「メディア」

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ネットメディアの台頭により、接触する情報源やメディアが多様化する中で、テレビや新聞などのいわゆる「既存メディア」「主要メディア」の影響力が低下している。

その一方で、メディアへの不信感や疑義を持つ層が増えているとはいえ、まだまだメディアを介して伝えられるデータに一定の客観性や信頼性を感じている層が少なくないことを実感する。

特に現在の大学生世代の若者層は、既存メディアへの不信感を強く持っているアラフォー以降世代(高校・大学時代に急激にネットメディアが拡大して世代)とは対照的に、意外にも情報を鵜呑みにしやすいのではないか、感じる瞬間は少なくない。もちろん、若さや経験不足なども加味した上でも、だ。

その背景にあるのは、現在の大学生世代がアラフォー以降世代よりも、コンピュータやインターネットとの「距離が遠い」という部分にあるように感じている。意外に思うかもしれないが、現在の10代、20代のコンピュータのリテラシー能力は予想以上に低い。

大学に入学してきた新入生たちと面談などをしていると、「自分の専用のパソコンを保有していない」と答える学生は意外と多い。むしろ「学校の授業ではやっている」、「家族で共有のパソコンが一台あって、親が使っていない時に利用できる」など、生活の中で接触する機会は必ず設けられているが、個人的にコントロールできているかと問われればそうではない、という印象だ。

もちろん、スマートフォンを中心としたネットに接続されたIT機器が生活の中に自然の浸透していったことで、「ネット利用を意識させることなく、ネット利用ができる生活環境」が構築されている、という現実はある。

かつてはパソコンでしかできなかったほとんどのことが、小なスマホ一つで全て事足りてしまう。しかも、現在の大学生世代は「初めても保有する携帯電話がスマホ」となる世代だ。パソコン保有を飛ばして、いきなり「モバイルコンピュータ(スマホ)の保有」になっているのだ。これでコンピュータのリテラシー能力が高まるはずはない。若者層の情報を検索し、検証する能力は社会の情報環境の変化とは裏腹に、驚くべきほど低い。

そういう現状に日々、直面しつつ感じることは、ジャーナリズムのあるべき姿の重要性だ。局部的であったり、偏った情報・データの提供や、ミスリードを誘導するような恣意的な表現などを見ると、現在の若者たちの生態を利用して「何かブーム」「社会の動き」を創作しているのではないか? と感じることもある。

未成熟な若者とその現在的な生態を利用した情報戦略には、いささか「情けなさ」を感じる。「メディアの矜持(きょうじ)」はいづこへ、だろうか。

ミスリードの実例

もちろん、露骨な偏向報道やわかりやすいミスリードなら、むしろ話としては簡単だ。しかし、日本語という言語は、接続詞の使い方一つで、その印象を大きく変えてしまうことが問題をわかりづらくしている。

例えば、昨年財務省が求めて不採用になった公立小学校1年生での「35人学級」の見直し問題を事例にして大学生に考えてもらったことがある。

「財務省は、1学級40人体制に戻すことで教職員数が約4000人減り、人件費の国負担分を年間約86億円も削減できると試算」という報道と、

「財務省は、1学級40人体制に戻しても教職員数は約4000人しか減らず、人件費も年間約86億円しか削減ができないと試算」とではどう感じるか? 文字数は全く同じだ。もちろん使っている言葉もほぼ同一だ。違うのはわずかな言い回しだけだろう。

さらに付け加えれば、

「日本の小学校教諭の数は約42万人、2014年度の文部科学省文教予算は4兆964億円」

というひとつの客観情報を提供するだけで、その印象は更に変化する。前提となる情報の有無によってもその印象は更に異なる。

もう一つの例で考えてみる。

時事通信が11月実施した世論調査によれば(全国成年男女2000人・個別面接方式)、安倍内閣が重要政策とする「1億総活躍社会」の支持率は、「支持する・38.0%」、「支持しない・37.5%」であるという。

これを「賛否がほぼ拮抗」と伝えた。

さて、ここで不思議な感覚を覚える人は多いかもしれない。

「1億総活躍社会」というキーワードが発表された当初、メディアでは「理解できない」「曖昧」「意味不明」「全体主義的」「戦時中の玉砕をイメージ」などの批判が続出した。

