景気回復は大切なことですが、

画像の説明 景気というのはお金の流れです。

お金の流れが活発なときは景気が良い、お金が流れなくなれば景気が悪い。ではお金の流れを活発にするためには「どうすればよいか」という議論はたくさんなされていますが、そのどの対策をもってしても、平成になってからの四半世紀、日本の景気は悪くなる一方でした。

良くするための改革は必要です。
しかし、どんなに改革を進めたとしても、日本人の信頼が年々損なわれていけば、おそらくどこまで行っても日本は良くならない。「良くなる」ということが、一部の特権者だけが、桁違いに良くなり、残りの大多数の国民が貧困の底に追い落とされても構わないという構図ならば、改革によってきっと「良くなる」ことでしょう。

けれど「みんなが良くなる」ためには、みんなの紐帯が切れてしまっていては「みんなが良くなりようがない」のです。
なぜなら、経済は信用を基礎にするし、信用を担っているのは、どこまでも人だからです。

発注しても、請負企業がちゃんとした仕事をするかどうかわからないような相手なら、そもそも発注自体がありえません。
そういう会社に意図的に発注するなら、それは「ちゃんとした工事をやりとげたい」ということではなくて、収賄かなにか、別なことが目的でしょう。

そして手抜き工事があれば、困るのは民衆です。

日本は、明治の初めの頃は、国家予算を組めないほどの超貧乏国でした。それがわずか20年で、日清日露を戦い、世界の5強国になるほどの成長を遂げました。それどころか日本は、国内で生産した富を、朝鮮半島や満州、台湾、サハリン、南洋諸島に惜しみなく注ぎ込み、それらの国々は、またたく間に豊かな国になりました。

その日本が、終戦で海外におけるすべての権益を失い、国内も焼け野原となり、GHQに復讐的な占領統治を受けることになりました。それが少なくとも条約上は終わったのは昭和27年。
そのわずか12年後の昭和39年には、アジアで初めてのオリンピックが開催されるに至っています。いま、東京都内には、首都高が走り、主な幹線道路は道幅も広く作られていますが、これらは東京オリンピックのために築かれたものです。

ところが平成日本では、東日本大震災からすでに4年が経過しようとしているのに、いまだ瓦礫の撤去すら進んでいません。
いまだ仮設住宅のままの人たちがいます。いまだ、津波対策用の護岸工事さえ進んでいません。

この違いはどこにあるのでしょうか。結局は「人」だと思うのです。

誰もが「騙す人と騙される人がいたら、騙すほうが悪い」と考え、誰もが「みんなのため」を優先した人たちが、まったく価値観の異なる敗戦利得者たちが政財界や報道各社に、あたかも日本人のような顔をして、自己の利益だけを測る。

そうなれば、一部には大金持ちが生まれるかもしれないけれど、残りの大多数は貧しくなります。そしてその状況のもとで、キックバック目的で国内で生れた富を海外にばらまいて利得を得ようとする人たちがいれば、日本人の生活など、よくなるはずがありません。

あるいは在日外国人で経済人として大物となって、携帯電話会社のオーナー社長ともなっている人がいます。
たいへんな人気だし、たいへんな実力者ですし、きっと頭の良い人なのであろうと思います。ではその人がこの日本にもし1000人いたら、あるいは1万人いたら、もっといえば100万人いたら、日本はどうなるのでしょうか。

おそらく富が偏在し、日本はかつて李氏朝鮮にいた両班のような特権階級の人たちだけが贅沢三昧の暮らしをし、他の多くの日本人は人としてさえもみなされない、貧民を形成することになってしまことでしょう。

あるいは「二位じゃダメなんですか?」と舌鋒鋭く事業仕分けをした女性政治家がいます。
党首戦に立候補する(この記事がアップされる頃には「した」)のだそうですが、党首戦では「二位じゃダメ」なんでしょうかという冗談はさておき、もしその女性が国政の場に100人いたら、日本はどうなるのでしょうか。

そんな人たちが所属するかつての政権与党は、あれだけ議席を減らしながら、党費のストックが250億円もあるのだそうです。

政権与党時代に、どれだけ稼いだのでしょうか。何をしてそんな大金を稼ぎだしたのでしょうか。そして彼らは、党をこれからどんどん分裂させて、党にいる議員の数を減らそうとしています。

なぜでしょうか。
そういう人たちが100人いたら、1000人いたら、日本はどうなってしまうのでしょうか。

結局、人も組織も国も団体も、そして経済さえも、結局は「志(こころざし)」なのです。「志」という漢字は、よく「士(さむらい)」の「心」という意味だと説く人がいますが、違います。「士」の部分は、もとの字は「之」で、これは「行く」という意味の漢字です。ですから「志」という漢字は、実は「行動する心」を意味します。

支那語で「si」と読むこの漢字に、古代の日本人は「こころざし」という大和言葉を充てました。
「こころざし」は、文字通り「心の指し示す道」を意味します。夢と違って、志には、そこに具体化しようとする意志があります。

ですからいまでは学校で先生が子どもたちに、「将来の夢はなんですか?」と聞きますが、昔は「君の将来の志は何ですか?」と問いかけました。
将来の「夢」なら、「お医者さんになりたい」でも通ります。それが実現しなくても、別にどうということはない。なぜなら、ただの夢だからです。夢ははかないものです。目が覚めたら消えてしまう。

けれども「志(こころざし)」ですと、そうはいきません。
「お医者さんになりたい」というのなら、ただ医者になるということではなくて、医療を通じてその子が何をしたいのかが問題になります。そしてそのことを子どもたちが考えるということは、お医者さんを志すなら志すで、それを実現するための具体的行動が必要になります。なぜなら「志」は、「行動する心」という字だからです。

戦前戦中まで、日本の社会では、若者たちは「志」を持つということが、あたりまえでした。
地方から東京に上京するに際しても、それは「青雲の志」を実現しようとする、そこに明確な意志があったのです。
そしてその志は、自分の命をかけるにふさわしいものと、若者たちに認識されました。それが「覚悟」でした。

そしてその「覚悟」は、天皇の「おおみたから」である民衆を守るためのものと認識されました。ひとりひとりの力は弱いかもしれない。けれど「覚悟」を抱いた集団は強い。なぜなら「覚悟」は「責任感」だからです。

昨今、テレビなどを観ていて、「覚悟を胸に抱いた日本人」を見かけることは少なくなりました。
けれど、ひとついえることは、日本では「覚悟」を抱いた「志」ある人は、強くて腰が低くて優しいということです。
諸外国と異なり、日本人で日本の心に目覚めた人は、人物ができてくるほど、腰が低くなります。

日本の心を取り戻していく。
それは、まだまだ先の長い戦いです。
自分自身、もういちど小学校に帰った気持ちで、謙虚に日本を学んでいきたいと思います。

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