「風習」

画像の説明 戦前の京都大学・東洋史家の桑原隲藏(くわばらじつぞう)教授が書いた『支那人間に於ける食人肉の風習』という論文があります。
大正13(1924)年3月19日の『東洋學報』第14巻第1号に掲載された論文です。

戦後の京都大学は、左翼の巣窟となりましたが、戦前は世界でも最高水準の学問の府として、本当に優秀な教授陣が揃っていたのです。

なかでも桑原教授は、支那語、女真語、モンゴル語、フランス語、アラビア語など、数十カ国の言語に通じ、古今の文献資料をあたるだけでなく、現地調査まで実施して、真の東洋史を研究された明治3年生まれの教授です。

息子さんにはフランス文化研究者で京都大学教授の桑原武夫先生があり、また東洋史研究家としては、その後岡田英弘教授、宮脇淳子教授などの師匠筋に当たる方になります。

今日ご紹介する『支那人間に於ける食人肉の風習』は、ネットでその全文を読むことができますので、ここでは要約をご紹介します。

桑原隲藏の論考は大正末期のものですが、戦後においても、支那の文化大革命の際、当時中学生が中心であった紅衛兵たちが、中学校内に立てこもりました。

当時、この紅衛兵に参加し、後に米国に亡命したある支那人は、「中学校の校舎を占拠した紅衛兵たちは、教師を殺し、その遺体を煮て食べていた。あまりのことに自分は大人になったら絶対に外国に亡命すると誓い、そのようにした」と述べています。

支那における文化大革命は、昭和41(1966)年から昭和52(1977)年まで続いた中共の改革運動ですが、この当時の紅衛兵だった人たちが、いまの中共政府の高官になっています。
つまり、いまの中共の政府高官は、まさに人の肉を食べてきた人たちであるということになります。

また、本件記事は支那における習慣のことですが、ミニ中華を自称してきた朝鮮半島においても、同様の文化があったことを付言しておきます。

それと、戦時中、南方の島しょにおける損耗戦で、日本人が人肉を食べたという人がいます。ただし、この「日本人が」には注意が必要です。

これを言う人の多くが、戦前、もしくは戦中に教育を受けた人たちですが、彼らにとって、当時の朝鮮半島は日本の一部です。

ですから今私達が朝鮮人と認識している人たちは、彼らの認識からすると日本人です。日本の九州出身者、四国の出身者ということと同じで、日本の朝鮮半島出身者という認識です。

ガダルカナル等、飢餓に陥った南方戦線で、日本兵の多くが飢え死にしました。当時の様子を描いた小名木二郎さんの絵が、九段の「しょうけい館」に展示されています。男性で60キロあった体重が、35キロくらいに落ちてしまうのです。

米軍が日本兵を捕虜にした際、日本本省人はガリガリにやせ細った栄養失調状態にあったが、軍属として参加していた朝鮮半島出身者たちは、栄養状態が極めて良好であったと記しています。

何を食べて栄養満点だったのかは、ご想像におまかせします。

以下の文は、衝撃的な内容が含まれています。
女性の方、未成年の方はお読みにならないほうが良いと思います。
人類社会が道徳のない欲望だけの社会となっていったとき、人類に何が起きるのかという警鐘にもなっていようかと思います。

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『支那人の食人肉風習』
 桑原隲藏 著

大正8(1919)年4月27日、および28日の新聞に、ロシアのペトログラードが食糧不足に陥ったとき、ロシアの警察が、支那人が人肉を市場で販売していた事実を発見し、売っていた支那人を取押えて、これを銃殺したという、驚くべき外国電報が掲載されています。

実は、支那人の間で大昔から食人の習慣があったことは、様々な史書に具体的に書かれていて、いささかも疑問の余地はありません。

古いところでは殷の紂王が、自分の不行跡を諌めた翼侯を炙(シャ)とし、梅伯を醢(カイ)にしています。
炙は人肉を炙ること、醢は「人肉をしおから」にすることです。どちらも、人肉を食べるための調理法です。

春秋時代には、斉の桓公や、晋の文公が、人肉を食べていた記録があります。
斉の桓公は、お気に入りの家来である易牙が調理した、彼の子供の肉で舌鼓を打ち、晉の文公は、天下放浪中に腹を減らして、随臣であった介之推の股肉を食べて飢えをしのいだと書かれています。

漢と楚が争った時代には、楚の項羽が、漢の劉邦の父の太公を捕虜にし、これをまな板の上に置いて劉邦を威嚇しています。
このとき劉邦は、「我が父を烹(に)んと欲せば、幸いのために、我にその一杯の羹(あつもの)を分かて」と答えています。(十八史略)
この対応は、食人肉の風習の存在を認めなければ、理解できないことです。

