「馬鹿げた行動」

画像の説明 鳩山元総理の馬鹿げた行動と朝鮮の刑罰

国際会議出席のため韓国を訪問中の鳩山由紀夫元首相は12日、日本の植民地時代に独立運動家が投獄されたソウルの西大門刑務所の跡地にある歴史館を訪れた。

聯合ニュースによると、鳩山氏は独立運動家らを追悼するモニュメントの前で靴を脱いで献花した後、ひざまずいて合掌し、頭を下げた。

鳩山氏は記者会見で「日本が韓国を植民統治していた時代に、独立運動家ら多くが収容され、拷問を受け、命まで失った事実を思い、心から申し訳なく、おわびしたい」と述べた。

一方、安倍晋三首相が14日発表する戦後70年談話については「韓国への植民統治、中国への侵略などが歴史的事実として入らねばならず、当然、反省と謝罪の気持ちも入らねばならない」と語った。

これが日本の最高学府である東大を出て、一時はNO.1の巨大政党の党首となり、そして内閣総理大臣を勤めた人物というのだから、日本の学問も、政治も、また日本人も地に堕ちたものです。

道徳と歴史とアイデンティティを喪失した、戦後日本人の、これが縮図です。

おそらく百年後、千年後の日本史において、あるいは世界の歴史において、史上最悪の馬鹿総理として、このことは歴史によって評価され続けていくに違いありません。

というより、鳩山由紀夫氏は、そんなに韓国がお好きなら、韓国人になってしまえば良いのではないですか?といいたくなります。

以下に、李氏朝鮮時代の刑罰と、それに対して日本統治時代にどれだけ温和な統治を日本が行ったか、そしてまたそれをいかにいまの韓国が捏造しているかを詳しく書きます。

韓国「大韓民国独立記念館」にある、日本人による韓国人への拷問の様子を等身大の蝋人形です。
ご丁寧にハングルで解説もつけられています。
日本帝国主義者が我ら同胞にこのような非道をしたから、自分たちはたちあがり、民族の独立を図ったと書いてあります。

まるっきり大嘘です。

残酷な仕打ちをしているのは、日本統治時代の憲兵や警察官という説明です。
殴られているのは朝鮮人と説明しています。
記念館は、韓国の小中学生の修学旅行の定番コースです。
韓国の小中学生たちは、日本への恐怖と憎しみを刷り込まれるわけです。

けれど、この蝋人形をよく見ると、日本軍の服を着た憲兵や制服警官の顔立ちは、まるっきり朝鮮顔です。
むしろ拷問を受けている側の人物のほうが、日本人に見えます。

ここまで悲惨なものを年端もいかない小中学生に見せようとする神経そのものが、もはや異常といえますが、蝋人形そのものは、韓国が建国されれからの韓国政府による親日派韓国人の弾圧の際の光景そのものです。
むしろ私達は、そのことを主張すべきです。
たいせつなことはもっとあります。

日本は明治43(1910)から、昭和20(1945)年まで朝鮮半島を統治しました。
ですから、ココが大事なポイントですが、
「当時の朝鮮半島は日本」です。

その日本だった朝鮮半島には、日本本土から派遣された日本人の憲兵や警察官がいました。
けれど、残念なことに言葉が通じないのです。
捜査に際しても、取り調べに際しても、言葉が通じなければ仕事になりません。あたりまえのことです。

ですから日本人の憲兵も警察官も、現地の朝鮮語を話す人(以下単に朝鮮人といいます)を、地域防犯のために雇いました。
つまり警察も憲兵も、朝鮮半島の統治にあたって、現地の朝鮮人を大量に採用したのです。

そして犯人を捜し、検挙し、尋問するのは、かれら現地採用の朝鮮人の役割でした。つまりこの資料館で、取り調べをしている拷問をしている蝋人形は、日本人ではなく、朝鮮人です。

日本は、日韓併合のとき朝鮮の警察制度の近代化を図りました。もちろん警務総長には日本人が就任しました。
その警務総長には、憲兵司令官を当て、憲兵と警察の一元化を図っています。これまた不思議なことです。

けれど、「なぜ軍の憲兵と警察の一元化を図ったか」というところに、問題の根幹があるのです。
どういうことかというと、あまりにも朝鮮人官憲による無差別な横暴、拷問、暴力、強姦が公然と行われすぎていたのです。

