「先人の教え」

画像の説明 いささかツマラナイことを申しますが、2010年1月に、小泉八雲の『稲むらの火』をご紹介し、海岸で潮が大きく引いた後には、津波が来るから注意が必要と書かせていただいたことがあります。

この物語について、タイでスマトラ地震と大津波が発生した際に、当時の小泉首相がタイを訪れると、「日本では小学校の教科書で津波の際には引波があるということを教えているそうですね」と言われ、一同、何のことかわからなかったという逸話があります。

実は、このお話は戦前は、国民学校の教科書に載っていたのですが、戦後は削除されたままになっているものです。残念なことだと思います。

この『稲むらの火』をご紹介した当時、当ブログについての批判として、「引波があったからといって、必ずしも津波が来るとは限らないのに、ねずは嘘を書いている」などという指摘が多数されました。

ところが今回の東北の津波についても、現に、引波が起きているわけです。
注意警戒をして、何もなければ御の字です。
逆に、知らずに被害に巻き込まれることのほうが、よほど恐ろしいことだと思います。

さて、津波といえば、2011年3月11日に発生した東日本大震災では、死者1万5524人、行方不明者7130人、計2万2654人(2011年7月2日警察庁発表)の尊い命が人失われましたが、当時、その厳しい状況の中で、岩手県釜石市では、津波の直撃を受けながら、小中学生全員が命を守られました。

そでは、いったい何が起きていたのか。
このお話は、2012年3月に掲載したお話ですが、あらためてご紹介し、再考してみたいと思います。

岩手県釜石市は、これまでにも再三にわたって津波被害を受けてきました。

明治29(1896)年6月15日には、明治三陸地震が起き、このときは釜石市の東方沖200kmを震源地とするマグネチュード8.5の巨大地震となりました。

この地殻変動によって発生した津波は、最大で海抜38.2メートル、釜石にはなんと8.2メートルの津波が襲っています。

このため、当時の釜石の全人口6,529人のうち、4,041人が死亡するという痛ましい災害となりました。

ところが時がたつにつれて、悲惨な歴史は忘れ去られ、「慣れ」というのでしょうか。津波警報が発令されても誰も避難しなくなしまう。そんな状況となっていたそうです。

そこで、「これではいけない。市民の意識を変えなければ」と立ち上がったのが、群馬大学大学院教授の片田敏孝さん(51当時)でした。

きっかけは上にご紹介した2004年の、タイのスマトラ沖大地震です。

土木の専門家として現地入りした片田教授は、死者22万人、負傷者13万人の被害をもたらしたこの地震において、地震そのものよりも、そのあとの津波による被害の深刻さに、たいへんな衝撃を受け、「同じことが日本で起きたら大変なことになる!」と思ったのだそうです。

そもそも日本は地震大国です。
世界で起きるマグニチュード6以上の地震の約2割は、日本で起きています。

このことは、日本が国土面積でいったら世界の0.25%に過ぎないことからすれば、とんでもなく大きな事実です。

片田教授は、津波対策のためのセミナーを開くことにしました。

みんなで津波による被害を、再考しようとしたのです。
ところが防災セミナーに集まってくるのは、そもそも防災対策や津波被害に高い関心を持った人たちばかりです。

それ自体は良いことですけれど、そのような一部の人だけしか知識を共有できないということでは、いざというとき、被害を防ぐことができません。

「これではいけない」と思った片田教授は、平成17年から、全国の市町村の防災対策課に連絡をとり、津波対策を呼びかけることにしました。

そしてたびたび巨大津波による被害に遭っている過去を持つ釜石市に焦点を絞り、市の対策課とともに釜石の小中学校で、直接子供達に津波対策のための授業を行うことにしたのです。

片田敏孝教授と子供達

釜石市は、過去の津波被害への対策のために、昭和53年に釜石港の入り口に防波堤を築いています。
この防波堤は、全長1,660メートルもある長大なもので、なんと水深19メートルの深さから立上げた丈夫な堤防です。