支那人の人肉を食するのは、決して稀有だったり、偶発的な出来事ではありません。なぜなら、支那の歴代の正史の随所に、その証拠を見出すことができるからです。
なかでも著るしいと思われる二・三の事例を示してみます。

第一の例としては、隋末の劇賊であった朱粲の例があります。
彼は人の肉を、食のなかで最も美味なるものと称して、部下に命じて、いたるところで婦人や子供を略奪して軍の糧食にしています。

唐末の賊首の黄巣の軍も同様です。
黄巣の軍は長安が陥落した後、糧食に乏しくなって毎日、沿道の百姓数千人を捕えて、生きながら人々を大臼(おおうす)に入れ、杵で砕いて食べていました。
このとき、討手に向つた官軍は、賊軍を討伐するよりも、彼等の糧食が乏しいことを利用して、無辜の良民を捕えて、これを賊軍に売りつけて金儲をしたと書かれています。
ずいぶん呆れた話ですが、支那兵の所行としては、あり得ることかも知れません。

朱粲や黄巣の事蹟は、何れも『旧唐書』に書かれていることです。
また『五代史記』には、五代の初め頃、揚州地方では連年の騒乱のために、倉庫が空となった結果、人肉の需要が盛になり、民衆の間では、夫はその妻を、父はその子を肉屋に売り渡し、肉屋の主人は彼等の目前でこれを料理して、羊豚と同様に店頭で人肉を売っていたと書かれています。

また南宋の初期には、金の入寇によって、山東・京西・淮南の一帯にかけて穀物の価格が暴騰し、この方面の人々は百姓も兵卒も盗賊も、みんな人の肉を食べて空腹を満たしたと書かれています。
この当時、人間を「両脚羊」と称したとも書かれています。
人の肉を羊の肉と同一視したわけです。

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支那人の人の肉を食用にする動機を考えてみると、大約、次の五種に区別することができます。

(第一)飢饉
飢饉から出る欲求で、もちろんこれが一番普通です。
支那では凶年のとき、人相食といって、露骨な弱肉強食の有様が生まれます。
こうした場合、民間では子を取り替えて、甲は乙の子を、乙は甲の子を食べて一時の露命をつないだり、あるいは公然と人肉を市場で売買するという事例がすこぶる多いです。
支那では凶年に人肉を食料に充てるのは、ほとんど慣例となっていると言ってよいほどです。

(第二)籠城
凶年でなくても、戦争の際に城塞が包囲されて食料が尽きたとき、支那人は人の肉を食用にすることは、ほとんど慣例化しています。
唐の張巡・許遠らは、賊軍に囲まれて食料補給が絶えると、まず張巡が真っ先にその愛妾を殺し、許遠はその從僕を殺して士卒の食に充てさせています。

そしてさらに続けて、城中の婦人を、最後には戦闘に堪えない老弱の男子を食料にしたことは有名なる話ですが、こうした事例は、支那ではむしろ普通の出来事です。

蒙古の太宗が金の都を囲んだとき、城中の食が尽きてしまい、城内の人々がお互いに殺しあって一日の生を得たという光景が、当時のの籠城者の一人である劉祁の記録によつて、七百年後の今日でも、その状況を知ることができます。

明末の流賊の李自成のときには、長い籠城戦を受けて、糧食が尽きた開封の城民たちが、父が子を食い、夫は妻を食い、兄は弟を食ふという、戦慄の餓鬼道に陥った有様が、やはり当時の籠城者の一人であった李光殿の日誌に記録されています。

(第三)嗜好
嗜好のために人肉を食用にすることで、この例はあまり多くはありません。
五代時代の高豊や萇從簡は、相当位の高い身分ですが、人肉を好んでいます。彼らは、嗜好のために通行人を掠めたり、子供を捕えて食料にしました。

唐代の薛震や獨孤莊なども、人肉嗜好者として後世に知られています。その他にも若干の人肉嗜好者を列擧することができます。

(第四)憎悪
憎悪の極として、その人の肉を食べることです。
支那人はその怨敵に対するとき、よく「お前の肉を食らうぞ」という言葉を吐きますが、これは決して誇張した形容でなくて、率直な事実です。

