「古代」

画像の説明 みなさんは、日本の「古代」というのは、いつ頃の時代だと思われるでしょうか。

おそらく多くの方は、「古代大和朝廷」という言葉があるくらいですので、古墳が作られていた頃の時代あたりが「古代」とお考えなのではないでしょうか。

そして、飛鳥、奈良、平安の昔が「中世」、鎌倉あたりからが武家の時代で「近世」、明治維新から「近代」がはじまり、戦後が「現代史」の時代といったイメージなのではないでしょうか。

ところが最近の教科書では、文科省の指導に基づいて(その文科省は大学教授たちで組成する歴史学会の認識に基づいて)、なんと古代は、飛鳥時代から、奈良、平安時代を指す、としています。

なんと、鎌倉時代からが、中世です。

古代とか中世とかいう分類は、もともとは西洋の歴史学の分類からきている分類方法です。先史時代(原始時代)、古代史、中世史、近世史、近代史、現代史と分類されます。
つまり古代以前、古代大和朝廷が成立し、古墳が作られた時代というのは、先史時代(原始時代)であり、「はじめ人間ギャートルズ」の世界だというのです。

すこし詳しく申し上げると、

1 先史時代
  土器や石器が用いられていた時代。神話の時代。原始時代。
2 古代
  多少の文献史料などによって証明できる伝説の時代。
  青銅器や多少の鉄器が用いられた。
3 中世
  中央集権国家が形成され、王朝文化が栄えた時代
4 近世
  封建時代。
5 近代
  王権が否定され、産業革命によって市民層が力を得だした時代
6 現代
  第二次世界大戦以降

西洋史で古代といえば、「紀元前8世紀のギリシアの都市国家の発生の時代から5世紀の西ローマ帝国崩壊まで」となります。なんとなく納得できると思います。

ところが、日本では、飛鳥、奈良、平安が「古代」なのだそうです。

文科省の指導要綱によります。
つまり、日本で十七条憲法が成立し、大化の改新があり、法隆寺が建設された飛鳥時代や、奈良の大仏が建立され、阿修羅像などが造られた奈良時代、古今和歌集や源氏物語、枕草子などが書かれた平安時代は、多少の文献資料や遺物、遺構しかない伝説の時代であって、青銅器などに混じって、多少の鉄器が使われていただけの、早い話が「オクレた」時代だというのです。

そして古代の前は原始時代ですから、数多くの古墳が作られた大和朝廷の時代は、鹿の毛皮を着てヒゲもじゃで石斧を手に持った原始人がウッホウッホとやっていた原始時代だというのです。
日本の教育指導要綱では、古代大和朝廷の時代を『はじめ人間ギャートルズ』の時代と規定しているのです。
もう、あまりにも残念な話です。

どうしてこのようなことが起きるかといいますと、理由は二つあります。
ひとつは、戦後日本の記紀の否定、もうひとつは近隣諸国条項への配慮です。

戦後の日本の歴史学会は、記紀(古事記、日本書紀)の否定から入っています。
ですから、記紀に描かれた、古事記なら推古天皇の時代(聖徳太子の時代)、日本書紀なら第41代の持統天皇の時代までを、原始時代、先史時代に分類します。
つまり「記録がない時代」としているわけです。

実際には、記紀の記述と、支那の魏志倭人伝や唐書、隋書、その他数多くの支那の史書の記述が一致しますし、文献史料の「なかった時代」などとは言えないはずなのですけれど、とにかく、そういう記録類が「なかった」という前提から日本の歴史を語ろうとしているわけです。

ですから当然の事ながら、歴史の理解に様々な矛盾が生じます。
典型的なものが古墳です。
最大の古墳は仁徳天皇陵ですけれど、古墳は鹿の皮を着た原始人の中で威張っている原始人が、自分の墓を築くために16年間、日本の人口の2倍の人をムチでしばきあげながら、16年間、飯も食わせず、食料生産もせずに、ただ盛土作りを強制した結果、あの巨大な仁徳天皇陵ができあがったと解釈します。

