「軍神」

画像の説明 根本中将は、終戦時に支那派遣軍司令部の命令にあえて背き、駐蒙軍の武装を解かず、また北支方面に展開した後も、武装したまま北京に駐屯しました。

ソ連にも、支那国民党軍にも、もちろん支那共産党軍にも屈せず、どこまでも軍を保持して敵を撃退し、敵方からは「戦神」として恐れられる存在となりました。

そのおかげで、蒙古方面にいた4万の日本人居留民、北支方面にいた35万人の日本人居留民、そして台湾金門島の戦いにおいては、かつての敵である国民党軍を指揮して台湾1千万人の命を救っています。

考えてみれば、単に軍の敗北を認めただけのポツタム宣言受諾が、結果として日本国の武装解除となり、日本の武装が解かれたことを良いことに、GHQや三国人を自称する支那朝鮮人によって、日本国は好き放題に蹂躙される結果を招いています。

いまはほとんど語られることもなくなりましたが、終戦直後においては、日本国内で市内を歩く普通の日本人女性が白昼、我が子が見ている前で陵辱されるといった事件も当時、頻発したのです。

こうしてみると、それらは単に「負けたから起きた」ということではなくて、日本が「武装を解いたから」事件が起き、女子供が蹂躙されたということがわかります。

いま国会において、自衛隊は違憲だとか、戦後の平和は日本が9条を守ったからだとか、愚にもつかない屁理屈を並べ立てている人達がいますが、彼らはいったい何をしたいのでしょうか。

何を目的としているのでしょうか。
日本をどうしたいのでしょうか。
日本人の安全を、彼らはどのように考えているのでしょうか。

そんなことを考えながら、以下の文をお読みいただければと思います。

これは旧陸軍士官倶楽部である偕行社の機関紙「偕行」に掲載いただいた論考です。

鍛え上げられたひとりの将帥の鉄の意思と行動が、ときに何千、何万という幾多の命を救うという話を書いてみたい。
偕行でも過去何度か採上げられている根本博陸軍中将のことである。

根本中将は、陸士23期で、終戦のときには駐蒙軍司令官としてモンゴルにいた。

以下概略を述べると、終戦後にソ連の機械化旅団が攻めて来た。駐蒙軍は軍使を出して2日間の猶予を願った。4万人近い在留邦人(民間人)がいたからである。

けれどソ連は聞き入れなかった。
一方では支那派遣軍から「即時停戦、武装解除」の命令が来ている。

このとき根本中将は一つの決断をしている。
「民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない」「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎これを撃滅すべし。責任は一切司令官が負う」との命を発したのである。

「この決意を聞いた丸一陣地の将兵の士気は一気に高揚した。
 既に祖国の敗戦を知りながら、邦人を守るために戦うのである。20日午後及び夜間に、ソ蒙軍が攻撃してきたが反撃して撃退した。21日は各方向から一部陣地内に突入したソ蒙軍と白兵戦を交え、奪還攻撃をかけ、迂回して陣地後方要点を占領しソ蒙軍を撤退」させた。

そしてこの日の夕方には、張家口に集まった邦人全員の引揚げを完了させている。この戦いで戦死・行方不明となった70名は顕彰されることはなかったが、間違いなく駐蒙軍は、4万人の命を救ったのである。

戦いに先立ち、根本中将は居留民避難のための列車を手配をしている。各駅にはあらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運ばれた。

避難民たちが衣食に困ることがないようにしたのである。
おかげでモンゴルから脱出した避難民には、他の地域にみられたような悲壮感がない。当時、張家口から脱出した当時25歳だった早坂さよ子さんの体験談には次のように記載されている。

「張家口はソ連邦が近いのでソ連兵が迫ってくるという話に戦々恐々とし、5歳の女子と生後10カ月の乳飲み子を連れて
とにかく、なんとか日本に帰らねばと思いました。駅に着きますと貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、集まった居留民は皆それに乗り込みました。張家口から天津まで普通でしたら列車で7時間位の距離だと思いますが、3日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。列車は「萬里の長城」にそって走るので、長城の上の要所々々に日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、皆で手を振り、兵隊さんたち、無事に日本に帰ってと祈りました。」

同時期、他の地域では、在留邦人が女子供ばかりのところを襲撃されて皆殺しにされたり、ソ蒙軍の兵士から暴行を受け、あるいは地元民に襲撃されて所持品から着衣まで奪われたりしている。

そうした情況からすれば、張家口からの邦人避難民が「手を振りました」とは、もちろん難民としてのご苦労や不自由はあったろうけれど、いかにもみやびなことである。

そしてこれをなし得たのは、間違いなく軍の将帥としての根本中将の断固たる意思と、その将を信頼して勇敢に戦った兵士たちの活躍にある。

ちなみに8月21日、ソ連軍を蹴散らした根本中将指揮下の駐蒙軍は、夜陰にまぎれて撤収した。列車は全部民間人避難のために使っていたから、自分たちは徒歩で帰還したという。
どんなに情況下にあっても、助けるべき者を助け、命をかけて戦い、自分たちは最後に帰投する。

