「製鉄」

画像の説明 「タタラ」は、漢字では、「踏鞴(たたら)」とか「鑪(たたら)」と書きます。

むつかしい字ですが、製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置が「鞴(ふいご)」で、それをみんなで「踏」むから「踏鞴」です。「鑪」は、金物つくりのための炉が、そのまま文字になっています。

「タタラ」は、宮崎アニメの『もののけ姫』にシーンが出てきます。冒頭にあるのがそのシーンです。
アニメをご覧になられた方なら、イメージし易いかと思います。女性たちが巨大な釜の前で、力をあわせてフイゴを踏んでいます。

「タタラ」という言葉の語源はわかないとされています。
だから「タタール族によって日本にもたらされたのではないか」などと言い出す人がいて、この謎を解明しようと、ロシアのタタルスタンまで視察に行った人たちもいたそうです。ご苦労なことです。

そんな難しく考えなくても、女たちが熱い釜の前でフイゴを踏むのです。まるでサウナで足踏みし続けるようなものです。
汗がタラタラ出る。だからタタラで良いのではないでしょうか。

『もののけ姫』でもそうでしたが、タタラは、女たちが踏んでいます。女たちを肉体労働させて、では、男たちは、いったいどこで何をやっているのでしょうか。

タタラは、鉄鉱石を高温で熱して、鉄を溶かしだすものですから、フイゴで風を送るのは女たちの仕事として、鉄鉱石を釜に持ち上げたり、後始末をしたり、溶け出した鉄を固めて、その重たい鉄を運んだりするのは、きっと男たちの仕事・・・そうでしょう。

けれど、それらは、タタラ踏みの前後に行われるものです。
もし、その前後の仕事が男たちの仕事なら、途中のたたら踏みは(その間、時間が空いているのですから)、やはり男たちの仕事になりそうです。

けれど、その「たたら」に、男たちがいないのです。
だから、「なぜそこに男たちがいないか」が問題なのです。

答えは燃料にあります。
タタラ場で火力を得るためには、男たちは山で木を伐り、これを運ぶ必要があります。タタラ場では、鉄を採るために、三日三晩、釜を燃やし続けますから、そのためには大量な木材が必要です。

ところが木は、伐採して燃やせば、植林しても、次に刈り取りができるようになるまでに70年かかります。
植林しなければ、禿山が森に戻るまでに、最短で500年かかります。つまり森の伐採は、植林事業と切り離せないのです。

同時にタタラを行うためには、鉄鉱石が必要です。
これも質の良い鉄鉱石は産地が限られますから、そうなると質の良い鉄鉱石が出て、森林資源が豊富な場所が、タタラ場に適した場所ということになります。

また、出来上がった鉄を運ぶに際しては、鉄は重量物ですから、運搬には流れの安定した川があることが望ましい。
流れのゆるい川があれば、重たい鉄を背負って山を降りる必要がありません。船に浮かべて流すことができます。

つまり「たたら」には、山と森、良質な鉄鉱石の産出、穏やかな川という条件が必要です。それだけの条件が揃ったところに、タタラ場が築かれるわけです。

そしてそのタタラ場を維持するためには、森のメンテナンスも必要です。つまりタタラは、ただ鉄を作れば良いというだけではなく、林業と植林事業、河川の運搬事業が一体となれるような場所でなければ、優秀なタタラ場にはなれないのです。

まだあります。
そこで多くの人が働くのです。人は食わなければ生きていけません。多くの人が食べていくためには、昔は自給自足があたりまえでしたから、そのための田んぼや畑、つまり農地が必要です。そしてそのためには、山中で、そこが平地であること、つまり盆地が必要です。

盆地というのは、山中において、川が流れ、その川が氾濫することで自然に土砂が堆積し、平地になった場所です。土地は平らで、地味も肥えています。しかし河川が増水すると、容易に川が氾濫し、水害に遭いやすい土地でもあります。

古事記には、須佐之男命がヤマタノオロチを退治した場所は、「出雲の肥河の河原」であったと書かれています。原文は「出雲国之肥河上、名鳥髪地」です。「出雲の国の肥(ひ)の川上で、名前を鳥髪という地」と書かれています。この場所は島根県仁多郡奥出雲町のあたりで、そこはかつて鳥上村と呼ばれていて、有名なタタラ場のあったところです。

この地には、上流で数えきれないくらいたくさんの水源地から水を集めて一本の川になった斐伊川があります。つまり頭が八つで、胴体がひとつです。この川は、盆地に入ると、いくつもの支流に分かれています。つまり尻尾が八つです。そして、胴体には苔が生え、檜が生育しています。

盆地で川がいくつもの支流に分かれているということは、まさに大水が襲えば、盆地は水没してしまいます。須佐之男命は、まさにそういう土地で堤防を築いたわけです。それが、ヤマタノオロチの伝説です。

須佐之男命が、いつの時代にこの地に降り立ったのか。はっきりと言えることは、6500年前から5千年前までの時代ではあり得ないということです。なぜならその時代、日本列島のこのあたりの気候は熱帯性気候です。つまり奥出雲の山中は広葉樹の熱帯雨林を形成しているわけで、これでは林業は成立しません。

