「上に弱く下に強く」

画像の説明 韓国は法治国家に非ず

2015年12月17日、ソウル中央地裁の李東根(イ ドングン)裁判長は、韓国の朴槿惠大統領に対する名誉毀損罪で起訴された私に対して無罪を言い渡しました。

法廷で判決を待つ間、私は考えていました。韓国検察から出頭を命じられた前年夏からの約1年半、私はずっと炭鉱のカナリアのような存在だったのではないか、と。

韓国に言論の自由はあるのか、いや、そもそも韓国は法治国家なのか-。それを確かめるための経験だったと思えば、決して無駄な時間ではなかったのではないか、とも思いました。

一連の出来事を通じて強く感じたのは、韓国と価値観を共有することは極めて困難である、ということでした。日本の記者として、日本人に向けて、日本語で執筆した記事で刑事責任が問われる。

わが国に限らず自由主義国家では、まず考えられません。ところが、韓国ではまかり通ってしまう。それも大統領という国家の頂点に立つ人物の思惑を青瓦台の周辺者が忖度し、それによって左右されてしまうのです。

大統領自身がシナリオを書いているとか、すべて命じて裁判をやらせていたとは考えていませんが、大統領の意向や利害、快不快が忖度されながら動いていく。

まるで中世のような韓国の国家権力システムを、私は今回はっきりと目にしました。

今回の事件を韓国以外の人々はどう受け止めたのでしょうか。特に日本では、私への告発、起訴、そして出廷という一連の流れが逐次、新聞やテレビのニュースで取り上げられる度、「韓国とはどういう国なのか」「危険な国ではないのか」という認識が広がってしまったのではないでしょうか。

声明文などを通じて韓国政府を批判した各国のジャーナリストや有識者たちも同様です。「これはそもそも訴えられるような事案なのか」「この国は一体何を裁いているのか」という根本的な疑問や不信感すら生まれたのではないでしょうか。

もちろん、私の記事の内容が不十分であったという批判には謙虚に耳を傾けたいと思います。「噂を取りあげたのは安直だった」「引用でコラムを書くのはいかがなものか」といった声もあります。それでも、国家の最高権力者について書いた記事を理由に刑事訴追を行うことは民主主義国家では絶対にあってはならないことだと思います。

一羽の無知なカナリアは、ぐったりしているわけにはいきませんでしたが、韓国からの出国禁止を命じられ、裁判にかけられ、日々の自由な取材活動を奪われました。しかし、その様子はすべて内外のメディアを通じて世界中に発信されていました。

韓国という国がどういう国なのか、国際社会にさらされてしまったのです。

しかし、仮にメディアという存在がなかったら、あるいは、存在はしていても、その機能が国家権力によって抑えつけられていたとしたら、国家権力の顔色をうかがうばかりだったら、私は誰にも見つからず、暗闇の中でぐったりとしたまま、鳴き声を失っていったでしょう。そう考えると、本当にぞっとします。

検察からの出頭要請があったばかりの14年夏ごろは、あまりの圧迫感から吐き気を催したこともありました。しかし、そもそも、私のコラムは刑事訴追されるようなものだっただろうか。何度も自問してきました。結局は安易な謝罪、遺憾表明をしなくてよかったと心の底から思っています。

水面下で話し合いを持って、遺憾の意など示して折れてしまえば、将来も問題を蒸し返されて延々と弱みになりかねないことは、日韓の歴史が証明しています。中途半端な妥協をしなかったからこそ、無罪になったと私は確信しています。

なぜ私は韓国に勝てたか。その問いかけには、この不可解な隣国と今後も付き合っていく上での有効なヒントがあるような気もします。

私がコラムを書いた日から無罪判決まで約500日に及びました。この間、洞窟のカナリアが何を見、何を聞き、何を考えたのか、ここにすべてを書き記しておきます。

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