどといってもてはやされる世の中になりました。
けれど、少し考えたらわかることですが、そうした成功者となれる人というのは、何十万、何百万人にひとりです。

もちろん、誰にもその可能性はあることでしょう。
けれど、そうなれる何十万、何百万人にひとりだけが幸せで、そうなれなかった何十万、何百万人の人は、不幸せなのでしょうか。
それが世の中のあるべき姿なのでしょうか。

人は誰しも、神々の命(みこと)をもって生まれてきます。
ならば人は、せっかくこの世に生まれてきたのです。
その人生を通じて、何を得、何を学んで人生を終えるのでしょうか。
なんのために、自分の人生を使うのでしょうか。

人の本体は御魂にあり、肉体はこの世の借り物ということが、大昔からの日本人の考え方です。借り物をいくら飾ったところで、所詮はそれは借り物でしかない。いずれは死をもって、借り物の肉体をお返ししなければならない日が来るのですし、そのときには、今生で得た一切の名聞冥利は、この世に置いて行くことになります。

要するにそれは、いってみればレンタカーを、お金や名誉で飾り立てているようなものです。

期日が来れば、結局は返さなければならないのです。
もちろん、そのレンタカーに乗っている間、豊かに暮らせるように努力することも大切なことでしょう。

けれど、ではそもそも何のためにそのレンタカーを借りたのかといえば、そこには何か目的があったはずです。
それは、レンタカーを飾り立てることであったのでしょうか。

臼田畏齋は、自ら家老職という名聞冥利を捨てました。
また、自らすすんで名を売ることもしませんでした。
そうすることで、彼は道を求めました。
けれど、残念なことに彼は、彼自身が「実がない」と断じた儒学以上の学問を、その人生を通じて得ることができずに、この世を去りました。

けれど彼は、その生涯を通じて、儒学にない、より高いものを得ることができたのであろうと思います。

そしてそれこそが、彼の目指した、より高みに昇ることであったのではないかと思います。

人は、時代の知識の中でしか生きられません。
その時代の知識が、まだ至らないものであったとしても、それでも誠実を貫いて生きる。

その意味では、身分を捨てたあとの彼の人生は、生活は苦しいものであったとしても、裕福な家老職にあったときよりも、いっそう輝いた人生であったのではないかと思います。

ねずさん

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