平成22年には世界最大水深の防波堤として、ギネスブックにも登録されています。

総工費を市民の人数で割ると、ひとりあたりなんと300万円の費用負担になります。
本当に、市をあげての大事業に取り組んだのです。
さらに釜石市は、全家庭に「津波ハザードマップ」を配布して被害の阻止に勤めていました。

けれど災害は、思わぬ規模でやってくるものです。
防波堤は高さ「6メートルの津波」にまで対応しています。

けれど実際には、現に明治三陸地震で「8メートルの津波」が来ているのです。

片田教授は、その危険を必死に訴えました。
市の防災課も、「それでは、小中学校の生徒向けなら」ということで、ようやく災害対策教育への取り組みを許可してくれました。

教授は市内の各小学校を巡りながら、体育館に集まった生徒たちに、「君たちは津波ハザードマップの想定にとらわれてはいけない」と訴えました。そして、
「地震が来たら、津波から逃れるために最善を尽くして、なによりも先ず避難しなさい」と教え続けました。

現職の大学院の土木教授が、市のお偉いさんたちや、市民に直接語りかけるのではなく、小学生に教えるのです。

プライドというなら、傷つくこともあったかもしれません。けれども、「万一のとき、ひとりでも大切な命を救いたい」そう思う片田教授の情熱は、そんなつまらない個人のプライドよりも、はるかに大きな使命感に満ちたものでした。

子供たちも教授のその熱意に打たれました。

そして、平成23年3月11日、東日本大震災が起こるのです。

地震が来たとき、海岸からわずか1キロのところにある鵜住居小学校では、地震直後に校舎の3階に児童が集まりました。

校舎の建物は無事です。
しかもこの小学校は津波による浸水想定区域外です。
鵜住居小学校のある位置は、明治、昭和の津波で被害がなかったのです。

ところが生徒たちが、その屋上から見下ろすと、隣りの釜石東中で、生徒たちが校庭に駆け出していました。
これを見た児童たちは、日頃の同中との合同訓練を思い出しました。

そして、自らの判断で校庭に駆け出したのです。
それぞれの判断で、です。
校内放送は停電のため使えなかったのです。

こうして鵜住居小の児童ら約600名は、500メートル後方の高台のグループホームまで避難しました。
ここは、市の指定避難場所となっているところです。
けれど息つく間もなく、裏側の崖が崩れはじめました。

危険を感じた子供たちは、すぐに約500メートル奥にある高台の介護福祉施設を目指して駆け出しました。
その約30秒後です。
グループホームは津波にのまれました。

背後からは、建物を壊し呑み込む津波の轟音が迫っています。生徒たちは、たどり着いた介護福祉施設からさらに高台へ駆け出しました。

津波は介護福祉施設の約100メートル手前で止まりました。すべてが避難開始から10分足らずの出来事でした。

市内各所では、すでに7割の児童が下校していた釜石小学校(児童184人)でも、生徒は全員無事でした。
祖母と自宅にいたある児童は、祖母を介助しながら避難しました。

指定避難所の公園にいたけれど、その児童は、津波の勢いの強さをみて、さらに高台に避難しました。
ここでも片田教授の日頃の指導が生かされていたのです。

片田教授のメッセージです。
「釜石市内の小・中学校での防災教育は、年間5時間から10数時間行いました。けれど子供たちに教えたことが、彼らの頭の中だけで完結してしまうと、それは家庭や地域へと広まって行きません。
 
そこで私は授業の最後に次のことを問い掛けました。
『君たちは先生が教えてきたとおり、学校で地震に遭えば絶対に逃げてくれると思う。だけど君たちが逃げた後に、お父さんやお母さんはどうするだろう?』

これは厳しい質問です。
子供たちの表情も一斉に曇ってしまう。
なぜなら子供達は、お父さんやお母さんたちは、自分のことを大事に思うから、きっと学校まで自分を迎えに来ると想像できるからです。そしてその結果がどうなるかまで想像できるからです。

