「幾多のお吉たち」

画像の説明 静岡県下田市議会議員の高橋富代先生が、素晴らしい論考をご自身のブログに掲載されていますので、ご紹介させていただきます。
日本人必読です。

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アメリカよ、日本を打つならまず自らの手を清めよ
~幾多のお吉たちへの鎮魂歌~
http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-446c.html
静岡県下田市議会議員高橋富代

アメリカに愛着がある。
私は下田の生まれで、物心ついた頃から黒船祭がありアメリカという国が水兵さんの姿で、時にはアメリカ大使の姿で日常にあった。先の戦争が、アメリカに巧妙に仕掛けられたのだと長じて認識してもなお、相模湾の潮騒と黒船祭を幼児期の原体験に育った私は、同国への憧憬を捨て切れずにいた。

それが、突然崩れ去ったのは、二〇一四年四月二五日のことである。朴槿恵大統領とソウルで会談したオバマ大統領が共同会見で言い放った言葉で、私のアメリカへの片思いは終わった。

この片思いは多くの日本人が、アメリカに対して抱いて来た心情と同種だと思う。ハリウッド映画や、ホームドラマで見つめてきた、豊かで明るい正義の国アメリカ!

「甚だしい人権侵害だ」とオバマ大統領は切り出した。
「慰安婦らの主張は尊重されるべきだ」
「過去を正直かつ公正に認識しなければならない」と日本を裁き「安倍首相や日本国民もそのことを分かっているはずだ」とまで口にした。

1944年に朝鮮人慰安婦たち二十人へのアメリカ陸軍の尋問調書が収められているのは、他ならぬ米国立公文書館である。
調書の「序」にいわく「慰安婦は売春婦、Professionalcampfollowerにすぎない」と。

しかしオバマ大統領にとっては真実など意味もなく、同盟国である日本を韓国と共に貶めることなど、蚊を叩く程度のことなのだ。と、そう私は唐突に思い知ったのだった。

安倍総理の靖国参拝にアメリカが「失望した」と言ってきた時に、すでに違和感はあった。東京裁判の開廷者であるアメリカが、A級戦犯の何たるかを知らぬはずもなく、要するにでっち上げの戦犯であり、日本が勝っていれば、アメリカに戦犯が大量に生まれていただけのことだ。

しかし私は、芽生えた不審の念に視線を当てることを避けた。
アメリカを敵に回したら、防衛の要である日米同盟が壊れ去る、と潜在的恐怖心があったのだと思う。

加えて、パブロフの犬的調教として、日教組、そして当時はGHQのコントロール下にあったNHKなどから、戦後七十年弱かけて刷り込まれていたのであろう。
「アメリカ様に逆らってはならぬ」と。逆らえば餌をもらえず、叩かれるのだ、と。

しかし、いともあっさり韓国に寄り添い日本を足蹴にしたアメリカ大統領に私は、悟らざるを得なかったのだ。
親米保守であった私の足元が瓦解した瞬間であり、「鞭」の存在に気づいた瞬間であった。
日本の頭上に常にふりかざされていた、アメリカの鞭である。
この鞭は、日本が歴史の真実、つまりはアメリカが世界に知られたくない事実を日本人が知り始めた時、まず威嚇のために床にピシリと鳴り、日本が自立しようと立ち上がった時は脳天に振り下ろされる鞭である。

それと共にNHKも、民放のある番組も新聞も、いまだ戦時下のプレスコードを抜け出していないという現実に私は息を呑んだ。

日教組も、彼らが実質作る教科書も、時には入試問題さえ、日本毀損と弱体化のいまだ道具である。オバマ大統領はあろうことか、東京大空襲の「ドーリットル爆撃隊」の隊員に、議会最高位の勲章を授与する法案に署名した。

日本各地の大空襲では無抵抗の赤ん坊や、小学生まで含めて民間人計三十三万人が空襲で殺された。
原爆と合わせると七十七万人の非戦闘員が命を落としている。
ドーリットル爆撃隊への授章理由は「傑出した勇気」だそうだ。

中韓の執拗な日本攻撃と反日の源流はつまるところ、東京裁判と、GHQの日本弱体化政策に帰する。

思えば、進駐軍が日本のマスコミにかけた規制「プレスコード」には、連合軍への批判禁止に加えて「.朝鮮人への批判」と「中国への批判」があったではないか。
わざわざ「朝鮮人」と特定して批判を禁じた意味を日本人は考えるべきであろう。

