「平和憲法?」

画像の説明 世界最古?

護憲・改憲どちらも正しいが、もう少し冷静に自国の憲法を検証しよう。

駒沢大学名誉教授の西修氏(憲法学)の研究によると、わが国の憲法は、世界の188カ国の成典化憲法のうち、制定年では古い方から14番目となる。そして、一度も改正がないという観点では、「最も古い憲法」ということになる。

日本では、「憲法改正」というと、なにやら護憲派を中心に“禁忌”のような見方すらある。だが、世界各国は時代や国民生活の変化にともなって、国の根幹を定める憲法を何度も改正している。

西氏の研究によると、米国は1992年までに18回改正し、27箇条を追補している。ノルウェーは200回以上も改正し、2000年代に入っても改正は4回に及んでいる。

ドイツも59回の改正でのべ200カ条、イタリアも20回の改正で、のべ49カ条に上っている。ほとんどの国は頻繁と言っても過言でないほど憲法を改正しており、日本のように「無改正」というのは、珍しいのだ。 

各国の改憲への姿勢からは、憲法を「国を構成する最高法規」として最重要視している様がわかる。一度制定し手づかずのままでは、外形上存在しているだけで、憲法の「空洞化」を歳月ととに招くことを看過していないのだ。

日本の場合は、先の大戦に敗れた“詫び証文”のように、連合国軍総司令部(GHQ)の素人集団が約1週間で作った憲法草稿を押しつけられ、ほぼそのまま受け取った形だ。それを後生大事にすることが「絶対に不可欠」と信奉する人々が多いのだ。これは、翻って、「憲法の軽視」につながっているのではないだろうか。

コピペ憲法

ネット上のコンテンツをコピーして、ペースト(貼り付け)する所作を「コピペ」と略して言うようになって久しい。論文盗用や著作権などの観点からも問題が指摘されるケースもある。日本国憲法にはこの「コピペ」まがいの、他の条約文や宣言、憲章などから抜粋して利用している形跡が多々指摘されている。

一例だが、憲法9条と1928年に締結されたパリ条約の1条である。パリ条約は第1次世界大戦後の国際的な努力目標のような「平和の誓い」であった。現実の世界の様相は全く異なる展開を辿(たど)るのは史実から明らかだ。以下に紹介する。

パリ条約第一条「締約国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非として、かつ、その相互関係において、国家の政策手段として、戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する」

日本国憲法9条1項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

非常によく似ている。さらに指摘されているのは、日本国憲法の「前文」である。米国憲法、マッカーサーノート、テヘラン宣言、太平洋憲章、米国独立宣言などの「つぎはぎ」であることだ。

前文は、その国の「国柄」を記すものだが、「国柄」は全く読み取ることはできず、GHQ製の英文を官僚らが和訳したために、非常に読みづらい前文となっている。

平和条項は唯一ではない

護憲派といわれる人々は、「憲法9条」を「ノーベル平和賞に推奨」などという運動すら始めた。「憲法9条の戦争放棄は、平和賞に値するもの」などと主張しているが、憲法で広義の「平和主義」を掲げる国は他にもたくさんある。

日本国憲法のように、「国際紛争を解決する手段の戦争放棄」の条項は、アゼルバイジャン、エクアドル、ハンガリー、イタリアにもある。しかし、これらの国々は「軍を持つことは」放棄していない。徴兵制を採用している国すらある。

平和」を標榜(ひょうぼう)するのは、世界各国の共通の理念である。しかし、「平和、平和」と唱え、「憲法9条があれば平和を守れる」などという幻想で平和は維持できるものではない。

外交とともに、軍事で抑止力を保持し、理念を共有できる国とは同盟関係を構築する。これが国際基準であることは言うまでもない。責任を果たさない「一国平和主義」など国際社会で通じるわけがない。しかも、資源と交易に依存する日本の経済システムは、その輸送ルートや相手先国の安定が極めて重要であり、それに積極的に関与していくことが、経済大国として求められている。

中国の軍拡、海洋覇権の増大、北朝鮮の核開発と弾道ミサイルなど、日本を取り巻く安全保障環境は激変した。さらには、シェールガスの産出によって、米国のエネルギー戦略は大転換した。

もはや、米専門家の中には、石油確保の死活的地域であった中東について、「もはや米国が関与する必要はない」などとメディアで公言する向きすらある。ペルシャ湾、ホルムズ海峡、東南アジアのシーレンは、日本が安定に積極的に大きく関与、貢献することが必要となるのは間違いない。

このため、現行憲法9条などを思考の基盤とする国の安全保障や防衛についての議論は、一線で「思考停止」を起こし、現実とは乖離(かいり)した制約のもとで論議、決定されるため、「複雑怪奇」な腑に落ちないものとなる。そして、賛同を得にくいものとなってしまっているのだ。このままでよいのだろうか。

そろそろ、改憲について、「本質」の議論をしようではないか。

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