強いものほど苦労する。
これこそ古来変わらぬ日本の武人心である。
こうして邦人4万人の命が救われたのである。

モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯している。中将はそのまま北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官となる。根本中将のもとに、今度は北シナに残る軍民合わせて35万人の命が置かれたのである。

当時のシナは、まだ蒋介石の国民党が幅を利かせていた時期である。しかし大戦勝利者を気取る蒋介石も、根本中将率いる北支軍には手が出ない。北支軍が断固武装を解かないからである。

国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との銃撃等は無数に起こったけれど、根本中将に率いられた北支軍は、どの戦いでも敵を完膚なきまでに叩きのめしている。

すでに北支方面軍は装備も不十分、弾薬も底をつき出しているはずなのに、である。

次第に根本中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、恐ろしい「戦神(いくさがみ)」と呼ばれる存在となっていく。

天帝に見出された「戦神」には勝てない。これはシナ人の伝統的思考である。だからこそ蒋介石は、昭和20年12月18日、直接根本中将と交渉を持った。

根本中将にしてみれば、武装の目的は邦人保護と無事な日本への復員である。断る理由はない。むしろ両者の争いを早急に終わらせ、国民党の協力を得るのが得策である。

はたして蒋介石は、
(一)北支軍とは争わない、
(二)日本人居留民の安全と、無事な帰国のための復員事業に積極的に協力する、と約束してくれたのである。

このとき根本中将は、蒋介石の協力に心からの謝辞を込めて次のように語っている。「東亜の平和のため、そして閣下のために、 私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます。」

この結果、在留邦人の帰国事業は、約1年で全員無事に完了した。根本中将は、昭和21(1946)年7月、最後の船で日本に帰国した。こうして北支にいた35万人の邦人の生命が守られたのである。

ある日、根本中将は普段着のまま、釣り竿を片手に、妻に「釣りに行って来る」と言い残して家を出た。
行方のわからないまま、三年後に帰宅した中将の手には、家を出たときのままの釣り竿が握られていた。

三年の間に何があったか、中将は何も語らない。
家族にも語らない。
友人にも語らない。
そしてそのまま昭和41年、74歳で永眠されている。

この三年間の事情がわかったのは、中将の死後20年近く経った昭和60年頃のことである。

実は家を出た根本中将は、蒋介石との「私で役立つことがあれば」との約束を果たし、台湾で一千万の人の命を守っていたのである。

昭和24年といえば、日本は占領下、東亜はいまだ戦乱の中にあった頃である。中共新政府が樹立され、人民解放軍と称する共産軍が、のべつあちこちで虐殺事件を繰り広げていた頃である。

その支那共産軍によって、蒋介石率いる国民党軍は支那各地で粉砕されていた。敗退した蒋介石はついに国外脱出し、台湾に逃れていた。

この時点で蒋介石に残されていたのは、台湾本島と南支那海に面した福建省の港湾都市の廈門(アモイ)近郊だけである。
すでに米国も蒋介石政権を見放していた。

米国務省は「支那は共産主義者の手中にある。国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」と公式に発言し、国民党への軍事援助の打ち切りを発表していたのである。

蒋介石は廈門(アモイ)を失えば、これで完全に支那本土での支配権を失う。そして共産軍がその勢いで台湾に攻め込んで来れば、おそらくは国民党兵士は全員虐殺され、元日本人であった台湾人同邦一千万の命さえも、どうなるかわからない。

台湾にいた国民党は連合国の一員なのだから、共産軍が台湾まで攻めて来ることはあり得ないという人もいるかも知れない。
しかし共産軍は、翌年には連合国相手に北朝鮮と朝鮮戦争を戦っている。

相手が連合国であれ、おかまいなしである。チベットに攻め込んだ共産軍は、チベット600万の人口のうち4分の1にあたる150万人を虐殺している。そういう連中が、台湾にやってくるのである。

同じことがもし起こったとすれば、元日本人であった一千万の台湾人同胞は、すくなくとも二百万人以上が殺害され、台湾は中華人民共和国の一部となり、その後の文化大革命等でさらに人が殺され、21世紀となった今日においても、チベット同様に、若い女性が独立を訴えて焼身自殺を遂げる、そんな情況になっていたかもしれないのである。

こうした情況で、根本中将は単身、ひそかに漁船を用いて台湾に渡った。

これには戦前、第七代台湾総督だった明石元二郎氏の息子の明石元長氏も献身的に協力をしてくれたという。戦後の混乱期の中である。

なんとかして中将の渡航費を秘密裏に確保しようとする元長氏の手帳には、「金、一文もなし」と書かれたメモが残されている。

戦後の焼け野原の混乱の中、渡航資金を確保するために奔走した元長氏の苦労が偲ばれる。氏は中将を延岡の港から送り出した4日後、過労のためにお亡くなりになっている。まだ42歳の若さであった。

他方、出港から14日かけて台湾に到着した根本中将は、途中の嵐と時化、船の難破などの困難によって、上陸したときには船はボロボロ、体もガリガリに痩せこけ、髭は伸び放題、まるで浮浪者のような姿だったという。