在日優遇または犯罪お目こぼし政策は、彼らを自己増殖するトロイの木馬として日本に埋め込んでいったということではないか。
「朝鮮進駐軍」容認がその一例である。
差別的見地で言うのではない、歴史の実相を直視するところから始めぬと、日本の進むべき道が見えて来ぬ。
日本人として戦った朝鮮の人々を、日本の被害者として置き換えたのも、GHQの力技ではあった。

奴隷使役国の誹りを世界から受けぬために、アメリカは自国以上の悪者に日本を仕立てる必要があった。
日本には奴隷制の歴史はないので、でっち上げたのが朝鮮半島の「植民地化」呼ばわりであり、人々を奴隷にしたというフィクションが、しかし東京裁判でノンフィクションとしてすり替えられた。

インディアンを殺戮し土地を奪い、奴隷をこき使い、苦力を牛馬のように扱ったのはアメリカである。
ハワイ王国の滅亡もアメリカによる。

日韓併合は白人たちの概念にある植民地には該当しない。
圧政と搾取が植民地であるが、日本が行ったのは合邦である。
韓国の近代国家への礎を作ったのは日本である。

先の戦争の大義は、それまで白人が有色人種を動物扱いで使役、暴利を貪っていた世界を一気に日本が突き崩し、世界の悪しきパワー・バランスを壊したことにある。

日清日露の勝利は、白人たちにとっては黄色い猿が仰天すべきことをやってのけたということであり、彼らは憎みかつ怯えたのである。
知力を備え文化さえ持った「猿の惑星」の猿を呆然と見つめ、そして我に返った彼らは猿を叩き、再び立ち上がれなくなるよう手足を折ったのである。

占領軍の検閲対象の一箇条に
「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」というのがあることに留意されたい。
これは語るに落ちる話であり、昨今憲法改正について緒論かまびすしいことであるが、連合軍がプレスコードという形で、はからずも告白しているではないか。
日本弱体化のために我々は日本国憲法を起草したのだ、それゆえ批判することまかりならぬ、と。

となれば、日本が自立した国家たらんとするなら憲法改正は避けて通れぬ道であるということである。
「プレスコード」には次の条項もある。
「占領軍兵士と日本女性との交渉」を報道してはならぬ、と。

交渉とはおそらく米兵による日本女性の強姦をも含む。
これは多かった。
ここに思いを致す時、私は米兵たちのレイプ頻発を防ぐため、性の防波堤となり、日本全土のあちこちに横たわった無数の「お吉」たちの顔が浮かぶ。
生活苦から慰安婦を志願した女達もいるだろうが、彼女たちが身を挺してアメリカ兵たちを受け止めてくれたからこそ、強姦の発生件数が抑制されたのである。

連合軍にはわずかの豪州、英国の兵もいたが、圧倒多数はアメリカ兵だったのだから、「アメリカ兵」と一括した呼び方も許されると思う。
日本に進駐したアメリカが、まず要求したのは慰安所の設置だった。
各地にそれは要求され「千葉公文書」として知られる史料には、昭和二十年九月五日、館山に上陸した米軍第一一二騎兵連隊相手に、慰安所が設置された詳細が記されている。

そのことを憤るほど私は偽善者ではない。
異性から長く遠ざかった若い兵士たちが、どれほど猛り立っているか、動物としてのオスの衝動である。
これを、率直に認めないから清教徒の多いアメリカの、きれいごとの嘘がものごとの本質を歪める。
日本に設けられた慰安所は「余暇・娯楽協会」とアメリカ風美名で呼ばれたが、売春宿である。

アメリカ軍は公には売春施設を認めない。
だから、なかったことにする。
シカゴ・サン紙特派員マーク・ゲインは慰安所を「米軍を腐敗させようとする日本の謀略。その武器は酒と女で、目的は占領軍の士気と占領政策の破壊」とすり替え、占領期間中米兵による日本人殺害毎年平均350人。1000人以上の婦女子暴行(調達庁調べ)には触れない。

