「大昔のお話」

画像の説明 縄文時代について、当時の日本考古学会の大御所たちの公式見解は、いまも公式にはそうですが「縄文人は鹿の毛皮を着ていた」というものでした。

これに対しこの展示会は、縄文人が「布の衣装を着ていた」としたことです。しかもその衣装は染料で染められて、折柄の装飾まで施されていたことを、日本考古学会の公式見解に対する野心的提言として、堂々と世間に公表したことです。

このことは、日本考古学会の公式見解的には「あり得ない展示」でした。しかし実際に8千年くらい前の、たとえば鳥浜貝塚などから現に布が出土しているわけです。また、そもそも縄文という名が示す通り、土器にも繊維の跡が付けられているわけです。ということは、布があったということです。

布があるのに、毛皮しか着ないというのは、ありえないことです。

なぜあり得ないかといえば、日本列島の気温は、いまから6千年ほど前は、平均気温がいまより2度高かったのです。年間平均気温が1度違うと青森が鹿児島の気候になります。2度違うとどうなるかというと、台湾の高雄市の気候が、大阪くらいになります。

つまり、日本列島の西日本は熱帯になります。日本はただでさえ高温多湿ですが、これがさらに気温があがって熱帯性気候になっていたのです。

今年の夏も猛暑でしたが、それよりもずっと暑い中で、男たちは山で狩りをしたりする。鹿の皮の褌にこだわる日本考古学会の男性の先生方は、そんな中で毛皮のパンツを履いていてもインキンタムシになる心配のない特異体質の先生方と言わざるを得ません。

そういう意味で国立歴史博物館のこの展示が、たいへんに野心的な取り組みであったのです。ところがその後の10年で、明らかに間違いとわかったこともあります。

写真を見たらすぐにわかることですが、この写真は「縄文人」と「弥生人」を、まるで遺伝的特性が異なった、つまりまったくの別人種のように捉えています。

縄文人は、背が低くて、眼が二重のどんぐり眼で、瓜実顔のロシア顔、弥生人は、背が高くて、眼が一重のキツネ眼で、エラの張った朝鮮顔、のモデルを起用しているわけです。

モデルは、縄文時代、弥生時代それぞれから出土した人骨をもとに、その復顔した顔立ちや骨格に近いモデルを起用したことになっています。これは、縄文人、弥生人の「人種入替り説」に基づくものです。

どういうことかというと、弥生時代に入って朝鮮半島からの渡来人が縄文人を駆逐して(殺戮して)、日本列島に棲む民族が入れ替わったとする説を元にしているわけです。

ところが、そうした説を唱えた学説に用いられた比較用の人骨が、実は、とんでもない学者の偽造写真や合成写真であったことや、背の高い低いも、眼の一重二重も、瓜実顔もエラの張った顔も、実は縄文時代から「どちらも存在していた」ことがいまや証拠に基づき明確になっています。

つまり、縄文人弥生人が入れ替わったのではなくて、昭和人が平成人になったようなもので、どちらも同じ日本人であったということにほかならないということが、現在では完全に立証されています。

ということは、縄文人、弥生人という言い方は、昭和人と平成人を別な人種と考えるような、実はとんでもない大間違い説である、といことが、いまでは完全に明確になっているのです。

もっとも、この写真には、ただしい部分もあります。
それは写真にある通り、縄文時代の女性が、とても賑やかな装身具をまとっていること、一方で弥生時代の女性は身に付けた装身具がたいへんに少なくなっていることです。ただし解釈は全然間違っています。

みなさまもご記憶があると思うのですが、縄文時代は狩猟採集生活で、鹿の毛皮を着た、つまり原始人のような生活であり、それが弥生時代になって稲作が渡来して弥生時代になった、とする説があります。ほんの少し前までは、これが戦後の定説でした。

戦前戦中は違いました。
日本書紀に基いて国史を学んでいましたから、日本では縄文草創期、あるいはもっとずっと古い時代から稲作が行われていたというのが、公式見解でした。つまり、稲作渡来説というのも、戦後に歪められた歴史認識だったのです。

