「鹿鳴館」

画像の説明 東京・日比谷公園・・・今から130年ほど前にこの向かいに瀟洒な洋館が建てられました。
迎賓館・・・その名も鹿鳴館。。。総工費は当時破格の5億6000万円!!

鹿鳴館建設を取り仕切ったのは井上馨!!
どうして鹿鳴館建設を推し進めたのでしょうか?

1868年7月・・・
江戸へ乗り込んだ政府軍は、天皇の詔の元、江戸を東京と改名。
それから16年後の1883年・・・迎賓館である鹿鳴館が建てられました。その名は、中国の「詩経」の”鹿鳴”・・・賓客を迎えて鹿が鳴くに由来します。8000坪の敷地に建てられたのは、2階建てのレンガ造り・・・本格的な西洋建築で部屋数は40あまり・・・

一階には食堂やビリヤード場、二回には豪華なダンスホールが設けられ、そこでは毎晩のように晩餐会、舞踏会が催されました。

どうして鹿鳴館が建てられたのでしょうか?
”太政官公文録”によると・・・
当時の官省のほぼ全てからお金が出された鹿鳴館建設!!
近代日本の象徴として国家の威信をかけて作られたものでした。総額は・・・14万1633円・・・今のお金に換算すると、5億6000万円以上となります。同じころ作られた外務省の庁舎が4万円だったことを考えると、けた違いの建築費でした。
政府は、潤沢な資金があったわけではなく・・・

かき集めた大金・・・どうして鹿鳴館は必要だったのでしょうか??

幕末・・・黒船が浦賀に来航し、幕府はアメリカの圧力に負けて開国しました。
1858年日米修好通商条約調印、アメリカだけではなく、オランダ、イギリス、フランス、ロシアとも同じように条約を結びます。安政の五か国条約と呼ばれるこの条約は、日本にとって不平等なものでした。その問題のひとつ・・・

領事裁判権が各国に与えられているという現実・・・

外国人が日本で犯罪を犯した場合・・・
日本の法律で裁くことは出来ず・・・その権利は諸外国の領事にあるというものです。

関税自主権もなく・・・
外国からの輸入品にかける関税・・・関税率を自国できめられないので、外国の製品が安く入ってきてしまうのです。
国内産業が大打撃でした。

金銀の交換率も、外国に有利だったことから・・・開港半年で100万両(1000億円)もの金貨が海外へ流出してしまったといわれています。このままでは植民地化されてしまうかもしれない!!
政府としては、不平等条約改正が急務となったのでした。

1871年岩倉使節団を欧米諸国に派遣し、条約改正に向けて発進した日本。

しかし、最初の訪問地アメリカで苦境に・・・
書類の不備などで交渉を打ち切られてしまいました。この時、明治政府は日本の外交の弱さに直面します。痛感し・・・罵倒を受け取ったのが井上馨でした。

1835年長州藩士の次男として生まれた井上馨。
16歳で明倫館に入り、20歳で江戸遊学を果たしました。尊王攘夷に共鳴し、高杉晋作、久坂玄瑞らと共にイギリス公使館焼き討ちなどに参加。過激な行動を繰り返していました。
不平等条約を結んだ幕府にも腹立たしさを感じていた井上。

「日本の植民地化を防がなければ!!」
ということで、敵を知るために海外渡航を決意します。
1863年5月、長州ファイブとしてイギリスへ・・・!!

そこで目にしたのは、産業革命にわく街で・・・攘夷は無理だと判断し、開国へと変わっていきます。
日本の近代化構想を練りながら帰国の途に就きます。

明治維新・・・国際感覚を買われ、1879年外務卿に就任。
条約改正の役を担うこととなるのです。

その目的のためのひとつが鹿鳴館でした。
井上は鹿鳴館建設を急がせます。当時外国の来賓をもてなす迎賓館が無く、その社交場として必要でした。

それまでは・・・旧幕府の”延遼館”だったのです。が・・・井上はさらに西洋化された迎賓館の必要性を感じていました。
社交外交を通じて条約改正を狙っていたのです。

東京大改造計画
当時、外国人居留地は築地にありました。
そこで、銀座・・・煉瓦街として文明開化の象徴にしようと再開発に着手します。

銀座の街は大変貌を遂げ・・・洋館が立ち並び、拡張された道路では馬車が・・・ガス灯が・・・洋服姿の紳士も・・・

しかし、庶民たちの西洋化は容易ではなく・・・
裸同然でも平気な男女・・・非文明国で野蛮な国から脱却するために。
違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)を出します。

庶民の風俗を取り締まるもので、90条の風俗を取り締まっています。もっとも逮捕者の多かったのは・・・”裸体禁止”でした。外国人の目を気にしていたのです。罰金刑で払えないものはむち打ちでした。今までの暮らしが制約されたことで、文明開化に反発する人も出てきましたが・・・突き進む井上馨。