ところがそうなると、「仁徳」という、慈愛にあふれて徳が高いという名称と矛盾してしまうわけです。そこで仁徳天皇陵の名前も、地名をとって、「あれは大仙陵です」と教えるしかなくなるわけです。もちろん、民のカマドの物語など言えないし、今も残っている茨田堤(まんだのつつみ)が何故できたのかなども、言えない、教えれない話となってしまうわけです。
要するに歴史に矛盾が出てしまう。

近隣諸国条項というのは、平成元年の文部省の告示(高校は平成11年)定められた条項で、教科書の記述に際しては、近隣諸国に配慮しなければならないとしたものです。
そのことが、どうして「古代」の範囲に影響を及ぼしたかですけれど、まず支那では「古代」を、「秦の始皇帝の中国統一(221年)から後漢の滅亡(220年)まで」でとしています。

後漢が滅亡したあと、有名な三国志の時代(魏蜀呉の三国時代)になるわけで、そのあと五胡十六国時代となり、南北朝時代となり、589年になってようやく隋が統一国家を形成します。
その意味では、隋からが支那に中央集権国家が形成されたわけですから、西洋的な分類に従うなら、支那の「古代」は、589年までとすべきではないかと思うのですが、支那の学者さん達は、(政治的に)「古代」を後漢の滅亡まで、としているわけです。

これが韓国になりますと、もっとおかしなことになっています。
というのは、韓国では、紀元前57年の新羅の成立から新羅の滅亡(936年)までを古代としているからです。紀元前57年の新羅王朝の成立からを古代とする、という点は、それはそれで良いと思います。なるほど新羅によって、良い悪いは別として半島に統一国家が誕生しているからです。

けれど、古代の次にくる時代が中世とするなら、中世は、中央集権国家が形成された時代、続く近世は、封建領主たちが幅を利かせる時代です。
そういう目で見ると、その新羅にしても、続く高麗、そのあとの李氏朝鮮にしても、実質的には半島の「統一王朝」でもなければ、封建領主とは、お世辞にもいえません。

ローマ帝国にしても、続く近世や中世の封建領主にしても、国、領土、領民に対して、私的所有物としてであったとしても、それなりに責任を持って統治をしています。だからこそ、領土が荒らされれば、戦争をしてでも、敵を蹴散らし、侵入を阻止しようとしたのです。

ところが、新羅、高麗、李氏朝鮮とも、そもそも領土領民を守ろうとしたという痕跡がどこにもないのです。

ただ支配し君臨し支配し収奪していただけで、国家として必要な統治機構さえあやふやです。
この状態は、国家や王国というよりも、無主地に暴力団◯✕一家が入り込んで、そこにいる人々から、ショバ代やみかじめ料を巻き上げる姿といえます。

この結果、半島内の民衆の生活は、極限まで圧迫されることになり、李氏朝鮮の時代になると、もはや巻き上げるショバ代やみかじめ料の基礎になる物産も流通さえもなくなり、しかたがないのでもっぱら食べ物を収奪していた、そんな時代になっています。
つまり、新羅、高麗、李氏朝鮮とも、そもそも王朝の名にふさわしいかさえも疑問としかいえないのです。

つまり朝鮮半島には、先史時代(原始時代)、古代、中世、近世、近代、現代といった時代分類自体が、まったく当てはまりません。

むしろ朝鮮半島では、倭国の領土であった時代が古代、そのあと本来ならやってくるべき中世や近世がなく、古代のまま収奪一族によって蹂躙され続けた時代が長く続き、明治43(1910)年の日韓併合によっていきなり近代を迎えたという、きわめて特殊な状態にあったといえます。

ただ、韓国では、そうは教えずに、元寇のときに日本に攻め込んできた高麗が成立した時代からを「中世」、それ以前を「古代」としているわけです。
そして以下の記述をしています。

