「当たり前の凄み」

画像の説明 古事記を読むとき、どうしても本文の神話にばかり目が向いてしまうのですが、実は序文が面白いのです。

序文に何が書いてあるかというと、まず古事記のあらすじから始まり、その後に「歴代の政治には緩急があり、はなやかさと質素の違いはありましたが、古(いにしえ)を省みて風習や道徳が廃れることを正し、世を照らすべき典教が絶えようとしていることを補強しないということはありませんでした」と書かれています。

ここに、「世を照らす典教」とあります。
つまり古事記は「世を照らす典教」とするために書かれているのです。

ということは、古事記はただの神話の書や歴史書ではないということです。そこに書かれているのは「教え」だということです。

大国主神が若い頃に蛇の部屋に閉じ込められたという挿話は、ただ単にスセリヒメから霊力のある布を授かって、その布を振ったら蛇たちが退散して、部屋でぐっすり眠れたというお話は、額面通りに「ああそうなのか。神話だから布を振ったら蛇が退散したのか」と読むのでは、古事記を読んだことにならないのです。

このお話は、蛇には手足がありませんから、手も足も出ない苦境に立たされたときに、いかにしてその困難を乗り越えるのか、そのために必要なことは夫婦の愛の力なのだということが書かれていることを知る必要があるということになるわけです。

そして実はこのことが、私たち日本人の「歴史観」でもあるわけです。どういうことかというと、私たち日本人にとっては、「歴史は学ぶもの」です。

いまこの瞬間にある、あらゆる選択肢の中で、何を選択すべきなのか、それを決める手がかりが、過去の歴史です。
だから私たち日本人は、できるだけ正確な歴史を知ろうとします。

その歴史認識が間違っていたら、いまの判断をも間違えてしまうからです。

つまり、過去の因果関係を学ぶことで、いま起きている事柄の因果関係を解析し、できるだけ良い判断をして未来への石杖にしようという感覚が、私たち日本人にとっては、ごくあたりまえの認識としてあるということです。

そしてこれが日本人にとっての常識です。

ところがこのような歴史観というのは、実は世界の非常識でもあるわけです。

たとえば印度では、彼らはカルマ観ですから、いま、この瞬間に起きていることの原因は、すべて過去世の因縁と認識されます。

ですから、今起きていることの時系列の出来事には、相互の因果関係が認識されません。

「酒を飲んで運転したから事故を起こした」のではなくて、それは過去世の因縁によって事故が起きたのであって、酒を飲んだ事実と、運転した事実の間に因果関係があるとは考えられないのです。

同様に中東なら、それはすべてアラーの思し召しです。
酒を飲んだことも、事故が起きたことも、すべてはアラーの思し召しですから、そこに善悪も反省もありません。

ただアラーの思し召しとして受け入れるだけです。

西洋なら、ヒストリーであり、英雄譚です。
ヒストリーは、聞いた、つまりヒアリングしたストーリーで、何のために聞くかといえば英雄譚をつくるためです。

ですから酔って起こした人身事故の相手が、世を乱す悪者であれば、人が酒を呑むことはあたりまえのことであり、むしろ犯人は、悪者を退治した英雄になります。

そしていったん、こうしたストーリーが作られると、そのストーリーを補強する内容以外の事実は、すべて捨てられます。
そして、捨てた事実を拾い集める人は「歴史修正主義者」と呼ばれて世間から排除されます。

これが支那、朝鮮になると、酔っ払って事故を起こしたのは、死んだ被害者のせいであって、事故を起こした犯人こそが被害者であるということになります。

常に生き残ったがわ、いま生きている側の正統性を担保するのが歴史であって、そこに事実関係は関係ないのです。

日本人として、日本で生まれ育った私たちからみると、上の印度、中東、西洋、支那朝鮮の歴史観は、右翼、左翼を問わず、お笑いの世界のようなおかしなものにしかみえません。
つまり右翼であれ左翼であれ、やはり私たちは日本人なのだということです。

そして私たち日本人は、何千年も前から培われてきた日本社会の常識を、空気のようにあたりまえのことと思っています。

そこに、まったく異なる価値観を持つ人たちがいる、ということさえも、理解できないくらいに、あたりまえの常識になっているのです。

そして、それが空気のようにあたりまえすぎるために、そのことのもつ偉大さ、凄味、ありがたさといったことを、ついつい見過ごしてしまいそうになります。

いま古事記をあらためて読むことは、そうした私たちが常識と思って共有しているあたりまえのことが、なぜあたりまえなのかを学ぶ手がかりを、私たちに教えてくれます。

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