戦後保守のお話

画像の説明 先日、テレビのどの局だかわからないのだけれど、朝の番組で「保守とは何か」をやっていました。

一水会の鈴木氏や、小林よしのりさんなどが登場して、そのインタビューを流していたのですが、結論は「よくわからない」というものでした。

よく保守と呼ばれる人のなかには「おまえは保守ではない」というのが、ある意味、罵倒の言葉になっていたりもするようです。基本的に昨今いわれる「保守」という概念は、おそらく「愛国護国を思う者であって右翼ではない」といったイメージのものかと思います。

ただ私は、右とか左とかに関係なく、それらすべてをやわらかく包容できるものが、イデオロギーとは異なる、本来ある日本的心であると思っています。

ちなみに保守という言葉と行動がなぜ生まれたかといえば、戦後の右翼という存在が、共産主義という武力闘争的破壊主義に対しての対抗者となったことから(そのおかげで左翼の行動に一定の制約がかかったことは事実です)、やや、武闘派的なイメージがあり、そうではない愛国者としての活動をつうじて、世の不条理と戦おうというところからであったかと思います。

ところが「保守」という言葉は、右翼という言葉以上に歴史が古いだけに、そのなかには様々な運動が内在しています。
前にも書きましたが、戦後の自民党の保守本流といえば、占領政治とその体制を守り保つことを(ひとつの)目的とした運動でした。

これには理由があって、昭和27年のサンフランシスコ講和条約で日本が(すくなくとも表面的には)主権を回復したときというのは、朝鮮戦争の真っ只中にあったわけです。
当時の米国は、できれば直接米国兵士が朝鮮戦争に介入するのではなく、日本に再軍備させ、その日本軍を朝鮮戦争に差し向けたいという明確な意図を持っていました。

サンフランシスコ条約も、主たる目的はまさにそこにありました。

ところが当時の日本は、まだ戦後の焼け野原からの復興もまだ十分でない時代です。人々はバラックに住み、生活も貧しく、まだまだ戦争の傷跡が大きく残っている状態でした。

そのような時代にあって、当時の吉田茂内閣は、日本の復興を第一としましたから、戦争の傷跡の残る日本人の若者を、ふたたび戦争に駆立てないために、占領軍が与えた憲法を、金科玉条とし、「あなたがたが日本に与えた憲法に戦争放棄と書いてあるではないか」と、朝鮮戦争出兵をあくまで拒み続けたわけです。

そのおかげで、レジャーもなかった貧しい時代の日本では、夜になれば若者たちは他にすることもなく、子づくりに励むことができ、こうして大量な赤ちゃんが生まれたのが、団塊の世代です。

もし当時の日本が朝鮮戦争に参戦していたら、北朝鮮は存在していなかったかもしれません。また、韓国もいまのような反日にはならなかったかもしれません。
けれどそのかわり、韓国の反日体制である李承晩大統領体制は、完全崩壊したことでしょう。つまり韓国初代大統領であり、朝鮮戦争を李承晩は権力を失います。そのため、韓国李承晩大統領は、絶対に日本の参戦を認めたくなかったし、日本も朝鮮戦争に参戦する気など、当時毛頭なかったわけです。

その一方で吉田茂総理は、当時あった自民党と民主党を「自主憲法制定のため」という目的をもって大同団結させました。
ここは吉田総理のしたたかさでもあるし、当時の米国の意向でもあります。

吉田総理は、GHQが与えた日本国憲法という名称の「占領統治基本法」を盾に、日本人の朝鮮戦争参戦を防ぎました。ちなみにこの当時、日本共産党は独自に日本共産党軍を北朝鮮側の兵力として独自派遣しています。日本共産党は北朝鮮の味方をしたかったのです。

米国は、この時点では、朝鮮半島にいる彼らにとっての「黄色い猿」のために、彼らのいう太平洋戦争はすでに終わっているのに、米国人を派遣せざるをえなくなり、しかも、そこで米国人がバタバタと死んでいるわけです。

朝鮮戦争で米国人が死なないようにするためには、日本人に代わりに戦場に行かせることです。そのためにこそサンフランシスコ講和条約を急ぎました。そして、新編成の日本軍を朝鮮戦争に派遣するためには、日本国憲法を日本に廃棄させなければならなくなったのです。

ですから吉田内閣による与党大同団結の自民党は、自主憲法制定を目的としました。米国も当時、これを許可しています。

ところが、朝鮮戦争が終わってしまったのです。
つまり、米国にしてみれば、日本に日本国憲法を廃棄させる理由がなくなってしまったわけです。これが、戦後ずっと占領憲法が改正も廃棄もされずにきた理由のひとつです。

そして、自民党内には、その吉田路線を引き継ぐ者たちという意味で、保守本流が誕生しました。ただし、その保守本流のなかにも、あくまで護憲という人たちと、自主憲法制定を求める人たちが混在しました。保守本流も、実はそういう曖昧な状態できたわけです。

一方、GHQ路線の踏襲と、その後になって中共と韓国が実力をつけてくることによって、日本解体工作、反日運動はその後もずっと続き、徐々にその力を増して行きました。
そうした反日運動などの動きが、あまりに目立つようになったとき、あらためて日本を取り戻そう、日本を見直そうという動きがはじまりました。

それらを総称して、他に適切な言葉がなかったために、一般的によく使われるようになったのが「保守」という言葉であろうかと思います。ですからその「保守」にもいろいろあって、国守主義的な意味合いの保守もあれば、反日と対立し、闘争することを保守と呼んでいる人もいます。

ただ、対立し闘争することが日本的姿勢なのかというと、何か違うように私には思えます。

日本的精神というのは、和と結(むすひ)を大切にし、察する心をもって様々な事象が大事にならないようにみんなで力を合わせて安定した社会を護り抜く、ひとりひとりの民衆が、陛下のおおみたからとして、大切な存在として扱われ、その感謝としてひとりひとりが国の古くからのカタチを護り抜く、つまり、共同するところに、日本的な道があるように思います。

一時期、支那において、日本鬼子という言葉が流行したことがあります。
そのとき日本では、日本鬼子という可愛らしい巫女さんのような姿をした女性キャラクターをどなたかが考案し、気がつけば、日本鬼子は、支那でも絶賛される人気キャラクターになってしまいました。

攻撃し、対立するのではなく、攻撃を静かに受け流し、いつのまにか同化してしまって、そこにゆるやかなやさしさが香る、そんな状態にしてしまいました。
ひとつの例ですが、これが日本流なのではないかと思います。

日本は、2674年の古くて長い伝統と歴史を持った国です。
昨日今日の一代でなるような浅はかなやっつけ仕事の痴れ者の思考などとは、その深さが違うのです。
そして日本が強くなるということは、日本というヤクザの親分さんが世界のなかに登場するということではなくて、本当の意味でのみんながたいせつにされる世界が、この世に登場するということでもあります。

それは、甘えやわがままを許容するということではありません。たいへんに厳しい道でもあります。
けれど、人として、いちばんたいせつなことを文化のレベルにまで昇華したものでもあります。

そういう日本の深さを謙虚に学び、未来のためにできることをひとつづつしっかりと行う。
それが、大事なことなのではないかと思います。

ですから、保守である、保守でないということが大事なのではなくて、その奥底にある、人として大切なものを学び、たいせつにしていく。そういうことが大事なのではないかと思っています。

かくいう私も、まだまだ駆け出しです。まだまだ、学ぶべき事だらけです。けれど、そういう不完全な人間であるからこそ、学びかつ行動していくことが大切なのではないかと思っています。

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