しかし、不安定な狩猟採集生活から、人々の生活が稲作によって豊かになったというのなら、どうして上の写真の弥生時の女性は、服装が簡素で、装身具もあまり身に付けていないのでしょうか。

着衣に染色もなく、柄もありません。弥生期には「生活が豊かになったのだ」といいながら、女性たちの服装が地味になるというのは、どういうことなのでしょうか。実はこういう点についても、いまでは稲作渡来説は、完全に否定されようとしています。

ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。
縄文時代草創期がいまから二万年~九千年くらいの前。
縄文時代早期が九千年から六千年くらい前。
縄文前期から晩期が、六千年から二千年くらい前の時代です。
縄文時代は、通して見れば一万八千年くらいの長い期間です。

ヨーロッパなどでは、だいたい一万年前くらまでを旧石器時代、一万年から三千年くらいまえの時代が新石器時代です。
ですから日本の縄文時代というは、欧州や支那における「旧石器時代後期から新石器時代」にかけて栄えた時代です。

旧石器時代と新石器時代の違いは、一口に言えば、磨製石器が使われるようになった時代ということができます。
簡単にいうと、旧石器時代は、自然石をそのまま道具として利用した時代、新石器時代は、自然石を加工した、磨製石器、打製石器使われるようになった時代です。

ところが日本の場合、縄文時代の前が石器時代となりますが、これもまた遺跡の出土品から、旧石器が11万年前、磨製石器は、3万年前の世界最古のものが発掘されています。つまり、日本は新石器時代を迎えたのが、ヨーロッパや支那よりも、なんと2万年も古いのです。

冒頭の縄文時代の女性像は、福井県若狭町の鳥浜貝塚から出土した8千年前の遺品をもとに復元された人物像とされています。

鳥浜貝塚遺跡というのは、縄文のタイムカプセルとも呼ばれる遺跡で、いまから1万2千年から5千年前の遺跡です。
遺跡は丘陵の先端部にあり海抜ゼロメートル以下の低湿地で、縄文人たちが湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が、まるごと真空パックされた状態で遺品が出土したのです。
第10次までの発掘調査で出土した遺物は総数20数万点にも及びます。

ちなみに第四次発掘調査(昭和47年)では、「鳥浜貝塚」のシンボルとも言える縄文時代の逸品「赤色漆塗り櫛」が発見されています。
九本歯の短い飾り櫛で、実に美しい漆塗りが施されています。

赤色漆塗クシ(鳥浜貝塚遺跡)
縄文時代前期、日本最古の櫛とされている
赤色漆塗クシ

「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5千年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった。」という報告書の記述があります。

発掘現場に居た者ならではのリアルな驚きと興奮が伝わってくるとともに、それだけ良好な保存状態であったことを示しています。

さらに、赤色漆を全面に塗った上から、黒色漆で模様を描いた木製の深鉢や皿、焼いた上に真っ赤なベンガラを塗って仕上げた丹彩土器など、当時の高い技術による品が数多く見つかりました。

これがまた重要な事です。日本では漆は、いまから1万2500年前には、すでに漆の木の栽培が行われていたことが確認されています。

漆(うるし)には、赤い漆と、黒い漆がありますが、日本の縄文時代の漆(うるし)は、赤漆だけで、黒漆は支那から古墳時代頃になってはじめて渡来したのだというのが、これまた日本考古学会の公式見解です。

ところが、鳥浜貝塚から、黒漆が出土してしまったのです。
いまのところ、考古学界は、これについては、「なぜだかわからない」としているのだそうです。

鳥浜貝塚からは、他にも編み物などがたくさん見つかっています。このことから、当時の衣装や風俗、生活の様子がかなり詳しく明らかになりました。これを復元したのが、冒頭の国立科学博物館の黒い縄文女性の写真です。