ということはすくなくとも、奥出雲が温帯化して以降のことであることは疑いのない事実です。
温帯化したのは、4500年ほど前になります。
それが温帯性樹林に変わるためには、最低でも500年近い歳月が必要です。ということは、およそ4000年前以降に、この地にタタラ場が作られたことになります。

最古の鉄器文明を築いたのは、トルコのヒッタイト族です。
ヒッタイトが鉄器を使い出したのが、3500年前です。
そのヒッタイトは、鉄を作るために森を燃やし尽くしてしまったことから、いまやかつてのヒッタイト文明のあったあたりは砂漠化しています。

ヒッタイトは自分たちの土地が砂漠化したことで、メソポタミヤに攻め込み、メソポタミヤ文明を完膚なきまでに滅ぼしました。それだけでなく、おそらくは緑豊かであったであろうメソポタミヤの地から、鉄器を作るために盛んに木を伐り倒し、結果、メソポタミヤの地をも砂漠化させてしまっています。

実は、ヒッタイトがそうであったという歴史的事実は、同時に文明論的に、「ヒッタイトが鉄器を発明したとは考えにくい」ということも示しています。なぜなら鉄の製造を、初めて行いだした地域では、おそらくは最初は偶発的な火災や、焼き畑などがきっかけだったことでしょう。なんだかわからないけれど、赤い石から黒い塊が溶け出した。熱いうちは柔らかかったけれど、冷えたらカチカチに固まった。

そんな経験の繰り返しから、では、冷える前に型に入れたら、好きな形ができるのではないか、という人が出てきます。
やってみたら、うまくいく。道具として使える。こうして鉄鉱石から溶かしだした鉄を鋳型に入れて好きな形の道具をつくるという技術が確立されます。

ところが、そんなことを繰り返しているうちに、鉄の中にはすぐに錆びる鉄と、錆びにくい鉄があることがわかるようになります。後者を「玉鋼(たまはがね)」と呼びます。どうやったら「玉鋼」が採れるのか。そこからまた、様々な工夫が始まります。そしてこの頃になると、当然に、鉄の需要も増え、生産量も増えていきます。

ところが鉄鉱石は無尽蔵にあっても、それを燃やすための木は、いったん伐ったら、成長するまでに70年かかるのです。
しかも、禿山にしてしまうと、たたらの人々が食べるための盆地が大水の土石流に、全部やられてしまうのです。
当然そこには資源保護のための生産調整と、資源確保のための植林事業が、同時に起きてきます。

つまり、苦労して築いてきたものであるからこそ、生産調整したり、植林までして産業保護を図ろうとするのです。これは、苦労のない者、結果だけ、できあがりの鉄器だけを欲しがる人には、到底わからないことです。

ヒッタイトは、結果だけを欲しました。ということは、ヒッタイトは、鉄の製法を開発した種族ではなくて、伝えられた種族であったといえると思います。逆に言えば、世界中に製鉄の技法を伝えた民族がいたのです。

そしてその種族は、タタラのために木を燃やしながら、それが小規模なうちから工夫を重ねることで、森林資源を維持している種族であるはずです。なぜなら、維持保持ができなければ、他の種族に教えるという余裕がなくなるからです。

そうすると、もしかすると、約4千年前まえのある時期、日本で製鉄が生まれ、それが何らかの事情でヒッタイトに伝わり、ヒッタイトの鉄器文明を生んだとも考えられてくるのです。

人間は、動物、つまり動く生き物です。昔、お笑いコンビが、貧乏旅行で世界を歩いた番組がありましたが、人は移動する生き物なのです。あり得ないことと決めつけることはできないことです。

そしてもしそうであるとするならば、このときの須佐之男命の物語は、いまから約4000年前、紀元前21世紀くらいの出来事ということになります。

逆に、それくらい長くて古い昔から製鉄の技法が確立されていないと、日本刀は生まれないはずなのです。日本刀の技術は、世界に一つだけの技術です。鉄で剣が作られ、それが刀に進化する。私たちは千年前の日本刀を、いまでも見ることができます。いまと同じ形です。つまり進化していません。

軍用に日本刀を超える刀をつくろうと、世界中で技術の粋を集めた研究が進められ、ようやく最近になって、様々な工夫を凝らし、また日本刀と同程度の硬度を持つ軍用ナイフが開発されていますが、それでもまだ切れ味という点では、押し切るものであって、日本刀のように「刀身が吸い込むような切れ味」というのは実現できないのだそうです。

千年たっても変えられないのです。
では、様々な工夫によって、そんな日本刀が開発されるまでには、いったいどれだけの歳月を要したのでしょうか。すくなくとも、5〜600年ということはないと思います。

縄文文明というと、土器の文明というイメージで語られることが多いのですが、土器は、土を焼いて作ります。つまり、縄文文明は、火の文明でもあったということです。

火があり、鉄鉱石があるのであれば、鉄の文明が縄文期に始まっていたとしても、実は何の不思議もありません。
現に、縄文時代の遺跡から、数多くの鉄器が出土しているのです。

日本は、ほんとうに底の深い国であると思います。

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