10万人が亡くなった東京大空襲は「死者6千人」と縮小。
なんという偽善と嘘。
外国特派員協会はGHQの情報発信基地だったが、その体質はいまだ生きている。

「余暇・娯楽協会」はやがて封鎖される。
ルーズベルト夫人の反対が原因であるが、彼女の「清らかさ」ゆえに、巷では再び強姦が増え、一般の日本女性が犠牲者になったのである。

私が、大勢の無名のお吉たちに対して悲しみと憤りを感じるのは、身を挺して日本女性の貞操を守った彼女たちの犠牲を無視、アメリカは自らの手は汚れてはいないとして、日本を一方的に打ち据えるからだ。

日本女性への狼藉を防ぐために、日本各地で横たわった大勢のお吉たちは、何のために払った犠牲であったのか。
アメリカは、その時そこにそんな日本女性たちがいたことを見ようともしない。
いや、いなかったことにしてしまったのである。
私はそれを許さない。彼女たちの墓碑銘は私が刻み続ける。

日本人は、やったことは、やったと言う。
時にはやってもいないことをやったとさえ言ってみせる。
河野談話がそれである。
善人が自縄自縛で苦しむ姿が日本である。

神道にベースを置く日本の精神性は「直き」を善しとし、正直を旨として、いつまでも相手の非にはこだわらぬ。
水に流し、恩義には恩義で報いる。
いかに大空襲と原爆で非戦闘員を虐殺されようが、同盟国に蒸し返し言い立てはしない。
その平明さが日本人である。

しかしアメリカ人は、というより外国人は異なる精神性の持ち主である。
自らの益と非の隠蔽のためには、顔色も変えず相手の寝首をかく。
それを言い立てても仕方がない。
日本人の思考と感性で外国と向き合わぬことである。
外国は腹黒く不正直であると思い知ろう。

言うも気恥ずかしい初歩のセオリーであるが、しかしその初歩を戦後69年間怠って日本は現在のていたらくである。

韓国と中国の二重の反日包囲網を更に、アメリカの「反日」が取り囲む。
黄色い猿は優秀で、幾つかの幸運はあったにせよ戦後の焼け野原からあっという間に立ち上がり、経済大国となった。

ならばカネをむしり取ってやれというわけで、中韓への理不尽なODA、国連へ実権を与えられぬままの出費、などなど金銭面での弱体化が試みられるが、それでも日本はしぶとく、またぞろアメリカは日本殴打を再開、その一環がアンジェリーナ・ジョリの反日映画「UNBROKEN」であろう。

日本軍が生きたまま、捕虜の肉を食らったというストーリーで、これは特派員協会の会員であったN・Yタイムズのニコラス・クリストフという男が「日本兵が中国人の子供を殺して肉を食った」書き散らした捏造と軌を一にする。
ちなみにクリストフの妻は中国人である。

ハリウッドは間歇的に日本貶め映画を市場に出す。
だが日本人は、アンジェリーナ・ジョリの来日にファンが群がり、GHQがwarguiltinformationprogramに託して刷り込んだ、自虐史観と侮辱に鈍感な感性はいまだ機能している。

アメリカが日本人に為したのは、神道の事実的追放である神道指令、学校教科における修身・日本史・地理放逐の「三科指令」であり、日本人はこれにより民族の誇りを抜き取られて現在に至る。

言霊の幸わふ瑞穂の国から、その豊穣で美しい言葉が絶えつつある。
言葉が痩せることはすなわち国の精神性の貧困を意味する。
男系で百二十五代続いた天皇陛下を国の要としつつ、四方の海の要塞に守られて育まれた固有の文化を大事にしたい。
言葉を守ることは防衛なのだ。

朝鮮戦争時における米兵相手の元韓国人慰安婦が韓国政府を相手取って訴訟を起こしたのはこの六月のことであるが、朴槿恵大統領もアメリカも内心頭を抱えたのではないか。
慰安所を開いたのは、皮肉にも朴槿恵大統領の父上である朴正煕・韓国元大統領であり、慰安婦を抱いていたのはアメリカ兵なのである。
韓国は韓国でベトナム戦争の時、現地女性を「性奴隷」として虐待殺戮の事実がある。

いったい、誰が日本を打つ白い手をしているというのか。
日本の慰安所は合法で規律正しかった。
ちなみに、一説によると進駐軍相手には「慰安夫」もいた。
(『戦後の日本を知っていますか?―占領軍の日本支配と教化』百瀬孝監修)