ここまで証拠が明らかになっていながら、いまだに「縄文人は鹿の毛皮を着ていたことになっているのだ」と強弁する日本考古学会の大御所さんも、たいしたものですが、私達も少し前までは、学校の教科書で、縄文時代というと、なにやら、髭(ひげ)もじゃらで髪(かみ)はボサボサ、鹿の毛皮をかぶって下半身丸出しの原始人のような姿を、「縄文人の生活」などと称する教科書の絵で紹介されていたものです。

実は、このような「日本がオクレていた説」の考え方は、「文明文化は支那から朝鮮半島を経由して日本に渡ってきた」のだから、「日本文明は大化の改新(645年)以降に始まった」のであり、「それ以前には日本には文明はなかった」・・・すなわり支那が親、朝鮮が兄、日本は弟、という誤った歴史認識から生まれた政治的創作です。

冒頭の写真でも明らかですが、縄文時代の被服で特徴的なのが、女性の装飾品が多いことです。

耳飾り、首輪、腕輪など、種類も多彩で、しかもそれらの装身具は、よく見ると彫刻付きです。

耳飾りは形も大きく、繊細な彫刻が施され、ネックは複雑に加工され、ヒスイや大珠で彩られています。腕飾りに至っては、貝殻の裏側のパールカラーのキラキラ輝く部分を表側にした美しいものに仕上がっている。展示品は古くてくたびれているけれど、これが新品だったら、そのまま現代社会でも立派に通用する装飾品です。

また衣服も、布製で極彩色の美しい模様が描かれています。
このデザインを復元したスタッフは、縄文人のこの服装が「そのまま原宿あたりの町を歩いても、なんら違和感がない」と述べています。

おもしろいことに、男性の装身具が腰飾りだけに限られいるのに対し、女性のそれは、実にカラフルに彩られ、種類も多く、加工も美しいです。

これは、特定のシャーマンの女性だけが、ガチャガチャに着飾っていたわけではありません。出土品の点数の多さからみて、10~200戸くらいの集落で、特定の、たとえばシャーマンだけががカラフルな装飾品をまとっていたとは言い難いのです。つまり、すべての女性が、美しく着飾っていた、ということです。

女性が美しく着飾れるというのは、いいかえれば女性がとても大切にされてる社会だったということを意味します。しかもおもしろいことに、縄文時代の発掘品に、まったく「武器」が出土しないのです。

全国に縄文時代の遺跡は数限りなくありますが、植物採取や狩猟のための道具としての斧や弓矢はたくさん出土するのですが、人を殺すための武器が出土しないのです。

なぜそのように言えるかというと、人を殺すための武器にしては、弓も小さく、矢尻も小さすぎるのです。また石斧もありますが、石の部分が小さくて、柄が長い。つまり、小動物を絞めたりするときの道具としての武器は出土するのですが、対人用の大型の武器がまったく出土しないのです。もちろん刀剣や槍の類もありません。

女性たちが繊細な彫刻を施した装身具や、美しく彩色された衣類で美しく着飾り、男性たちは武器を持たない。おそらく繊細な加工を施す彫刻品や土器などの生産は、男たちがやっていたことでしょう。

男は狩猟や採取を行うかたわら、繊細な彫刻品を作る(彫刻品の多くはいまでも男の仕事です)。女たちは男たちが作った装飾品で、きれいに着飾り、食事や子育てを行う。そのような集落の生活が想像されます。

日本の縄文期の遺跡は、全国に数万か所ありますが、諸外国に見られるような、頭に矢じりが突き刺さっているようなもの、肋骨に槍の穂先が挟まっているような遺体は、いまだにひとつも発見されていません。

つまり、縄文期の日本は、人が戦いや争いをすることなく、男女がともに働き、ともに暮らした戦いのない、平和な時代だったということができます。
そういう時代だからこそ、女性たちがたくさんの装身具で身を飾ることができたのです。

女性たちが美しく着飾れるというのは、平和な世の中のある意味、象徴的なできごとといえるかもしれません。
なぜなら戦乱の世の中では、のんびりと凝った装身具を身にまとったり作ったりするだけの余裕がない。
ガチャガチャした女性の装身具は、敵から逃げるのには不都合です。

