「女傑」

画像の説明 戦後、戦犯として投獄、処刑された人の数は、約6千名にも達します。

処刑され殺害された人の中に、女性が4人います。
4人の中には、東洋のマタハリと異名をとった川島芳子(かわしまよしこ)などもいるのですが、お町さんも処刑されたうちのひとりです。

お町さんは、福井県吉崎御坊近くの在家の生まれで、本名を咲子といいます。後に旧満州国安東市に渡り、湯池子温泉の女中頭となり、そこで終戦を迎えています。

満州から引き上げる最中、お町さんは「挺身娘子隊(ていしんじょうしたい)」を編成し、その総監となりました。
どういうことかというと、進駐してきたソ連兵は、夜毎、日本人避難民のところにやってきては、銃を突きつけて女性をさらっていくのです。目的は強姦です。

女性たちは髪を坊主頭にし、顔に墨を塗り、難を避けようとしました。

するとソ連兵は全員を立って並ばせ、ひとりひとり胸を揉んで女と確かめ、連行しました。こうした中で、お町さんは、もとプロの売春婦だった仲間を糾合し、ソ連兵たちがやってくると、むしろ自分たちから率先してソ連兵の相手を引き受けてくれたのです。

挺身隊というのは、まさに体をはって、一般の日本人女性たちを守ってくれた女性たちだったのです。ソ連兵には、毎夜、一回に20人近くも相手させられたそうです。さすがのプロの女性たちでさえ、朝になると足腰立たない状態になったといいます。

そんなところに、ある日、奉天にあった陸軍病院から、重度傷病兵の、三上勝弘中尉以下108名がやってきました。
彼らは、重傷の傷病兵たちです。

病院に収容されていたのですが、それを八路軍(支那共産党軍)がやってきて、病院を摂取するからと、重傷者たちを着の身着のままで追い出してしまったのです。

自決したくても、そのための銃も銃剣もありません。
三上中尉たちは、「止まるも死、進むも死。ならば一歩でも日本に近付いて死のう!」と、重傷の体をひきずって、道を求めてさまよっていたのです。こうして半死半生の姿で、お町さんたちのいる安東にたどりつきました。

三上中尉らの姿を見たとき、お町さんは次のように言ったそうです。

「お町も日本の女でございます。此の目玉の黒い間は、あなたがたを滅多に餓死させるものではありません。お町は唐人お吉ではございません。お町には国府も八路もございません。
日本人の為に生き、死ぬばかりでございます。時を経て一顧だにされないだろうことは覚悟の上でございます。」

そして進んで三上中尉以下の重傷者の世話を引き受けてくれました。彼女たちの看病は、ほんとうに献身的だったそうです。
どこからか食べ物も調達してきてくれました。

ようやくみんなの体力も回復し、病気も治り、いよいよ日本に帰れるとなったときのことです。お町さんは、仲間たちから集めたお金をもって、三上中尉のもとにやってきました。

「わたしたちは、汚れた女でございます。ですからもう祖国日本の土を踏むことはできません。これは汚れたお金かもしれません。けれど私達が精一杯稼いだお金の全部です。みなさんが日本に帰られる道中で、何かのたしにおつかいください」

お町さんは、その後、八路軍によって戦犯として銃殺刑となりました。お町さんの仲間の娘子隊の仲間たちも、全員行方不明です。

たとえ職業や身分の違いはあっても、人としては対等というのが日本人の考え方です。彼女たちは売春婦です。
それこそ韓流でいえば「従軍慰安婦」です。けれど彼女たちの行いと行動は、韓流の慰安婦とはまるで違うものでした。
なぜなら同じ同胞を守るために、身を挺して彼女たちは戦ったからです。

お町さんの、「日本人の為に生き、死ぬばかりでございます。時を経て、一顧だにされないだろうことは覚悟の上でございます」という言葉には、胸を打たれます。

三上中尉らは、それから三十余年、悲しくあわれなお町さんの言葉が忘れられませんでした。そして日本に帰ったみんなでお金を出し合い、お町さんの死をかけた平和への祈りと冥福の久遠をこめて、三ケ根山に碑を建立しました。

この碑には以下の文が書かれています。

お町さんは佛都福井県吉崎御坊近くの在家に生まれ、後、旧満州国安東市に渡って湯池子温泉の女中頭となりこの地に終戦を迎えた。昭和二十年八月十五日、敗戦国民と化した在満日本人は家を奪われ財を失い、悲惨な俘虜の運命へと追い込まれて行った。奥地より陸続伝え来る無惨な同朋の悲報。

然し此処にして誰に何ができるだろうか。若し出来得るとするならば機智縦横度胸あり、身を捨てて同朋の愛に死んでくれる、そんな女人でなければならない。国境、北辺より避難南下の人々を抱えてふくれ上がった安東幾千万の日本人の命運を背負っての責は、余りにも重く、酬いられる保証は全くない。

お町さんの活躍は満州電電安東支社長稲津宗雄氏の回顧録「望郷」の随処にかかれているが、彼女が心身困ばく、絶望のどん底にあった三上中尉以下に生きる気力と体力故国帰還の夢と希望を与えた事には全くふれられていない。

あれから三十余年、
いよいよかなしくあはれにお言葉が忘れられず、ソ連軍撤退して八路軍により鴨緑江河畔に銃殺刑となったお町さんへの、死をかけた平和への祈りと冥福の久遠をこめて此処に碑を建立す。昭和五十五年九月

平和への祈り、平和への願い、戦争を忌避しする心、そしてこのような悲劇を二度とくり返さないようにすること。それはとても大切なことです。

けれど考えてみてください。
このケースにおいても、ソ連兵は毎夜勝手にやってきては、日本人の女性たちをさらって行ったのです。

戦争は相手があって起こるものです。
いくらコチラに憲法9条があろうと、敵が攻めてくれば、平和の祈りなど泡のように吹き飛んでしまうのです。だからこそ、日頃から、絶対に攻め込まれないための努力が必要です。

この物語を聞いた日の夜、あるスナックに伺いました。
そのスナックは、終戦後に南京から帰還された女性が経営しているお店です。

彼女は、大東亜戦争終結後、上海に疎開し、そこから日本に帰ってこられました。復員船では、船倉に押込まれ、船酔いでたいへんな思いをされたそうです。けれど彼女たちは、ソ連兵にも国民党軍にも、八路軍にも、まったく脅かされたり危害を加えられたりしていません。

なぜでしょう。

答えは、根本博陸軍中将以下の元日本陸軍兵士たちが最後の最後まで武装を解かず、果敢に暴行魔たちを追い払い続けてくれたからです。

残念なことですが、世界は紳士ばかりではありません。
身を守るために、わたしたちは国家としての武装が必要なのです。

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