「ベトナム」

画像の説明 近年、ベトナム観光がブームなのだそうです。

ベトナムの人たちの食は日本食に近いし、ベトナムの田舎の風景は、少し前までの日本の田舎の風景とそっくりなこともあって、近年ではベトナム観光は、たいへんな人気なのだそうです。

ベトナムといえば、ベトナム戦争(1960-1975)で米国に勝利したことが印象的ですが、実は米国がやってきて、二つのベトナム(北と南)に分断される前は日本の領土であり、その日本はフランス領であったベトナムの独立のために血を流して戦った歴史があります。

そこで今日は、ベトナムを独立させた「明号作戦」をご紹介するとともに、ベトナムの歴史をすこし振り返ってみたいと思います。

ベトナムがフランスによって侵略されたのは、日本で言ったらペリーがやってくる(1853)のちょっと前の1847年4月のことです。

ベトナムのダナンに、いきなりフランス艦隊が現れて、町への砲撃を開始したのです。
これによって、ベトナムは徐々にフランスに侵略され、フランスの植民地になっていくのですが、そのベトナムの北部は、この時代、清王朝の領土でもありました。

清王朝は、ベトナムは自国の支配地と(およそ一方的に)考えていましたから、明治15(1882)年に雲南遠征軍を組織してベトナムに入って、フランス軍を攻撃しています。これがきっかけとなって始まったのが「清仏戦争」です。明治17(1884)年8月のことです。(〜1885/4)

この戦争の結果がどうなったかというと、「結果が出なかった」のです。勝敗はついていません。

戦いは膠着化し、泥沼化し、結果としてフランスは清国の領土から立ち退かず、清王朝も矛を収めるカタチになっています。
そしてこの戦争のあと、フランスはベトナムの支配をほぼ完全に確立しています。

おもしろいのは、この戦いが膠着化していた頃のフランスが、日本に参戦を呼びかけてきたことです。そのときの条件が面白いです。フランスは日本に、「不平等条約を是正するから、一緒に戦わないか」と言ってきたのです。

当時(明治初期)の日本は、まさに幕末に締結された不平等条約に手を焼いていました。不平等条約是正のために、わざわざ大日本帝国憲法まで作成ようとしていたくらいです(憲法発布は1889年)。

その意味では、フランスの申し出は、たいへんにありがたいものでした。ところが日本は、この、よだれが出そうなフランスの申し出を拒否しました。

理由は、
1 日本は戦争が嫌いなこと。
2 予算がないこと、
の2点です。にべもないです。

日本は、この15年前に戊辰戦争を、5年前には西南戦争を、10年後には日清戦争を戦っているのです。
にも関わらず「日本は戦争が嫌い」というのは奇異に感じるかもしれません。

でも、そうなのです。
日本は、義を通すため、道理を立てるため、自衛のためには戦いますが、それも、あくまで民衆のためにやむを得ないときに限られます。

要するに、利害のために他国の戦争に易々と乗っかるような政治は、太古の昔から日本には存在しないのです。

もちろん、予算の問題もありました。
政府というのは、たいへんなお金がかかるものですけれど、その明治新政府にはお金がない。明治政府は江戸幕府のお台所であった大蔵方を、そのまま新政府に組み込んでいるのです。
本来であれば、潤沢な資金があってしかるべきです。
そして当時の通貨は、どこまでも金本位制、つまりお札は金(Gold)と交換できる裏付けがあって、はじめて通用するものでした。

その日本では、江戸時代の通貨は大判小判です。まさに金(Gold)そのものを通過にしていました。いまの時代でいったら、みなさんのお財布の中の1万円札が、全部黄金の小判だったわけです。日本全国です。
いったい日本はどれだけの黄金を持っていたのか。

人類誕生以来、全世界で掘られた黄金は、オリンピックプールに換算して3杯分です。

そしてそのうちの1杯分が、実は日本産です。
そして日本は、その人類誕生以来の全世界の黄金の3分の1のゴールドを、なんと日本国内だけで流通させていたのです。
まさに日本は「黄金の国ジパング」だったのです。