そういう平和な時代が縄文時代であり、その縄文時代が約1万7千年続いたということは、これはすごいことです。

日本人は平和を愛する民族です。戦いよりも和を好みます。
そうした日本人の形質は、縄文時代に熟成されたものといえると思います。

弥生時代にはいると、服装も土器もシンプルなものになったのは、皆様よくご存知のことです。
槍(やり)や刀(かたな)などの武器や、鎧を着た人形なども出土しています。つまり、弥生時代は、日本人が武器を持つようになった時代でもあります。弥生時代の始まりについては、諸説ありますが、だいたいいまから3千年ほど前、紀元前千年頃から弥生期にはいったとされています。

弥生時代の特徴として多くの人が学校で「大陸から朝鮮半島を経由して稲作が伝来した」と教わっているようですが、これも、いまではかなり怪しい説とされてきつつあります。

というのは、その時代の朝鮮半島南半分は、倭国の一部であったことが確認され、その先にあるいまの北朝鮮のあたりは、文化らしい文化を持たなかった濊族の生息するエリア、そのまたさらに向こうは秦の始皇帝に統一される前の、戦乱に明け暮れた支那であったからです。

稲作は、支那の福建省のあたり、つまり揚子江の流域で発達し、それが山東半島、遼東半島あたりに伝わり、さらに朝鮮半島に伝わり、そこから日本に渡来したというのが、渡来説です。

なるほど、揚子江流域にあった長江文明で稲作が行われていたことは確認されています。ところが、その伝来の途中のルートにあたる、山東半島の一帯は稲作に適さず、つまり栽培ができず、また朝鮮半島北部も、稲作に適した気象や土地の条件がありません。

つまり、稲作渡来のルートを示す痕跡がないのです。
むしろ稲のDNAの解析からすれば、日本から揚子江流域や朝鮮半島南部に稲作が伝えられたと考えたほうが、はるかに合理的な説明が可能なのです。

支那と朝鮮半島は陸続きですから、いわゆる敗残兵のような連中がときどき倭人たちの棲むエリアにやってきては悪さをするということは、あったことでしょう。
それとおもしろいのは、3千年ほど前ですと、倭人たちが朝鮮半島南部で鉄を作っていたことが確認されていることです。

倭人の鉄の製法は、古来「たたら製鉄」といって、鉄鉱石や砂を下から火であぶって、鉄を溶かしだすというものでした。
このたたら製法は、日本独自の製鉄技術で、比較的温度の低い炉であっても、ごく少量ですが「玉鋼(たまはがね)」と呼ばれる、純度の高い鉄を手に入れることができます。

鉄は錆びるというイメージがあると思うのですが、おもしろいことに鉄は純度が高くなるとサビにくく、しかも強くて丈夫になるのだそうです。つまり、たたらは、古代においてものすごく貴重な製鉄技法だったわけです。

鉄鉱石というのは、赤い岩で、なぜ赤いかというと岩に含まれる鉄分が錆びるからです。
これを焼くと鉄が溶け出します。

最初に鉄が採られたのは、おそらくは火災などのほんの偶然の出来事からだったことでしょう。

溶け出した鉄が、地面の上でカチカチに固まっているのを見て、「では、これを型に入れて溶かしだしたら、好きなカタチのものができるのではないか」と考えた人がいたわけです。
そして最初は小規模に鉄を溶かし出していたものが、だんだんに大型化し、タタラ場になっています。

日本における「タタラ製鉄」の歴史は古くて、いったいいつの時代からタタラ製鉄が行われていたのかは、まだわかっていません。

6世紀頃ではないかという説もありますが、これは先程申しました「日本には文明がなかった」という前提からすると、大陸から渡来したとしかいえなくなるからのことであって、6世紀であることを証明するものは、むしろ何もありません。

それどころか、紀元前の時点で鉄を使用していたことが、1955年には確認されています。これが熊本県斎藤山遺跡から出土した鉄器で、紀元前5世紀のものとされています。日本から、このような古いものが出土すると、これを躍起になって否定する人たちがいるのですが、出てきたことは事実なわけです。