当時「義兵」と称する朝鮮人山賊団による凶行がさかんに行われていました。

彼らは自分たちの強盗や強姦の「自己正当化」のために、親日派韓国人を狙い撃ちして蛮行を重ねていました。これらの被害を防ぐためには、断固とした措置が必要です。しかし朝鮮人山賊は、重武装しているのです。しかも無法者です。

ですから普通ではあり得ない、警察力と軍事力(本来両者は全くの別物)との融合を、日本は半島で行いました。
これは世界史的に見ても、たいへんにめずらしいことです。

どれだけ朝鮮半島が異常な社会であったかということなのですが、実は日本で元寇が起きた少し前、モンゴルが朝鮮半島に攻め込んだときも、似たような現象が起こりました。
それが「三別抄の乱」で、やはり朝鮮人山賊が、朝鮮半島内を荒らしまわったのです。

この結果、朝鮮を侵略したハズのモンゴル軍が、その山賊たち(三別抄)を追いかけ回すことになり、庶民の目からみると、むしろモンゴル軍が自分たちの身を守ってくれる人に見えました。
結果、なんと60万人の朝鮮の民衆が、モンゴルが引き揚げるときに、祖国を捨てて後ろからついて行ってるのです。

話が脱線しましたが、朝鮮半島の山賊対策に困った日本の朝鮮総督府は、朝鮮人山賊を捜査し逮捕するために、憲兵警察の補助要員として、朝鮮人を大量に採用したのです。
これについては、具体的な数が残っています。

日韓併合当時、日本から朝鮮半島に派遣された日本人憲兵は1,007人です。彼らは現地人を「憲兵補助員」(あくまで補助員です)として採用しました。その数が1,012人です。

日本人の警官は2,265人です。
朝鮮には、人々の模範となれる、家柄がしっかりしていて品行方正な者が朝鮮に派遣されています。
その警察が、朝鮮人をやはり「巡査補助員として採用しています。人数は3,428人です。

そして朝鮮総督府は、法律をつくり、李氏朝鮮時代にあたりまえのように行われていた「拷問を禁止」しました。
ところが、です。

法で禁止したにもかかわらず、法の執行を行うべく採用した朝鮮人補助員たちは、これまでの宿怨を日本の権力を借りて晴らそうとしたのです。同胞であるはずの朝鮮人たちに、過酷な暴行をはじめたのです。これが冒頭の蝋人形館の実際の姿です。

朝鮮の警察官の名簿・名刺

今村鞆(いまむらとも)といえば、明治41(1908)年に渡韓し、朝鮮半島内の警察部長や警察署長などを歴任し、その博学を活かして半島文化の啓発に貢献した人として知られる人です。
その今村鞆は、著書の「歴史民俗朝鮮漫談」(昭和3年刊)に、次のように書いています。
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朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。
いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる。
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その「横暴」とはいったいどのようなものであったのか、スウェーデンのジャーナリスト(アーソン・グレブスト)が、一九〇四年に朝鮮国内を旅行取材した「悲劇の朝鮮」に、朝鮮の監獄内を彼自身が自分の眼で見たムチ打ち刑と、チュリの刑の光景が記載されています。

チュリの刑というのは、拷問してから殺す(死刑にする)という刑です。何をするかというと、死刑囚の脚の間に棒をはさみ、死刑執行人がその端に体重をかけて死刑囚の脚の骨を砕きます。悲鳴をあげる死刑囚に、さらに追い打ちをかけるように次いで腕と肋骨を折ります。そして最後に絹紐で首を絞めて殺し、この様子を大勢で見物するというものです。
近代以前というより、もはや文明以前です。鬼畜の行為です。

マッケンジーの「朝鮮の悲劇」(原著1908年)には次の記載があります。
ここでは、死刑囚でない単なる禁固刑の者も、監獄の都合で殺害してしまうのが、朝鮮の刑務所の常識であった事実が記されています。
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監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては一時に数十名の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。
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李氏朝鮮時代の拷問機器

シャルル・ダレの「朝鮮事情」には、次のように当時の朝鮮の模様が記されています。
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死刑に際して、面耳それぞれに矢じりを突き刺して首を刎ねるし、首を切り落としたあと手足をバラバラに切断したりする。
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実際、福澤諭吉など多くの日本と親交の深かった朝鮮人の金玉均は、1894年3月に上海で暗殺されたあと、翌年4月、朝鮮政府によって、遣体に対して「首を刎ね、四肢を切断」するという刑罰が科せられています。
ご丁寧に、胴体は漢江に遺棄し、頭や四肢は京畿道の竹山に廃棄されました。