とまあ、お話がベトナムからずいぶん脱線してしまいましたが、日本は、このときフランスの申し出を断ったが故に、その後の不平等条約の改正にものすごく苦労をすることになったし、またもし日本がこのときフランスに味方していれば、清國は「清仏戦争」に破れ、列強は日清戦争を待たずに一気に清國に流れ込み、その後の歴史は大きく異なったものになったであろうと思われます。

そしてそのことは、結果としてソ連を成立させず(実はソ連がロシア帝国と対決できたのは、日露戦争のために広報撹乱戦略としてロシア共産党に日本からの資金援助がなされたことに由来します)、共産党政権の誕生を否定し、支那事変も大東亜戦争も起こさず、中共政府の誕生もない、まったく別な世界史を築いたかもしれません。

そしてひとつだけはっきりといえることは、日本にとっては、このときフランスからの参戦要求を受け入れることは、以後の東洋史よりは「はるかにマシ」な東洋を築いていたであろうし、日本にとっても大きなメリットであったであろうということです。

それでも日本は参戦しませんでした。
なぜならその参戦は、日本の武士道に反するものだったからです。日本人にとって、あるいは武士にとっての戦いとは、どこまでも「大切なもののため」であって、利害ではなかったからです。それが日本人です。

さて、ベトナムに話を戻します。
ベトナムは、清朝の影響を受けて分裂し、いわば群雄割拠状態にあったところを、見事にフランスによって整復され、植民地となりました。

ところが明治38(1905)年に日本が日露戦争に勝利したことから、ベトナム内部でも俄然、反フランスの独立運動が盛んになります。

そしてこの年、ベトナムの維新の会(ベトナム語を直訳すると、まさにこの名前になります)のファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)が日本にフランスと戦って独立するための武器援助を要請しました。

ところが、この要請を受けた犬養毅は、
「武器によって征服されたからといって、武器を持って立ち上がったところで、独立は覚束ない。そうではなく、独立国家に足る人材を育成していくこと、それによってまっとうな国家国民であることをフランスにきちんとわからせることが、第一である」と、チャウの要請を断ります。

これこそが日本流です。
まず「争いありき」ではなく、まずは人材の育成から、まずはそれにふさわしい人格形成から、なのです。こういう点、昨今の保守派と呼ばれている人たち(もちろん私自身を含めてですが)は、明治の日本に見習うべきだと思います。

反日運動にただ反対するのではなく、反日が通用しない国家国民に、まずは自らが成長していく。それこそが日本の進むべき道なのではないかと思います。

ベトナムの独立運動家のチャウも偉いです。
彼は犬養毅の言葉を受け入れ、犬養にベトナムの青年たちの日本留学の許可を要請するとともに、ベトナム国内の青年たちに、日本への留学を呼びかけたのです。そしてこの結果、科挙に合格していた青年200人以上が、日本に留学しました。
この運動は、いまでは「東遊運動」と呼ばれています。

ここも大切なポイントです。
この当時の日本の大学は、本気で植民地支配から逃れ、新しい国家を築こうとする青雲の志を持った諸外国の若者たちにとって、まさに「学べる場所、学べる大学」であり、それだけの「魅力ある教育がなされている大学」だったのです。

ひるがえって、いまの日本の国立大学はどうでしょう。
文系のファンタジー汚鮮は著しく、また、理系は十分な研究ができるだけの予算がありません。最新鋭の研究開発は、失敗の連続の上に成り立ちますが、理系でちょっと目立った失敗があると、国中でその人を叩きまくる。

いったい、いまの日本のどこに、アカデミックな教育訓練の場があるのでしょう。いったいどこに、世界に役立つ優秀な人材を育成する大学があるのでしょう。小中高教育の問題もさりながら、日本の大学の立て直しは、もはや喫緊の課題といえようかと思います。

ともあれ、当時の日本の大学は、まさに魅力あふれる大学であり、ベトナムの優秀な青年たちが日本に大挙して留学にやってきたのです。

ところが、このことは、植民地支配をしているフランスからしてみると、実に面白くない出来事です。
フランスのベトナム総督府は、ベトナムに残っていた留学生たちの親族を投獄し、拷問にかけ、また日本への送金を妨害しました。