また唐古遺跡や板付遺跡の溝底からは、明らかに刃物で付けられたと思われる痕跡が見つかっているわけで、そうなると、紀元前10世紀、つまりいまから3千年前には鉄器は使われていたということが確認できます。

また、淡路島からは、1世紀頃の大規模な鍛冶工房跡が見つかっています。つまり、鉄が6世紀になってから、大陸から朝鮮半島を経由して日本に伝わったとする説は、根底から覆されているわけです。

鉄は、鉄鉱石の産地で製鉄することが必須です。鉄鉱石は日本中で出土しますが、なかでも奥出雲は、もともと鉄鉱石の産地ですし、同様に九州や朝鮮半島にも鉄鉱石の産地がありました。

そして紀元前千年頃の朝鮮半島南部が倭人たちの棲むエリアであったことを考え合わせれば、そこでさかんに鉄を掘っていたとしても何ら不思議はないのです。

この鉄を考えるときに大切なファクターがあります。
それは、鉄を炊くに際して、莫大な火力が必要だということです。火力は、木を燃やすことによって得られますが、そのためには森で木を伐る必要があります。つまり、大量の鉄器を産しようとするならば、大量の森林の伐採が必要になるのです。

これをやり過ぎると、森がなくなります。
なにせ木は、燃やすのは一瞬ですが、成長するには最短70年かかるのです。

鉄器文化で世界を制したのは、いまから3500年前に、トルコから中東一体を支配したヒッタイトであると言われています。

ヒッタイトは、メソポタミアを滅ぼしていますが、そのヒッタイトが征服したエリアは、いまことごとく砂漠化しています。
彼らは、鉄を使うことで最強の部族となったのですが、その強さのために森を燃やし尽くし、結果、食えなくなって滅んでしまったのです。

すこし考えたらわかることですが、最初に製鉄を始めた人たちというのは、それが小規模であったために、森の木を伐採することで、森の貯水能力に変化が現れたり、森の木々が失なわれることによって起きる様々なフザン材料についての経験を積むわけです。

ですから、当然のことですが、製鉄と植林事業がセットで成長する(産業化する)ことになります。

このことは、ごく常識としてご理解いただけることだと思います。製鉄にしても、最初のうちは、庭先でできる程度の小規模なものであったことでしょう。けれど、だんだんに需要が高まってくれば、それは大型化します。はじめは小さな倉庫でスタートしたソニーやマツシタが、世界に冠たる大企業に成長したようなものです。

ところがこれが製鉄であって古い時代のことであるとするなら、そうしたタタラ場のような大型施設は、まず鉄鉱石があること、森の木々の伐採と運搬が容易なことという二つの条件が備わっていなければなりません。

場所は山奥でしょうが、できあがった鉄の運搬は、鉄が重たいものであるだけに、ゆるやかな河川があるところでないと、鉄の運搬ができません。

そしてそうした場所では、森林資源の維持確保、つまり植林事業が、計画的に必要として行われたであろうことも容易に想像することができます。

ところが後発で、鉄の利点(武器として強い)だけに、権力を持った王などが着目すれば、森林が失われることなどお構いなしに、強さのため、権力のため、欲得のために、軍事力にものをいわせて森林を伐採します。結果は砂漠化して、民族そのものが千年くらいのタームで滅んでしまうわけです。

このように考えると、製鉄がどこで生まれたかはともかくとして、日本でいまから約3千年前、つまり弥生時代の初期に製鉄が行われていたとするならば、その技法そのものは、もっと古い時代から小規模に行われていたと考えるべきで、そうなると、もしかすると4千年くらい前から小規模な製鉄が行われていた可能性を否定できません。

朝鮮半島における倭人たちの製鉄が、紀元前2〜3世紀の出来事であったことを考えると、むしろ日本国内ではじまった製鉄が、鉄鉱石の産地である朝鮮半島南部でも、あとから行われるようになったと考えるほうが、むしろ適切となるわけです。