私は続けてこう話をしました。
『みんなは今日、家に帰ったら、お父さんやお母さんに
君たちが教えてあげるんだ。

『いざという時は、僕は必ず逃げる。だからお父さんやお母さんも必ず逃げてほしい』と、そのことを心から信じてくれるまでちゃんと伝えるんだ!』

その日は授業参観日だったため、
子供たちだけがいる場でそう言い聞かせた一方、保護者が集まっている場所へも行き、次のように話をしました。

『私が行った授業を踏まえ、子供たちは今日、“いざという時は、僕は必ず逃げるから、お父さんやお母さんも必ず逃げてね”と一所懸命に言うと思います。

あの子たちは、お父さんお母さんが、自分のことを心配してくれるがゆえに命を落としてしまいはしないかと心配しているのです。
でも、皆さんも、子供たちが絶対に逃げてくれると信用できないと、 自分一人で逃げるという決断がなかなかできないだろうと思います。
ですから、その確信が持てるまで、今日は親子で十分話し合ってほしい』

そして最後にこんな話をしました。
『東北地方には<津波てんでんこ>という言い伝えがあります。
これは、津波がきたら、てんでんばらばらに逃げなさい、そうしないと家族や地域が全滅してしまうという教訓です。

しかし、これを本当に実行できるでしょうか。私にも娘が一人います。
たとえば地震がきて、娘が瓦礫の下敷きになっていたとしたら、たとえ津波がくることが分かっていたとしても、たぶん私は逃げない。どう考えても逃げることなどできません。

にもかかわらず昔の人は、なぜこんな言葉を残してくれたのだろう。私はその真意を考えたのです。
おそらくこの言葉には、津波襲来のたびに、家族の絆がかえって一家の滅亡を導くという不幸な結果が繰り返されてきたことが背景にあると気付きました。

その意味するところは、老いも若きも、一人ひとりが
自分の命に<責任>を持て、ということです。

そしていま一つの意味は<信頼>です。
家族同士がお互いに信じ合っていることが大事ということです。

子供は、お母さんは必ず後からちゃんと迎えに来てくれると、お母さんを<信頼>して逃げる。
お母さんは、子供を迎えに行きたいが、我が子は絶対逃げてくれているという<信頼>のもと、勇気を持って逃げる。 

これは家族がお互いに信頼し合ってなければできないことです。

ですから「津波てんでんこ」というのは、自分の命に<責任>を持つということだけではなく、それを家族が信じ合っている。
<信頼>しあっている、そんな家庭を日頃から築きなさい、という教訓なのではないでしょうか。

今回の震災で、釜石では市全体で約1300人が亡くなりました。学校の管理下になかった5人を除いて、全員が生き残ってくれました。
生き残った3000人の小中学生の親を調べてみると、
亡くなったのは40人程度でした。これは、被害全体から見たら、とても少ない数です。
 
これは子供を通じて行った親や地域への防災教育の取り組みや「津波てんでんこ」の話がうまく伝わった結果ではないかと感じています。」

戦前の日本では、小学5年生の学校の国語の教科書でこの物語を紹介し、地震のあとには津波が来るから高所に逃げなさい、と子供達に教えていました。

けれど昭和22年、教科書のこの記述はGHQによって削除されて今日に至っています。

けれども日本では、その後も被害が起こり続けました。
昨今ようやく防災対策のためのハザードマップなどのマニュアルが各家庭に配られるようになりました。

けれど思うのです。
自然災害というものは、私たちの想定をはるかに超えてやってくるものです。

いざというときに身を守り、家族や子供達の未来を守るのは、日頃からの備えと代々受け継がれて来た先人達の智慧なのではないでしょうか。

災害は、マニュアル通りにやってくるわけではないのです。

片田教授は語ります。
「最近では<絆>という言葉が流行っています。けれど、<絆>だけでは人は生き残れません。もうひとつ<信頼>が大切なのです。」

日本は、根本に家族という<相互信頼>を置く国です。
自然災害の多い日本では、長い年月をかけて、そういう国家を築き上げてきたのです。

私たちはそのことの意味を、もう一度、しっかりと考え直してみなければならないのではないかと思います。

それともうひとつ、片田教授の

<そこで片田教授は、津波対策のためのセミナーを開いた。ところが防災セミナーに集まってくるのは、そもそも防災対策や津波被害に高い関心を持った人たちばかりだった。これでは被害は防げないと考えた片田教授が、
小中学校で、直接子供達に津波対策のための授業を行うことにした>
という行動です。