乙然ながら、根本中将は台湾警察によって不審な密入国者として逮捕投獄されている。

投獄された根本中将は、その後蒋介石との面会を実現し、廈門(あもい)防衛隊の顧問を任せられたのである。

ともあれこの金門島の戦いは、当時の中共軍にとっては、まさに「あり得ない」展開となった。それまで中共軍は国民党軍に対して負け知らず、勝利の連続だった。それが負けた。

理由は何か。
聞けば国民党軍には、日本人の「戦神」が付いたという。
日本軍の強さは当時の世界の常識で、その「戦神」とまで異名を取る陸軍将校が国民軍のバックについたというのである。

建国宣言したばかりの中共からみればまさに新国家への信頼さえ失墜させかねない恐怖の「戦神」である。

こうして中共軍の進撃は完全に止まった。
台湾から200キロ離れた金門島は、60余年を経た今日も台湾領である。

根本中将は蒋介石との約束を守っただけでなく、廈門の20万の命を救い、また台湾本島が戦場となることを防いで1千万の民衆の命を守ったのである。

戦いの後、台北に凱旋した一行を迎えた蒋介石は根本中将の手を握って謝意を述べた。

しかし中将は、
「シナ撤退の折、総統にはたいへんな恩を受けた。そのご恩をお返ししただけです」と静かに述べただけである。
そして結局この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍の一切を、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしている。

おかげで台湾国内でさえ、金門島の戦いは誰もが知っているけれど、根本中将の活躍については、誰も知らないという状態が続いた。

羽田に着いてタラップを降りる根本中将の手には、家を出るときに持って出た釣り竿が一本握られていたということは冒頭に書いた。

それはあたかも、「ただちょいとばかり釣りに行っただけだよ」といわんばかりの姿である。

なぜ中将は釣り竿を手にしていたのであろうか。
これについて私は次のように考える。
どんなに激しい戦地にあっても、途中にどんな困難があっても、そして何年経っても、決して家族のことを忘れない。
家族を守るために、自己の使命として働くのである。
その家族は妻子であり身内であり、そして家族としての日本である。

釣り竿はその証だったのであろうと思う。

立派なのは中将だけではない。
奥さんも実に立派である。奥さんも、いまなおご存命の娘さんも、そうした父の姿を咎めることをまったくしていない。
夫が行方不明の三年間、それはたいへんなご苦労があったことであろう。

しかもその三年間、夫がどこで何をしてきたのかさえも知らないし、わからない。夫も語らない。

けれど、その夫が、何かお役にたつことをしてきたに違いない、その一点だけは信じられる。
信じられるから待てる。
だから問わない。
聞く必要もない。
知るべきことなら、いつか知る時が来る。
それまでは夫を信じるだけである。
これが日本の武人の妻である。
おそろしいほどの絆と信頼である。

冒頭に「暴力装置」の語を書いた。
根本中将とこれに従う武人たちの働きは、蒙古に4万の邦人の命を救い、北支では35万人の邦人の生命を守り、金門島にあっては廈門(アモイ)20万と、台湾1千万の命を守っている。保護している。

そして自らはそうした功績を一切誇ることもなく、何も語らず、一人の老人としてその生涯を閉じている。
これが鍛え上げられた昭和の陸士の姿である。

中将の鉄の意思と行動、そして氏を信頼し行動をともにした幾多の軍人たちによって、どれだけ多くの命が救われたか。我々はもう一度考えてみる必要があると思う。

これをもって正義でない、ただの暴力装置だというなら、いったい人の世の真実とは何をもっていうのであろうか。

世界の国々は、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰している。
「自由の国」アメリカでも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えている。硫黄島で戦った兵士たちを銅像にして讃えている。

硫黄島はアメリカ領ではない。
直接に自国を守るのではなくとも、外国との戦いに勇んだ軍人は誇りなのである。

いや、国防だけではない。永世中立国スイスは、あろうことかフランスのルイ王朝を守って戦い死んだスイス傭兵たちの武勲と節操をライオン像に託して残している。

戦って生きても、その戦いで死んでも、その栄誉は語り継ぐのが世界の国々の常識である。

日本だけがそれを止めた。
その結果、子どもたちは自分の国を誇ることを知らず、その子どもたちが長じて、国軍の長であることを知らず世界に恥をさらす政治家に育った。

聞くところでは偕行社には未だ陸軍籍の会員が5千人おられる。
是非、世に知られない先輩やご同期の、武勲や士魂を書き残して頂きたいと思う。

元幹部自衛官会員が2千人に達したと聞く。
防大や幹部候補生学校で日本の軍事史には通暁しておられるのだそうである。

是非、先人たちの顕彰を書き伝えて頂きたいと思う。

戦争だけでなく、イラクでも福島原発周辺でも、謙虚な現役に代わって自衛官の敢闘を讃えて書いて残して欲しいと思う。
偕行社ならそれが出来る。

それをしなくてはならない数少ない団体だからである。
それを訴えたく、僭越ながら寡黙だった将帥を採り上げさせていただいた次第である。

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