支那人は、死後も肉体が生きていると信じているところがあって、ですから相手の肉を食べれば、これによって死者に多大な苦痛を与えることができると信じています。

梁の武帝を餓死させた反乱軍の将の侯景が、後に殺害されて市で晒されたとき、彼を恨んだ士民たちは、争ってその肉を食いつくしています。

また、唐の楊貴妃の兄の楊国忠は、陽貴妃と共に馬嵬で殺されていますが、このときも同様に彼の肉は軍民の餌食となっています。

元の世祖の臣である阿合馬(アハメツド)や、明の宦官の劉瑾なども、失脚して虐殺されたあと、彼等を憎む人々たちは、その肉を買い取って、これを生で食べたと伝えられています。

(第五)療養
病気治療のために人肉が食べられるというケースもあります。
唐の玄宗時代のことですが、陳藏器という人が、その著『本草拾遺』中に薬として人肉を加えました。

以來、支那歴代の薬学の本は、どれも人肉を薬として取扱っています。実は、人肉を薬に利用することは、唐以後に限るものですので、まったく陳藏器が、これを「作した」と言わざるを得ません。

かくて宋・元以降、父母や舅姑が病気となると、その子やその嫁などが、自分の肉を割いて薬としてこれを食べさせることが、ほとんど流行となっています。
さらに政府は、こうした行為を、むしろ親孝行として奨励までしています。

元の時代には、こうした事例には、人毎に絹五疋、羊二頭、田一頃を褒賞として与えたともいいます。

雷同性に富み、利欲心の深い支那人は、この元政府の奨励にあおられて、いっそう盛んに人肉を使用することになりました。

明の太祖はこの社会習慣を矯正するために、1394年に「今後股を割き孝を行う者に対しては一切表彰しない」と詔勅を発しています。

ところがこうした詔勅も、いわばみせかけだけのことであったとみえ、明や清王朝の時代を通じて、自分の股の肉を割いて父母に食べさせることは、最上級の親孝行として社会に歓迎され続け、政府もまた、これを表彰し続けました。
中華民国となってからの支那の新聞にも、時々、こうした事件が特別に紹介されています。

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支那人の食人習慣は、支那の歴代の史料に記載されているだけでなく、外国の観光者によっても記録されています。
唐末五代にかけて支那に渡航した、マホメット教徒の記録である『印度支那物語』にも、当時の支那人が人の肉を食用し、市場では公然と人肉が売買され、しかも官憲はこれについて何等の取締もしていないことが書かれています。

この『印度支那物語』をヨーロッパで紹介したフランスの東洋学者のレイノー(Reinaud)は、この人肉食の記事に疑惑をもって、「当時の支那は騒乱極めた時代だから、これはあるいは一時的現象であって、さすがにこれはマホメット教徒のたわごとであって事実ではないであろう」と書いています。

けれどもこれはレイノーが支那の実情に通じていなかったためのことで、『印度支那物語』に何らの虚飾はありません。

元の時代も、明の時代も、清朝の時代にも、支那を觀光したり、支那に滞在した外国人たちの記録の中に、支那人の食人習慣を伝えるものが少なくないからです。

古代にさかのぼってみると、食人の習慣は、隨分と世界に広く行われていたことがわかります。
けれど支那においては、一方で世界最古の文明国といいながら、幾千年もの間、ずっと続けてこの風習が続いています。
そういう国は、他にはあまり見当たりません。

南洋諸島の間には、比較的近代まで食人が盛んに行われていたケースがあったり、あるいは北方民族の間にも食人の習慣はありました。けれども支那の場合は、極めて悠遠な時代から、つい最近までもこの習慣が在ったしたことは、記録によっても疑を容るべき余地がありません。

日支両国は、唇歯相寄る間柄で、もちろん親善でなければなりません。
日支の親善を図るためには、先ず、日本人がよく支那人を理解しなければならないと思います。そして支那人を理解するためには、表裏二面から、彼らをよく観察する必要があります。
経伝詩文によって、支那人の長所や美点を会得することも、もちろん必要なことですが、同時にその反対の面も、心得ておくべきことです。

食人習慣の存在は、支那人にとっては、あまり名誉なこととはいえません。けれど、それは厳然たる事実であり、これを隠蔽することは到底できないことです。そして支那人の一面に、こうした習慣が存在することを承知しておくことも、支那人を理解するのに無用ではないと思います。

支那における食人の習慣の存在は、決して新しい問題ではありません。既に十数年前から食人習慣の問題は欧米の学者の注意をひいています。ただ彼らは文献上から、十分にこの習慣の存在を証明できなかったために、今日に至るまで、未だこの問題に關する徹底した論文は発表されていない様子です。

私も最近二三年間、この問題の調査に手をつけ、多少得るところがありました。

その調査結果の全体は、遠からず学界に発表しますが、今回は、ロシアにおける支那人の人肉売買という外電に促されて、古くからの支那における食人習慣の存在の一端を、ここに紹介することにしました。

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