片田教授は語ります。
「子供達に10年教えたら、始めに教えた小学校6年生は成人になります。そうなると今度は、大人たちが自分の子供に教えるようになる」たいへんに含蓄のある言葉だと思います。

また、
「自分の命に<責任>を持つということだけではなく、
それを家族が信じ合っている。<信頼>しあっている。
そういう家庭を日頃から築くこと。実は、それこそが災害から身を守るうえでとても大切なことである」
という教授の指摘は、それこそが日本的和の心であると思います。

日頃から、騙し合ったり、攻撃しあったり、権力をカサにきて威張ったり、逆に猫なで声で甘やかしたり、
そういう関係では、信頼も生まれないし、責任の自覚も生まれません。

これは、親子や家庭というだけでなく、国家国民においても同じではないかと思います。

バレーボールやサッカーを考えたらわかります。
オリンピックに出るようなチームや、プロチームでは、試合中に選手は味方のプレイヤーの方をいちいち向かなくても、どこにボールを蹴れば(あるいはパスすれば)、誰がそこにいて受けてくれるかちゃんとわかるといいます。

また、そういうチームでなければ決して強くはなれません。

目の前にいなくても、あいつはいま、何をしているのかがわかる。

その信頼に、答えようとする。
そこまでの深いつながりを、日頃から形成していくこと。

それが日本的和の精神であろうと思います。
そして、その精神には、必ず「思いやりの心」が重なるのです。

日本はとても自然災害の多い国です。
大陸やどこかの半島のように、地震も津波も洪水もないという国とは異なります。

それだけに、人と人とが互いに助け合わなければ、日本列島では、人々は生存してこられなかったのです。
だから、日本人は、和をたいせつにするのです。

そして、騙す人と騙される人がいれば、騙す方が悪いと考えるのが日本人です。

諸国は異なります。
騙されたほうが、馬鹿なのです。
けれど、そういう社会環境であれば、責任も、信頼も、和の心も、思いやりの心も、これは絶対に発達しません。

そして、環境に適合した者だけが、長い歳月の間にDNAを残してきたとするならば、そのような環境にあった民族は、言葉や理屈では責任、信頼、和の心、思いやりを覚えても、DNAレベルでは到底理解できません。

ですから、いざというとき、いわゆる非常事態になると、もはや火病を起こすしかなくなったり、脱糞までして嘘を言い張るしかなくなったりする。

そういう人しかDNAを残すことができなかったのです。
これは残念なことです。

戦後、同じ日本統治にありながら、台湾が親日、半島が反日になったのは何故かということは、よく言われることですが、台湾は、日本以上に自然環境が過酷だったところです。

台風も直撃するし、地震も多い。それに厳しい風土病に常に晒されていました。
そういう環境下では、人と人とが、互いに信頼しあい、互いに助け合っていかなければ、生き残ることはむつかしいのです。

ですから自然と責任や信頼、和の心、思いやりを持った人のDNAが環境に適合し、生き残る。

一方、半島は、日本列島や台湾と較べて自然災害が少なく、むしろ人災によって民衆が押さえつけられ、収奪され、貧困のどん底状態が長年続いたという環境にあった国です。

そこでは、まるで正反対のDNAしか環境適合しないし、生き残れなかった。
そういうことではないかと思います。

だからといって差別はすべきではありません。
そうではなく、そのような環境にあったということを、互いにわきまえ、理解し、区別するということが大事なのではないかと思います。

「人は遺伝子の乗り物にすぎない」
というのは、リチャード・ドーキンスの『利己的遺伝子論』ですが、より環境に適合したDNAが生き残った結果、地域ごとにDNAの傾向の異なる民族が生まれ、その民族の違いが国境を生んだのであろうと思います。

日本は、なんだかんだ言っても、自然災害と切っても切り離せない国です。

そしてその日本に住む限り、その環境に適合した責任、信頼、和の心、思いやりの心を持ったDNAでなければ、結局は生き残れないのです。

そして、その責任、信頼、和の心、思いやりの心こそ、戦後の日本人が見失ったものだったのではないかと思います。

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