昭和21年、名古屋は松坂屋の近く、焼け残った木造アパートに身体検査に合格した数人の若者が集められ、アメリカ女性兵の相手をしたとされている。
売買春を、短絡的に女性の人権論に話をすり替える人たちが絶句すると思うので敢えて書いた。

安倍政権による河野談話の見直しで形勢不利になったと見るや、韓国は「女性の人権論」に論点を置き換え、慰安所に日本軍が関わっていたと責めているが、売買春がさほど悲惨なら、日本に5万人いる売春婦(韓国・国会国政監査発表)を、早急に救い出しに来て欲しいものである。

韓国が売春大国であることは「韓国女性政策研究院」が調査の上で、認めている。

私の地元下田の唐人お吉を連想させるため、そしてまた慰安婦問題はライフワークだと思い定めているのでその記述が多くなったが、慰安婦は突出してわかりやすいアメリカ側の負の記号なのである。アメリカは現実を認めるべきだ。

日本だけではない。ノルマンディーに上陸したアメリカ軍に対して、ル・アーヴル市長が慰安所の設置をアメリカ軍に懇願したが、軍はこれを拒否。
その結果「往来をアメリカ兵たちによる強姦に遭遇せずに道を歩く事はできない」と言われるほどレイプが頻発したのである。

アメリカよ、自らの汚れた手を見よ。
その手で日本を撃てるなら撃て。
バイブルに手を添えて宣誓する時の潔白さで、慰安婦問題には向き合え。
日本は自らと、祖父と父の名誉を懸けた戦いである。
これに負けるわけにはいかぬ。

対中国があり日米同盟は必要だが、しかしアメリカもまた日本を必要としている。
過度の依存とそれ故の過剰な謙虚さは、長い目で見れば結局日米関係を損ねる。
まずアメリカが礎石を置いた中韓の重層的反日の構造を把握しないと、それへの対抗策を見出し得ない。

結論を先に述べるなら、安倍総理の戦後レジウムからの脱却が急務で、そのためには憲法改正が必須。
自衛隊から国防軍ヘの昇格を。
それを即戦争と結びつけるのは幼稚である。
日本が侵略したい国など、世界のどこにもありはしない。
そこからの侵略から守りたいと思う国ならある。

しかし東京裁判史観からの脱却に、政府レベルでは限度があるのではないか。
たとえば、安倍政権の河野談話見直しは、韓国(とアメリカ)に痛打だった。

それならなぜいっそ、談話を破棄するなり河野洋平氏を国会喚問せぬのだろう。
後者は「前例がない」という納得しがたい理由で、呼ばぬという。

ひょっとしてアメリカへの慮りであり、またアメリカからの「圧力」ではないかと、穿ってしまうのだ。
明らかなことは唯一つ、何らかの理由で、政府が米国に対して及び腰であることだ。

ならば、民間で立ち上がり声を上げるしかないではないか。
いかなアメリカとて、国民の声までは封殺できぬ。
政府を頼むな、自ら立ち上がり戦え。

一部が怯える如き「ナショナリズムの復活」などではない。
自力で立ち、自分で身を守れる普通の国になろう、と言っているだけのことである。

具体案は幾つかあるが、たとえばアニメの製作。
題材はこれもたとえばヨーコ・カワシマ・ワトキンズの「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」。
この製作委員会を民間で立ち上げ、寄付を募る。
その行動自体が大きな問いかけになろう。

日本の汚名をそそぎ、真実を世界に伝えるに日本のアニメ技術と人気を使わぬてはない。
尖閣であれだけのお金が集まった。
映画がヒットすれば、回収は出来る。
利益が出ればそれと合わせて、次のアニメ制作を企画する。
具体的腹案は割愛するが、私は動いてみようと思う。

付記拙稿を書き終えてからしばらくして、朝日新聞が8月5日の朝刊で「慰安婦問題の事実関係に誤りがあった」と認めた。
しかし謝罪は無く、英文版では一行も触れず、その上、論点をずらして相変わらず慰安婦をネタに日本を叩く構え。

政府はこれだけの環境が整ったのに、(おそらく対韓国対アメリカへの外交配慮から)河野談話の見直しはしないという。
やはり国民が覚醒して立ち上がり、この仕組まれた情報という名の戦争を戦うしかない。

互いに呼びかけ、手を組み立ち上がろうではないか。

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