ムチ打ち刑は、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた朝鮮半島の伝統的な刑罰です。
旧韓国(日本統治直前韓国)の「刑法大全」(1905年)にもその記載があります。

この刑は、主に姦通罪の女性に対して行われていたものです。
長さ三尺五寸(106cm)、厚み二分七厘(8.2mm)といいますから、これはもうムチではなく、杖です。
この杖で罪人の臀部を打ち据えました。
叩くムチは、その長さが長く、厚みがあるほど酷いものとなります。
この長さと厚みでは、罪人は皮膚のみならず、肉も裂け、腰骨の骨折までもひき起こしてしまう。

刑務所(監獄)も酷いものです。
その不潔と残酷さは言語に絶するもので、食事はおかずなしの雑穀のみ。
大小便は垂れ流しで、もちろん風呂もない。
獄舎は狭く、一坪(畳二枚分)のスペースに、15〜六6人が収容されていたというから、酷い話です。
そして収容しきれない囚人数を滅らすために、獄吏が勝手に囚人を殺して、「処理」をしていました。

首かせを付けられた李氏朝鮮時代の犯罪者

国分三亥(こくぶさんがい、1908年に旧韓国の検事総長、のち統監府・総督府高等法院検事長)は、朝鮮には司法はなく行政(警察)の一部であったとして、次のように回想しています。
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(京城の)鐘路監獄のごときさえも、未決・既決の区別はほとんどなく、獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました。
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
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柿原琢郎(1920~1922年の総督府監獄課長)も実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、次のように書いています。
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狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、ただ無理押しに押し寵めてゐました。
一坪(畳二枚分)に15、6人も押込むありさまで、在監者(は同時に横臥睡眠をとれないので一日に)3、4回交替にて横臥せしめた。
作業上の設備も被服交換の準備なく、終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした。
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
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李氏朝鮮時代の牢屋(まるで動物園のようです)

刑事事件の被告人や収監者だけではありません。
李氏朝鮮の時代の半島では、なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問するという不条理まで行われています。
こうした朝鮮にもとからあった、政府による極めて残酷かつ凄惨な無法行為に対し、服役囚にも人権を認め、人として処遇するように取り払ったのが日本です。

明治43(1910)年、条約に基づいて朝鮮半島を併合した日本は、この年の末には、まず首チュリの刑を全面廃止するとともに、すべての朝鮮の監獄での一坪当りの収監者数を三分の一の「約五人以内」にしました。

さらに京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)をはじめ、半島内の全ての刑務所施設を、近代的刑務所に改善し、大正2(1913)年には、全道の獄舎において、獄舎一坪あたりの収監者数を約二・九人まで大改善し、立ったままで横になることさえもままならなかった収監者たちに、「畳二枚に三名」、つまり少なくとも寝ることができるまでの大改造を施しています。
収監者たちにとって、これはまるで地獄が天国になったようなものであったといわれています。

またムチ打ちについても明治44(1912)年には「笞刑令施行規則」を定め、この第一条によって、笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断すること、および笞を小さくして、執行中に受刑者に飲水を与えることを定めています。さらにこの法の第五条では、女性や十六歳未満の男児への笞刑も禁止とし、さらにムチの長さも、従来の半分の一尺八寸(55cm)、厚みは二分五厘(7.6mm)と薄くし、痛みをそれ以前の朝鮮笞刑の数分の一に下げています。できるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのです。

ちなみに、朝鮮笞刑令について、その第十三条に「朝鮮人に限り之を適用す」とあることから、一部の学者は、これを「朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するために制定した」、「異民族弾圧法であった」などとデタラメを述べていますが、完全に間違いです。

ムチ打ち刑は、李氏朝鮮の後にできた旧韓国の「刑法大全」(明治三八(1905)年にも定められています。
李氏朝鮮時代から続く、韓国に古くからある刑罰です。
これを日本は、まず女子供へのムチ刑執行を禁止し、さらにムチそのものを軽く小さなものにし、半島人がある程度の経済力をつけたとみなされた大正9(1920)年には、日本は、完全に全廃しています。

刑罰の中にムチ打ちを残したことにも明確な理由があります。
当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4〜5名が、月5円あれば一ヶ月食べていくことができました。
1円がそれほどまでに高額なものだったのです。