鹿鳴館を建設したのはイギリスの建築家”ジョサイア・コンドル”・・・文明開化の日本には欠かせない建築家で、日本文化に傾倒していました。

1877年工部大学校で建築を教えるために招かれました。
当時政府は近代国家建築のために、お雇い外国人をたくさん抱えていました。ニコライ堂・旧岩崎邸なども彼の建築です。
その初期の代表作が鹿鳴館でした。

国家的大プロジェクトの鹿鳴館・・・。それは、西洋と日本の建築を融合させたものでした。
が・・・その設計を井上は却下!!
井上が求めていたのは、外国人好みのする堂々とした西洋的なものだったのです。不本意ながら、煉瓦の洋館の設計し・・・2年の歳月をかけて鹿鳴館が完成しました。堂々たる白亜の洋館でした。

しかし・・・外国人の反応は・・・
「まるで温泉場のカジノ!!」だったのです。
政府の威信をかけて作った鹿鳴館だったのに・・・!!
歴史的な重みのない・・・西洋そのまんまなところが駄目だったのかもしれません。

日本を男女平等の世の中にしたいと思っていた井上・・・毎晩のように鹿鳴館で交流を広げます。
そんな井上の外交は、鹿鳴館外交と言われています。
食事も、最高の食材を使ったフランス料理が出されました。
当時は食材は香港から取り寄せていました。

日本が西洋に並ぶ国だということを見せつけるために・・・!!
料理一つにしても疎かには出来ません。
が・・・外国人たちの評判は一向に上がりませんでした。

当時の招待状の裏には・・・
「婦人着服はローブ・デコルテの事、男子着服は燕尾服の事」と書かれていました。
日本女性が洋服を着るのは男性よりも遅く、鹿鳴館時代が洋装の始まりでした。

日本製だったといわれるドレス・・・招待客は1500人余り・・・皇族・財界人・政府役人・・・婦人を連れてやってきます。

猿まねのようだ・・・と嘲笑される中で、外国人をも魅了したのが「鹿鳴館の華・大山捨松」です。日本人離れしたスタイルに、洗練された語学力にダンス・・・まさに完ぺきでした。

捨松は・・・1860年会津藩山川家の末娘として生まれました。12歳の時に岩倉使節団と共に日本初の女性留学生としてアメリカへ・・・!!
11年後、アメリカの大学を卒業した際には・・・
「イギリスの日本に対する外交政策」・・・不平等条約について語ったのです。

日本が文明国として見せることが自分の責任だ!!と思った捨松は、陸軍大将・大山巌と結婚します。
夫と共に鹿鳴館の舞踏会に出席し・・・鹿鳴館外交に拍車をかけることとなるのです。

捨松は・・・井上馨夫人、伊藤博文夫人と共に、1884年には鹿鳴館で日本で初めてとなる慈善バザーを開きます。
手作りのハンカチや人形をだし・・・1万2000人が訪れ、大きな収益を得、この資金を元に作られたのが、1885年有志共立東京病院看護婦教育所です。

外交の場だけではなく・・・慈善事業の場ともなっていく鹿鳴館。。。しかし、完成からわずか4年で潰されてしまうこととなるのです。

井上の外交の成果が見られずの時・・・1886年に事件が勃発します。ノルマントン号事件です。
横浜から神戸に向かった途中・・・和歌山沖で沈没。。。
この事件で・・・船長以下イギリス人は全員助けられたものの・・・乗り合わせた日本人は救助されず、たくさん亡くなりました。

その船長の裁判が行われましたが・・・結果は無罪!!
イギリスに裁判権があったからです。この結果に日本中が憤りをあらわに・・・早期の解決が望まれました。

譲歩案・・・
①外国人裁判官の採用
②内地雑居を許可しよう
というものでした。

井上の譲歩案には内閣府でも反対意見が・・・!!
急速な欧化政策にも不満を持っていた庶民。。。
鹿鳴館を舞台にしたものは・・・海外の顔色をうかがうための媚態外交とまで皮肉られるようになりました。

日本の西洋化が条約改正に繋がると思っていた井上は窮地に陥り・・・1887年9月に外務大臣辞任させられ・・・それと共に鹿鳴館外交も終わりを告げました。国辱的建物とまで言われるようになった鹿鳴館。。。
条約改正の失敗によって・・・完成からわずか4年で・・・その時代を終えるのです。

華族会館に払い下げられた鹿鳴館・・・表舞台から消えていくことになります。
「鹿鳴館時代・・・それは実に奇妙な時代であった」by大倉喜八郎

井上馨の辞任後・・・大隈重信、陸奥宗光らが外務大臣を務め、不平等条約改正を進め・・・1894年領事裁判権の廃止、1911年関税自主権を獲得するのです。それは。。。開国から60年の事でした。

華族会館に払い下げられた鹿鳴館は、1940年・・・昭和15年不経済であるという理由で解体されてしまいました。
そして・・・今、その面影は全くありません。

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