「権力」

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朴槿恵大統領が弾劾され、大統領としての職務停止となりました。

正直なところ、日本のメディアが連日このことを報道し続けていることには、多くの日本人が、もう飽き飽きしているのであろうと思います。

メディアの一部の上の人には、祖国の大問題、権力シフトなのだと強い関心があるのかもしれませんが、日本にとって、あるいは日本人にとっては、韓国の大統領が失墜しようが、国家破産しようが、はっきりいって何の関心もありません。

ただ、難民が押し寄せてきたら迷惑だと思っているだけのことです。

今朝くらいからは、メディアは、韓国の多くの大学生に就職がない、これは社会的大問題であり、韓国の学生が可哀想と、なんとか日本の視聴者の気を引こうと必死のようですが、これまた日本の大学生の就職自体がたいへんな時代に、悪いけれど他所の国の就職の心配をしている暇があるのなら、日本の学生の職場をちゃんと供給せよ、大学生もアルバイト、卒業してもアルバイト、いつになったら日本の大学生に、まともな就職先がやってくるのか。

日本のメディアなら、そっちを心配すべきと思うのは、私だけではありますまい。

韓国経済の破綻にしても、これは日本製品の組み立てだけを自国で行い、日本製品と偽る、あるいは誤認させて、しかも為替の意図的操作によって製品価格のダンピングまでして売り込みをかけた結果の経済成長です。

日本からの部品輸出が止まるではないかと心配しているアホもいますが、日本の企業は、その使用先を国内か東南アジアの自社工場に移すだけのことです。

要するに簡単にいえば、韓国経済の成長というのは、先代のパク大統領の時代からの、日本経済の帳面の付替えでしかないのです。

それを自国の力と錯覚し、もっともっととやっているうちに、世界中から「タカリ国家、ユスリ国家」とレッテルを貼られ、さらに日本以上の実力なんて過信を始めた途端に、自動車は暴走する、スマホは爆発する。信用をなくして、経済が失墜する。

これを自業自得といいます。
それに同情などするお人好しは、もはやまっとうな日本人にはいません。
それが現実です。

韓国が北朝鮮に吸収されたらたいへんだという人もいます。

それは韓国にとってはたいへんかもしれませんが、日本にとっては好都合なことです。
なぜなら北朝鮮は、支那、ロシアと国境を接しているのです。

外交上は、まずは日本と仲良くしなければならない。
日本と北が国交を結べば、これほど中共にとって、都合の悪いことはありません。

そもそもどうして韓国は、大統領の末期になると、まいどこのような事態が起こるのでしょうか。

それには、彼らの言語感覚が大きな影響をしています。
いまの韓国は、ハングルを使いますが、もともとの言語文化は、漢字文化だったのです。
その漢字文化において、権力の「権」の字は、日本人とはまったく異質の言語感覚があります。

彼らにとっての「権」は、旧字の「權」です。

これは木偏に「雚」と書くのですが、その「雚」は、上の部分がフクロウの目、下の部分が小鳥を意味しています。

つまり「森の木で楽しく遊んでいる小鳥を、肉食の猛禽類であるフクロウが、捕食するために木の上からいまにも襲いかかろうと、狙っている姿」が、もともとの「権」という字の成り立ちです。

つまり漢族や、漢族の影響下にある半島族にとって、「権」というのは、人に目をつける、目を付けられたら食べられてしまうという意味を持ちます。

従って、彼らにとっての権力闘争は、いま権力を持つ人に目をつけ、これを捕食して食べてしまうといった語感があります。

一方、権力者にとっては、民衆や対立勢力を監視し、これを食い尽くす力、それが権力という言葉の意味となります。
日本人とは違うのです。

日本人は、この文字を輸入するにあたり、「はかり、かり」という大和言葉を当てました。

「はかり」というのは、古代においては、天秤(てんびん)のことです。
つまり、左右のバランスをとることが「権」だというのです。

また「かり」というのは、「間を取り持つ」ということです。

正の大納言、権の大納言のように使われますが、今風に言ったら、これは部長と副部長のようなものです。
閣僚でも、大臣の下に副大臣がいますが、副大臣というのは、未来の大臣候補という意味合いもあります。

副大臣は、仮の大臣というわけではありませんし、大臣と省庁の官僚、あるいは民衆との間の釣り合いをとる、という意味もありますから、昔は、ただの「副えもの」という意味の「副大臣」や「副部長」ではなく、「権大臣」、「権部長」みたいな表現をしていたわけです。

つまり日本的な意味での「権力者」というのは、「権」がバランスをとることの意味ですから、日本的な意味における権力者の意味は、「力のバランスを取る者」という語感になります。

これは実に日本的な発想で、たとえば部長や支店長が部内や支店内における権力者であるとするならば、それは本社の意向と、部内、あるいは支店内、場合によっては客先とのバランスを取るお役目が、部長や支店長という言葉の持つ意味になります。

おそらく多くの日本人の役席者となった者の自覚は、そういうことではないかと思います。

肩書に「権」という字を使う習慣は、ですから歴史の古い神社の宮司さんの世界などには、いまでも生きています。

神社の代表が宮司(ぐうじ)さんです。
これは、国司と同じで、国司が国のトップなら、宮司さんは、お宮(神社)のトップです。

その下に「権宮司(ごんのぐうじ)」さんが置かれます。

「権宮司」さんは、宮司さんを輔弼(ほひつ)するとともに、宮司さんと、その下にいる禰宜(ねぎ)さんや、氏子さんたとの間を取り持ってバランスをとる、つまり「権」をする人です。
だから「権宮司」さんです。