そしてその1円が、ムチ一回で済むのなら、その方が良いと考える収監者が後を絶たなかったし、そうすることで収監者の家族を救うことができたのです。
要するに日本が朝鮮でムチ打ち刑を残したのは、刑罰を温情的に軽滅するためのことに他なりません。
しかも日本はわずか八年後には、ムチ打ち刑を全廃しているのです。

ところが、せっかくこうして法を定め、施設や食事を改良し、刑執行時における残虐性を排除して近代化を押し進めようとしても、日本人の下で補助員として働く朝鮮人の憲兵や警察官、刑務官などは、日本人から隠れてまで、同国人に対して酷い振る舞いを止めませんでした。

裁判所自体も同じで、日本ではたとえ刑事事件といえども、裁判所の法廷内で被告人に対して拷問や暴行が行われるなどおよそ考えられないことですが、朝鮮では、裁判所自体が被疑者を平気で拷問するということが日常的に行われていいました。

このことについて、旧韓国政府の首席「法務補佐官」であった中村竹蔵は、次のように書き遺しています。
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平理院では法廷の取調の際にしばしば拷問を行ふことがあつたから、たびたび院長(李允用。李完用の兄)に対して之を廃止するよう厳重に要求すると、院長は午後遅くなって出勤するようになつた。
私が退庁するのをまつて夜中に依然拷問行ふことが判り・・・。
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
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いやはやなんとも、見下げ果てたやつらです。

最後にもうひとつ。謝永光さんが書いた「日本軍は香港で何をしたか」という本があります。
その本に、香港で実際にあった出来事として、次のような話が出てきます。
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最初の数日間は平穏無事で、日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、麻雀をしていた四人の女優を強姦した。
前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、この男達は朝鮮人であった。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった。
この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時、香港住民は日本軍よりも朝鮮人を激しく憎んだ。
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要するに彼ら朝鮮人は、当時の日本という虎の威を借りて、好き放題の横暴を働いていたのです。

ちなみに、戦地におけるレイプ(強姦)は、相手の国の男性たちを打ちのめす効果があるとされ、その国の男たちが見ている前で、女性を輪姦するということが、世界の歴史ではあたりまえのように繰り返されてきたし、西欧においても、たとえばベルリンが占領されたときに、町の7歳から80歳までの全ての女性の8割がレイプされたというのも有名な話です。

占領地においては、レイプは兵士たちによる暴行や凶行でなく、ほんのすこし前までの世界では兵士たちの義務ですらありました。

これには理由があって、民族対立の戦争の場合、敵対する民族との間に合いの子を作ってしまえば、敵対関係が和らぐとさえ考えられていたのです。

ところが日本軍は軍記が厳しく、明治以降、日本の軍人さんや民間人が多数、朝鮮半島を含めた外地に出かけて行っていますが、およそ日本軍の兵士たちが強姦を働いたという事実は、濡れ衣となっているものを除いて一切ありません。

まして当時の朝鮮半島は、日本だったわけであり、それは日本人が日本人を強姦するということを意味します。
そういう蛮行を、日本の社会は絶対に許しません。
ですから日本人はどこに行っても信頼されたし、だからこそASEANにおいても、いまだに日本は高く尊敬される国でいるわけです。

そういう勇敢で高潔で誰からも好かれた旧帝國日本という虎の威を借りて、大陸でレイプを含めて好き放題ヤクザなことをやっていたのが、朝鮮人たちでした。
当然、満州、支那では、朝鮮人たちへの怨嗟の声が満ちました。

その朝鮮人が、日本が戦争に負けたことにより、虎の威を失ってしまったわけです。
すると今度は朝鮮人たちは、自分たちはただの一度も日本と干戈を交えたことなどないのに、自分たちは日本人と戦った戦勝民族だと言い出しました。
そして立場が弱くなり、武装も解かれた日本人を狙って、暴虐の限りを尽くしました。

このため多くの日本人が、満州でも支那でも半島でも、命や操を奪われました。
そしてその罪を、すっかり全部、日本人がやったこととして宣伝しています。それが冒頭の「大韓民国独立記念館」です。

おもしろいもので、虎の威を借りるタイプの人間というものは、自分より弱い者には居丈高になり、自分より強い者には、いやらしいほど卑屈になります。
要するに獣(けもの)と同じです。

そんな人の皮をかぶった獣のような連中が、日本からカネをせびりとるために造った「大韓民国独立記念館」で、なんと日本の元総理が白手袋で土下座したわけです。

ほんとうにいつも繰り返すことですが、日本の戦後教育って、いったいなんだったのだろうかと思います。
日本人は目覚めなければなりません。

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