 *
【韓国 国定中学用国史教科書(1985)】

三国(百済、高句麗、新羅)は、互いに対立し競争する中で活発に文化を交流させた。
中国とも交流しつつ独自の美術を発展させる一方で、海を渡って日本に文化を伝え、彼らの文化の基礎を固めた。
百済では阿直岐(あじつき)と王仁(わんいん)が日本に渡って儒学を教え、段楊爾(たんやんい)、高安茂(こうあんむ)らも学問を教えた。
聖王の時代には仏教を伝えてやり、百済と高句麗の僧侶も多数、日本の仏教界を指導した。
儒学や仏教以外にも、美術、音楽、歴史、医学や農業などさまざまな技術を教えた。
ことに雲徴(たむじん)は紙、筆、墨、硯(すずり)の作り方を初めて日本人に伝え、法隆寺の壁画も残した。
日本が飛鳥文化を興し、古代王朝へと発展することができたのは、三国の文化が伝えられたからである。

 *

要するに、朝鮮半島に進んだ文明があり、日本は飛鳥時代のはじまりまでは、文字も紙も箸さえもない原始時代にあり、そんな日本に朝鮮様が文明を教えてあげた、というわけです。
おもしろいのは、この記述の中に、「法隆寺の壁画も残した」とあることです。

法隆寺の建築技術は、支那や朝鮮にはまったくない木造軸組によるたいへんに進んだ建築技術です。
朝鮮が日本にそれを「教えた」というのであれば、朝鮮半島に法隆寺のような「進んだ」木造軸組の建築物がなければならないのですが、残念ながら、そんなものはありません。
ないどころか、法隆寺はいまから1400年前の木造建築物ですけれど、朝鮮半島では、現代に至ってもなお、これだけ複雑な木造建築は建てられずにいます。

もっといえば、室町時代にやってきた朝鮮通信使は、日本にある水車小屋を見て素晴らしいと感じ、これを王に報告して、水車小屋建築プロジェクトを組成しましたが、それから300年経ってやってきた朝鮮通信使が、そこでもまた「日本には水車という素晴らしいものがある」と報告しています。
目の前に、出来上がった完成品を見せられてもなお、300年経っても水車を造れなかったわけです。

ですから、お世辞にも「法隆寺の建築技術を教えてあげた」とは書けないわけで、その結果、「法隆寺に壁画を残した」と記述しているわけです。
嘘には、必ず矛盾点があり、だから、バレてしまうのです。

そもそも仏教を教えてあげた、としているわけですけれど、その仏教を伝えたとされる百済は、当時、日本に朝貢していた国です。

百済王は、跡継ぎの長男を日本に人質に出して忠誠を誓っていたわけです。そして朝貢というのは、世界中、どこの国においても、その国の最高の文物を宗主国に贈ります。
ですから、魏志倭人伝の頃の日本は、魏にヒスイの勾玉を送っています。たかい技術を証明する、世にも貴重な物産だからです。

ところが百済が、宗主国である日本に送ったのは「仏教の経典と仏像」というわけです。

仏教は朝鮮で生まれたものではありません。
つまり、自国に誇れる物産がないから、他国の文物を日本に献上したわけです。このことは、以後の新羅や、高麗、あるいは李氏朝鮮が、支那王朝に朝貢するに際して、女性しか献上できなかったことでもあきらかです。

要するに、韓国の歴史教科書の記述は、ただのいつものファンタジーにすぎないのですけれど、日本の教科書は、こうした韓国の歴史認識を配慮しなければならいとしているわけです。

そしてその結果として、日本は朝鮮半島から立派な文物を教えてもらうまでは、未開の野蛮な蛮族の棲む原始時代であったという仮説の上にたって、いま、日本の教科書が編纂されているわけです。
めちゃくちゃな話です。
怒りさえおぼえます。

歴史認識は、経済的な実害を伴わないからどうでも良いなどと考えるのは、大きな間違いです。
これは西村幸祐先生からの受け売りですが、日本が平成にはいってから長い不況に沈んでいるのは、バブルが崩壊したからではありません。村山談話があったからです。

誇りを失うということは、そのまま経済力の喪失にも繋がるのです。

学習指導要綱の「近隣諸国条項」の完全撤廃を求めていきたいと思います。

勉強になりました・・・

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