英との約束、破る中国…

画像の説明 香港返還「中英宣言」30年、形骸化くっきり

英国のマーガレット・サッチャー首相(1925~2013年)と中国の趙紫陽首相(1919~2005年)=いずれも当時=が1984年12月、香港の主権返還を決めた「中英共同宣言」に北京で調印してから、19日で30年を迎えた。だが、当時の中国の最高実力者、●(=登におおざと)小平氏(1904~97年)が対英交渉で切り札にした「一国二制度」は、返還後の香港でしだいに形骸化された。民主派が「真の普通選挙」を求めて繰り広げたデモを、中国の指示で香港警察が力で押さえ込んだことからも読み取れる。

「現在は無効」と通告

香港をめぐる中英共同宣言では、97年7月1日付で主権を返還する一方、外交と防衛を除き、言論の自由を含む民主社会や資本主義経済システムなどを2047年6月30日まで50年間にわたって維持し、香港における高度な自治を保障することが重要な柱だった。

共同宣言を具現化した返還後の香港の憲法にあたる香港基本法には、行政長官と立法会(議会)の議員全員(現在は定数70)を「最終的に普通選挙」で選ぶと明記してある。

しかし中国は、長官選への1人1票の制度導入を07年から17年まで遅らせた上、民主派の立候補を事実上認めないとの基本法にはない前提条件を今年8月に突きつけた。

普通選挙の名のもと、実際は中国共産党政権が認定した人物を長官にすえ、その後に控える立法会の議員選でも同じ制度を適用、結果的に親中派が香港の行政も立法も牛耳る工作だ。

さらに先月、中国は英議員代表団の香港入りを拒否した際に、英国との共同宣言は「現在は無効」と通告したという。中国は、英国との共同宣言に強制力はないとねじ曲げ、主権を有する香港の問題は「すべて内政」で、英議会の動きには強硬に「内政干渉だ」と主張して譲らないだろう。

台湾統一工作の先行実験

中国が「港人治港(香港人が香港を治める)」との50年間の高度な自治を保障した国際公約を、いとも簡単に踏みにじろうとしている様子を北京での調印から30年の今年、国際社会は目の当たりにした。共同宣言を反故(ほご)にする中国への不信感は広がるばかりだ。

香港の民主派議員、李卓人氏(57)は「1989年6月4日に北京で天安門事件が起きた当時、その5年前の中英共同宣言の調印は明らかに失策だったと誰もが感じたし、調印する前段の中英交渉に香港人が誰一人加われなかったことも禍根を残した」と振り返る。

そもそも●(=登におおざと)小平氏は「一国二制度」を将来、悲願である台湾統一工作のカギと考え、先行的に香港で実験したといわれる。文化大革命が終結した後、改革開放路線にカジを切った中国で78年11月、●(=登におおざと)氏は台湾統一工作について「台湾の現状を尊重する」と述べて武力解放との従来の方針を改める意向を表明し、78年12月の党の重要会議で決定された。米中が国交正常化した79年1月、台湾との平和統一を目指す姿勢を示し、その後、82年に具体策として●(=登におおざと)氏が「一国二制度」を打ち出したのが始まりだ。

「一国二制度」の根本矛盾

前後してスタートした英国との香港返還交渉において、中国側が「一国二制度」をいわば“流用”して提示したところ、英国側が同意した経緯がある。真偽は不明だが、その過程で米国が●(=登におおざと)氏の周辺に「一国二制度」のアイデアを具申したと考えている関係者もいる。

だが、1つの国家に共産主義と民主主義の2つの社会を併存させる根本矛盾は実際、30年前に描いたシナリオ通りにはいかなかった。当時とは比べものにならない強大さを備えた中国の共産党政権が、東アジアの地政学的にみて、政治や経済のパワーによる現状変更が可能と考え始めている側面が大きい。

1984年12月19日、香港の主権返還を決めた「中英共同宣言」の調印文書を交換する中国の趙紫陽首相(右)と英国のマーガレット・サッチャー首相。趙首相の奥には当時の中国の最高実力者、●(=登におおざと)小平氏の姿が見える=北京(AP)

一方、同じく「一国二制度」が適用されているマカオ。ポルトガルから1999年12月に返還されてから20日で15周年を迎える。中国は強大な経済パワーでカジノと観光業が中心のマカオを従属させている。習近平国家主席(61)は20日、マカオでの記念式典に参加する予定だ。近接する香港を横目で見ながら、「一国二制度」の“成功”を自画自賛することになりそうだ。

英国をはじめとする国際社会が「一国二制度」の国際公約をどこまで中国に守らせることができるか。力を試されている。

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