ところがその朝鮮半島は、大陸と地続きであり、しかも大陸は戦乱が続いています。そういう支那から、ときどき敗残兵のような悪い連中が武器を持ってやってくる。当然、倭人たちも身を護るために武器を手にするようになります。

また、たたら製鉄の発達は、より強い火力を求めて進化しますから、このことが土器の製造にも影響を与えて、より高い温度での土器の制作が可能となり、肉の薄い弥生式土器の誕生に至ったと考えると、きわめて合理的な説明がつきます。

つまり、これが弥生時代のはじまりです。

人は武器を持つと、中には武器にものを言わせて他人を蹂躙しようとする馬鹿者が必ず現れるものです。
そうなると、女性たちも身の安全が確保できにくくなります。
結果、装身具をあまり身に付けない、男女とも似たような簡素な服を着るようになる。弥生時代と縄文時代の女性たちの服装の変化も、こうして説明することが可能です。

要するに、縄文から弥生への時代の変化は、支那との交流によって人々生活の安全確保に問題が生じ、結果として人々が対人用の武器を携帯するようになったこと、そして製鉄技術の進歩にともなって炉の火力の温度が替わり、土器がより薄い陶器へと進化するようになったことがあげられると思います。

稲作の話に戻しますが、弥生時代稲作渡来説には、大事な点の見落としが指摘されています。それは、日本が6千年ほど前には、熱帯であったという点です。

稲は、もともと熱帯性の植物です。
熱帯には雨季と乾季がありますが、その雨季と乾季を人工的に演出したのが、田植えのシーズンに田に水を入れる灌漑農法です。

日本がもともと熱帯であったなら、稲は低地に自生します。
その稲は、たわわな穂を稔らせますから、あたりまえのことながら、人々はそれを食用にしたことでしょう。
ところが日本列島が寒冷化し、熱帯であった状態から、温帯へと気象が変化するわけです。

去年まで自生し、稔っていた稲も、雨季がなくなれば、自生しなくなります。けれど、人間、食べなければお腹が空くのです。そこで、どうやったら稲を生育することができるか。
雨が降らず、低地に水がたまらないなら、では、川から水を引いてしまえ、ということから灌漑農法が始まったと、これまた常識的に考えることができます。

誰だって、子を飢えさせたくないのです。
育ち盛りの子から、「オヤジぃ、ハラ減ったよぉ。米の飯を腹いっぱい食べたいなぁ」と言われたら、「よっしゃああ、まかせとき。お父さんが米ができるようにしてやるから!」と工夫を凝らすのが人間というものです。つまり、稲は、支那朝鮮から渡来したのではなくて、日本に自生していたのです。

自生していて、それが気象条件の変化で自生しなくなったから、水田をこしらえ、稲を「ここはまだ熱帯だよ」と騙して、栽培を促進したのです。これが灌漑農法の始まりです。

そうであるとするならば、灌漑農法は、かつて熱帯であり、いまは温帯化したエリアでしか誕生することはあり得ません。
熱帯の植物を、温帯に持ってきたと考える方に、そもそも無理があるのです。

現実問題として、バナナは熱帯性植物で、温帯では生育しません。温室をつくれば、バナナを生育することは可能ですが、それが広がることはありません。手間暇がかかりすぎるからです。

むしろ、かつて熱帯であった時代に、すでに稲が主要穀物となっていたからこそ、温帯化しても、なんとかその食生活を維持しようとして努力した結果が、米文化に繋がっていると考えるべきなのです。

なぜなら、灌漑農法などの苦労をして米を作らなくても、小麦なら温帯で生育するのです。栽培も容易です。

もし、日本列島が、ずっと温帯のままであったのなら、むしろ主要穀類は小麦やトウモロコシ、粟、ヒエなどになったと考えるべきだし、実際世界の多くの国々では、主食は小麦かトウモロコシです。温帯の日本人が米を主食にしているということの方が、むしろ不思議な出来事なのです。

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