それだけではありません。
フランスは、日本政府に対して、日本とフランスの関係を「相互的最恵国待遇」に引き上げるという餌を提示したうえで、日本がフランスの、ベトナムを含む東アジア地域全域の植民地支配を認めること、および、日本にいるベトナム人留学生たちの日本を拠点とした独立運動(ドンズー運動)を取り締まることを求めてきたのです。

これが「日仏協約」で、明治40(1907)年6月10日の出来事です。

フランス政府は、この「日仏協約」が整うと、日本に対してベトナム人留学生たちの引き渡しを要求してきました。
日本は断りました。
けれど、今度はフランスは武力をちらつかせながら、「最恵国待遇なのだから、フランスの要求を飲むべきである」と強硬に申し出てきました。やむなく日本政府は、ベトナム人留学生たちを「国外追放」にしました。

これは、言葉の上では「国外追放」ですが、当時のベトナムはフランスの植民地のわけです。
つまり、日本政府が留学生たちをベトナムに返せば、彼らは、その場で処刑されてしまう。優秀な若者たちなのです。これはなんとしても避けたい。そこで日本が行った措置が、「国外追放」だったわけです。
日本は、あくまでも国外に追放しただけであって、その留学生たちがその後、どこに行ったかは知らない、という立場をとったのです。

昭和15(1040)年、ヨーロッパで、第二次世界大戦が勃発しました。開戦早々、フランスはドイツに破れてしまいます。

拳骨拓史著『昭和の戦争の真実』
「ベトナムを独立させた明号作戦」

昭和16年7月28日、日本軍は南部仏印(いまのベトナムのこと)に進駐しました。
しかし本国フランスがドイツに破れ、またフランス領インドシナは、本国から遠く軍備も脆弱であったことから、独力で植民地を護ることは難しく、親独的な政権であったヴィシー政府は、日本との協調路線をとることになります。

日本軍が進駐したとはいえ、ベトナムの行政権はフランスが掌握していました。昭和18年になると、中国の昆明(コンミン)から米軍機がベトナムの鉄道などに爆撃を加え、昭和19年6月には連合軍によるノルマンディー上陸作戦、7月にはヴィシー政府が崩壊、そして9月、イギリスに亡命していたド・ゴールがパリに臨時政府を樹立しました。

11月にはインパールなどから撤退した日本軍は、さらにタイや仏印(ベトナム)へと撤退し、南方軍の司令部はベトナムのサイゴンへと移ります。

さらにベトナムは、ド・ゴール派の影響が強くなり、ホーチミンのベトミンも、抗日ゲリラを強化していました。
このままでは、フィリピンを制圧したアメリカ軍がベトナムに上陸し、さらに北から中国国民党が侵攻してくれば、南方軍の壊滅は必至と考えた日本軍は、機先を制してベトナムを支配下に置くため、仏印(にいるフランス)軍の制圧に乗り出します。
これを「明号作戦」と呼びます。

しかし当時の現地軍の兵力は4万であり、仏印軍はこの倍の兵力でした。まともに戦えば苦戦は免れないため、陸軍中野学校出身者で組織された「安機関」(安南の安をとって命名)による切り崩し工作を実施(しました)。

その結果、昭和20年3月9日、夜襲を仕掛けフランスの提督らを逮捕し、12日までにはベトナム全土を武装解除することに成功します。しかし3月10日に東京大空襲があったため、明号作戦の快挙は日本国内で報じられず、日本人には印象の薄い作戦となりました。

3月9日の明号作戦の開始直前、日本軍はフランスの保護国であったベトナム、ラオス、カンボジアなどの各国王に対し、独立宣言をすることが可能であることを伝えていました。

ベトナムの阮朝(げんちょう)のバオ・ダイ(国王)は、フランスとの保護条約を破棄、越南帝国(ベトナム帝国)の樹立を3月11日に宣言します。
これに続き、カンボジアのノロドム・シハヌーク国王も、3月13日に独立を宣言、4月8日にはラオスのルアンパバーン朝のシーサワーンウォン国王が独立を宣言しました。