ところがこうした意味における「権」という字の使われ方は、幕末に「Power」の訳語として「権力」が使われるようになってから、微妙に変化しました。

このため「宮司、権宮司」と並べると、なんだか「権宮司」の方が、権力があるかのような誤認を生みやすいということになって、企業などでは、「部長、副部長」のように、「副(そえる)」という字が使われるようになりました。

おかげで、いまでは副部長というと、なんだか部長の副えもの、もしくは部長になるためのステップみたいなニュアンスになってしまっています。

こうしたことを見ると、日本人はもともとバランスというものを、とても大切にしたきた民族であり、そういうことが大切にされる社会を築いてきたということがわかります。

バランスは英語で書いたら「Balance」ですが、大和言葉でいったら、「つりあい」のことです。
左右のつりあい、上下のつりあいが整うように、常に配慮する。

それが日本人の常識であったわけです。

そしてその「つりあい」をとることを、「権」と言ったし、つりあいをとる人のことを「権力者」と言ったし、つりあいの根幹のことを「権威」と書いていたわけです。

ちなみに「威」の訓読みは、最近では「おどす」とか「おどかす」意味だと曲がった誘導がされているケースが目立ちますが、もともとは大和言葉の「のり」が与えられていた字です。
「のり」というのは、条理のことです。

日本はシラス(知らす、Shirasu)国であり、天皇という権威と、臣という権力を分離するという統治が、国の中心に置かれてきた、という話を、このブログでも何度となくお話させていただいています。

ここでいう「権威」というのは、左右の釣り合いをとる、天秤(テンビン)で言ったら、その支点になるもののことを言います。

ですから大和言葉でいう「権力(はかるちから、かりのちから)」というのは、左右のバランスをとる力であり、権威から授かる「仮のチカラ」でしかありません。

そして天秤を考えたらわかりますが、天秤は支点がなければ機能しません。

そして支点だけあっても、軸(アーム)やお皿がなければ、機能しません。

支点がシラス、軸がウシハクです。
両者が揃って、はじめて、左右のバランスをとることが機能するのです。
軸だけなら、人を殴る棒やムチとしての、ただの「Power」にしかならないのです。

さて、おもしろいのは「人権」です。

日本人にとっての「人権」は、「人」が、互いに支え合うもの、「権」が「つりあい」ですから、人が人として支え合いながらつりあい、バランスをとって生きていくことができる権利、といった語感になります。

ところが、「日本に住んで日本語を話して日本人のような顔をしている日本人でないけれど漢字を扱う人」(ややこしい言い方をしています)たちにとっての「人権」は、実はまったく意味が異なります。

「人」という漢字の字源は、映画リングの貞子のように、両手をだらりと前に垂らして、前かがみになってつられている屍体です。

要するにもっと簡単にわかりやすく言ってしまえば、食肉用の屍体を指します。

そして「権」は、フクロウによる小鳥の捕食です。
つまり「人権」は、文字だけをみたら、人を食べるために狙い定めて捕食すること、端的に言えば、自分が腹をふくらませるために、人を喰い物にするという語感になってしまうのです。

「人権」もまた、幕末の造語です。

英語の「Human rights」を翻訳したもので、いま支那で使われている「人権」という言葉も、その日本人が訳した造語を、そのまま採り入れているものです。

ところが、文字は文字として独り歩きします。
つまり、英語圏の人々の「Human rights(人に備わった規範)」が、日本で「人権」と翻訳され、

それを大和言葉を持つ日本人は「人が支え合いながらバランスをとって生きていく権利」と思い、
日本に住んで日本語を話して日本人のような顔をしている日本人でないけれど漢字を扱う人(ややこしい言い方をしています)や、支那朝鮮半島の人たちは、「自分が腹を膨らませるために人を捕食するための権利」と思い込むわけです。

文化のギャップというのは、おそろしいものです。
ですから最近は日本の中に、日本に住んで日本語を話して日本人のような顔をしている日本人でないけれど漢字を扱う人が増えてきて、彼らは一様に口をひらけば「人権を守れ!」、「人権が大事だ!」といいます。

聞いている日本人は、勝手に「私たちの生きる権利を守ろうとしてくれているありがたい人たち」と思い込みます。

ところが、言っている当の本人たちは、「俺の稼ぎを守れ!」「俺の稼ぎが大事だ!」と言っているのです。

それに騙されて、一緒になって「人権を守れ」と言っている日本人こそ、大間抜けのお人好しということになります。

この違いを理解しないで、国会で与野党入り乱れて論戦をしても、議論がかみあうはずがありません。

また「人権派の弁護士」などというと、いかにも、やさしそうな、人を大切にする先生のようなイメージがありますけれど、その内実は、俺の稼ぎが欲しいだけの、人を喰い物にする弁護士ということに、漢字の意味はなってしまいます。

日本人になるということは、「日本に住んでいる」ということや、日本語に堪能である、ということではないと思います。

人と人とが支え合う社会、迷惑をかけることがないように、お互いに、我儘を抑え自粛して、みんなが繁栄していくことができるようにしていく、思いやりがあって、お天道様の下で天皇を敬う社会の一員になって生きる人になる、ということです。

そのことが理解できていれば、日本に住んでいなくても、また日本語がわからなくても、それは日本人です。
逆に、日本に住んでいて日本語が堪能でも、それがわからないなら、日本人ではないということです。

そして彼らにとっての「権」の意味が理解できれば、彼らにとっての権力とはいかなるものかがわかります。
人種が違うのです。
文化も違うのです。

相手にする必要などないし、下手にかまえば、怪我をするのは日本です。

これを古い日本の慣用句で、「からかっちゃ合わない」
といいます。

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