ことさらに「具体的な策を持たない安倍政権が適当なキーワードでごまかしている。意味不明な総理大臣だ」という印象が持つた人は少なくないはずだ。実際、そのように報道されることも多いのだから、当然といえば当然だ。

しかし、結果として「拮抗」とはいえ、支持(38.0%)が不支持(37.5%)を超えている。これがデータから読み取れる客観的な事実だ。あの騒ぎは一体何だったのか。

表現という点からも見ても、「支持(38.0%)、不支持(37.5%)」を「拮抗」と表現するか、それとも「およそ4割の国民が支持」と表現するか、あるいは「支持率、4割に満たず」と表現するかによって印象を大きく変えることができる。

一般的には、政策の一つの支持率「およそ4割」という数値は決して批判されるほど低さではないように思う。もちろん、残り6割が全て不支持であればまた判断も異なるがそうではない。逆に言えば「4割近くが不支持」という表現もできる。

しかしながら、あそこまで大きな話題(?)となり、当初はかなりネガティブに揶揄されていたはずの「1億総活躍社会」の支持が4割という事実を考えると、発表当初のメディアの批判的な論調とその盛り上がりには違和感を持ってしまう。

逆に、かなり多くの反対があったはずの安保法制。こちらは安倍政権への不信任として国民的な政権批判・不信をも生み出し、安倍内閣否定が始まった・・・かに見えたが、まったくそんなことにはならなかった。

一時は不支持が支持を上回ったものの、現在の状態を見れば、安倍政権の支持・不支持の逆転も解消し、支持率も回復基調だと見られている。

安保法制を「戦争法案」と命名して騒いでいたあの盛り上がりを考えれば、安倍内閣は、「消費税並み」として史上最低の支持率だった2001年の森喜朗内閣ぐらいになってもおかしくなかったはずが、そうはなっていない。

これが意味していることは極めて単純だ。

メディアによって報道されている「内容」が、現在進行形の「事実」や「世論」を、必ずしも正確に表現しているわけではない、ということだ。

メディアはその機能特性上、「ひとつの事実」あるいは「ひとつのトピック」を抽出し、拡大してゆくことで、マスとしての表現力と影響力を高める。そのため、話題になる(視聴率が取れそう、部数が伸びそう)「ひとつの事実」だけに大きな注目を集め、そこから全体が論じざるを得ない。

しかし、視聴者や読者としては、大きく扱われる「ひとつの事実」が全てに写ってしまう。

ただ、ここでの問題は、抽出され、拡大された「ひとつの事実」が必ずしも「全体の事実」ではない、ということだ。

「キャベツが異常に値上がりした」ことで、キャベツ産業界隈で大きな問題が発生してからといって、それがすなわち日本全体の「生鮮市場が崩壊」になったり、「生活費の圧迫」や「食生活の危機」になるわけではないからだ。

これは「偏向報道」か否か、「悪意ある誘導」か否か、という問題ではなく、メディアが持つやむを得ぬ特性である。全ての情報を量質ともにフラットに並べることなどはできないからだ。
しかし、何を選択し、どれを拡大し、どう表現するか、はそのメディアの社風なり、経営戦略などから決定される。そこから、今自分たちが大きく表現すべき「ひとつの事実」を選択するのである。

発信されるメディアによって、それぞれその表現は微妙に(あるいは大きく)異なるが、多くの大学生(に限らず一般消費者)が、複数のメディア、複数の情報源からニュースを入手し、「確からしさ」の検証や「裏取り」をしているような人はほとんどいないだろう。

そうなると、自分が日常的に接しているメディアかの情報が圧倒的多数を占めるだろうし、その情報を(多少の疑いを持つにせよ)信じてしまう場合が圧倒的多数だ。

本来、メディアに期待される役割は「誘導」ではなく、「開示」だ。一般庶民では探知や収集の難しい様々な情報を、生活者に変わって収集し、分かりやすく提示(時に解説)をしてくれる機能・メカニズムがメディアであるはずだ。多くの視聴者がそのように理解するからこそ、「テレビ(or新聞)で紹介(or報道)されているのだから、間違いではないだろう」という認識にもなってきた。

近年、メディアやジャーナリズムのあり方が問われることが多い。最近では、「護憲派メディア」などという言葉も生まれ、その偏りを指摘されたり揶揄されることは多い。

しかし、その要因にあるのは、メディアの思想性というよりは、矜持(プライド)を失っていた戦略を選択しつつあるメディアへの不信感であるように思う。

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