日本軍の明号作戦により、フランスが降伏したことを知ると、民衆はフランスへの怒りを爆発させ、暴徒と化してフランス人の家屋や商店を破壊しました。日本軍は暴徒を鎮圧する一方、独立を支援するよう動き出します。日本がフランスを保護したため、ホーチミンら(共産党系の)独立運動の志士たちの反発を招いたのは事実です。

そのためこの頃、ベトナムの北部、中部で発生した「水害などの影響で米不足に陥り大飢饉に見舞われた」ことを利用して、ホーチミンは「日本軍の収奪で二百万人の餓死者が出た」として、昭和20年9月2日、日本の責任を追求する演説を行っています。

そのため現在でも、これに同調する論調がありますが、飢饉が発生した理由は、水害と連合軍の空爆による鉄道破壊によって、南部からの食料輸送が滞ったためでした。

(ホーチミンを首魁とする)ベトミンが、明号作戦によって越南帝国(ベトナム帝国)が誕生しても親日にならなかったのは、当時、すでにアメリカ軍などから武器や資金などの援助を受けていたからでした。

もう少し早く明号作戦を発動できていれば、各地で実施したように仏印独立軍を編成し、ホーチミンらを吸収して独立運動をおこして、歴史を違う形にすることができたことを思えば、いかにヴィシー政権が親独的であったとはいえ、残念な話であったと言わざるを得ません。

(このあたり、非常に興味深い点です。後に米国はベトナム戦争で米国人を含む814万人の死者行方不明者を出す戦争を、ホーチミン率いる北ベトナムと行っていますが、もともとそのホーチミンが武装勢力として力を得たのは、米国が日本との戦争に勝利するために、ホーチミンに武器や資金を渡してホーチミンを育てたことが原因だったのです。米国が支那国民党の美術品バラ巻き外交宣伝など相手にせず、ハナから日本と連携して東亜の治安と秩序維持にあたっていれば、米国人も日本人もベトナム人も、みんな死なずに済んだのです。)

この間、大川周明が所長を務めた大川塾の一期生である原田俊明が、ベトミンの説得工作中に虐殺される事件も起きています。日本が終戦を迎えるまで、数ヶ月の期間でしかありませんでしたが、日本は善政を布いたので、ベトナムの人々に慕われました。

8月23日、親日的であったパオ・ダイ帝が退位すると、連合軍は北部を中国軍、南部を英印が管理すると声明を出しました。

ホーチミンは9月2日にハノイで「ベトナム民主共和国」の独立を宣言し、パオ・ダイを顧問として迎えます。国民は、ベトミンの下に団結し、フランスはベトナムを取り戻そうと、9月にはサイゴンへと派兵を開始、12月にはベトナム軍とフランス軍の全面戦争となり、この戦争は9年間に渡って続けられました。

これを第一次ベトナム戦争といいます。

終戦後、大部分の日本兵は引き揚げますが、一部は残留し、ベトナム独立戦争に参加した人々もいます。
ベトミンとともに戦う決意をした日本人は766名、戦病死者は47名、第一次ベトナム戦争でフランスが敗れたことを契機に、日本へと帰国した者は150名、残りはベトナムに留まりました。

彼らは新ベトナム人と呼ばれ、各地の忠魂碑を囲む烈士墓地に埋葬されています。元、朝日新聞のハノイ支局長であった井川一久氏の指摘によれば、「サイゴン西北のアンフードン村には、村の守り神のように大切にされている二つの墓碑がある。
それらは1946年2月の仏軍襲来に際し、村民を逃がすために二人だけで白兵戦を試みて死んだ日本兵の墓なのだが、碑面にはベトナム名しかなく、村人にいくら聞いても、本名、出身地、旧所属部隊などは全くわからない」といいます。

彼らはベトナム独立運動を戦うだけでなく、創氏改名して、ベトナムの人々と心をひとつにして戦ったのでした。

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