「水で見る歴史」

画像の説明 私の通勤路は、全羅北道淳昌から任実の玉井湖を経て完州の参礼に向かうというルートだ。

玉井湖は四季を通して美しい風景を見せてくれる。朝方の霧、春の桜、秋の野菊…。湖に満ちている水を眺めるだけでも気分がいい。ところが最近、玉井湖は湖底を見せている。この道を20年行き来しているが、こんなことは初めてだ。原因は日照りだった。

風水とは、風と水を扱う術だ。中でも水の方を重視して「風水の法、水を得るを上と為(な)す(風水の術は、水を得るのが最上)」と規定している。国を興した指導者の「得水法」を見れば、その国の未来に見当をつけることができる。韓中日3カ国の首都、漢陽(ソウル)・北京・江戸(東京)における初期の「得水法」が、その例になるだろう。

ナンバー2の徳川家康が、トップの豊臣秀吉の命により関東へと追いやられたときのこと(1590年)。江戸に居を構えた家康が真っ先にやったことが、飲料水の確保だった。井戸を掘るのではなく、上水道を作った。

その後、徳川幕府は上水道の拡張を続けた。その代表が玉川上水で、総延長43キロにもなる。400年たった今でも、東京の上水の一部として活用されている。江戸が19世紀、人口100万を超える世界有数の都市になれた理由の一つでもあった。

現在の北京が本格的な「都」として登場したのは、韓民族とも血縁関係がある金の時代のこと。金の始祖、函普が高麗出身だということは『金史』が明らかにしている。

北京に都を置いた金は、北京の北西にある玉泉山の水を引き入れ、飲料水として活用した。元を立ててここを都に定めた世祖フビライが最初にやったのは、飲料水問題の解決だった。フビライは天文・地理・水利に詳しい郭守敬を登用し、全権を与えた。

郭守敬は、既存の玉泉山の水だけでは新首都の水は足りないとみて、昌平県の神仙泉の水を引き入れる大規模な工事を完成させた。これにより、飲料水の取得だけでなく漕運も可能にした。郭守敬の業績は現在も忘れられておらず、北京の什刹海に銅像と記念館がある。

朝鮮王朝時代初期、漢陽に都を定めたときのことだ。一部の風水官吏が漢陽の水不足を理由に、都とするには不可という主張を繰り広げた。劉旱雨(ユ・ハンウ)は、風水の書物を引用して「流水長からず、人必ず絶つ(水の流れが長くないと、人は必ず絶える)」と極端な発言まで行ったが、太祖と太宗は注意を払わなかった。揚げ句、掘っておいた水源まで埋めてしまうほどだった。

1414年(太宗14年)、太宗が楊根(楊平)を通過したところ、新築の家が3軒あった。そのとき、3軒それぞれ井戸を掘っているのを見て、太宗は楊根を治めていた知郡事を罷免し、一つの井戸だけを使うようにさせた。指導者の水に対する気配りは、実にまずかった。朝鮮王朝の運命を暗示するエピソードだ。

日本の玉川、中国の玉泉山・神仙泉の水は、どれも最高に良い水、すなわち上水だった。建国者の水に対する哲学(得水法)は、その国の民の暮らしだけでなく、国の興亡盛衰にまで影響を及ぼした。水をきちんと手に入れた2都市(北京と東京)は帝国の首都という地位に上ったが、井戸までわざわざ埋めてしまった都市(漢陽)は、藩国の首都として辛くも命脈を保った。

上水の獲得は、日増しに自然破壊が深刻になっている現在、より切実な問題だ。下水に当たる4大河川(漢江・洛東江・錦江・栄山江)の活用は、その場を取り繕っているにすぎない。民族と国家の繁栄のため、より多くの上水源を確保・保全することが重要だ。

上水源は、川ではなく山だ。山が水を生んでいるからだ。

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