「日本の汚い償い金、なぜ受け取る」

画像の説明 韓国で元慰安婦バッシング 
靖国で再会ならず

濃紺の韓国の民族衣装チマ・チョゴリに身を包んだハルモニ(おばあさん)が平成6年10月、東京・九段北の靖国神社を訪れた。女性の名は朴(パク)福順(ポクスン)。戦時中、慰安所では「金田きみ子」と名付けられた。

「兵隊さんたちが『靖国神社の桜の下で会おう』って死んでいったから、靖国に行ってみたのに何もなかった」とがっかりした様子だったという。

朴は慰安婦募集の強制性を認めた5年の河野洋平官房長官談話の作成にあたって、日本政府から聞き取り調査を受けた16人の元慰安婦の1人だ。産経新聞が入手した調査報告書によると、日本人軍属の家で働いていたところ、中国方面に働きに行こうと誘われ、ソウルから汽車で中国に向かった。「棗強(ナツメキョウ)」などの慰安所で約7年間、慰安婦生活を送った。調査に対し「抵抗すると刀で胸に傷をつけられた」と証言した。

朴は4年、前年12月に金(キム)学順(ハクスン)を含む元慰安婦らが日本政府に賠償を求めた裁判の原告として加わった。法廷では自らの体験を証言した。日本政府の責任を追及してきた朴だが、元慰安婦の支援活動をしていた臼杵敬子(66)に対し、傷病兵の看護をしたときの話をしたことがある。

「慰安婦として連れていかれ死ぬよりつらかったけど、日本の兵隊が悲惨に死んでいくのをみたら、私と一緒なんだって涙がこぼれたよ」

臼杵は朴が靖国神社を訪れた理由をこう説明する。

「戦争で犠牲になった兵隊たちの墓が靖国にあると思い込んでいた。恩讐(おんしゅう)を超え墓標の前で何か語りかけたかったのかもしれない。『神社にいたハトが死んでいった兵隊さんのように思えた』と言っていた」

「決めるのは自分」

朴は9年、元慰安婦への償い事業をするために創設された「アジア女性基金」から一時金(償い金)200万円、国費による医療・福祉支援費300万円の計500万円と、首相、橋本龍太郎の謝罪の手紙を受け取った。翌年、東京地裁で行われた口頭弁論で、手紙を受け取った心情をこう振り返った。

「手紙を読むと、昔、深い傷を負われたと、そしておわびをすると、そしてねぎらいたいとある。手紙を受け取って涙を流した」

だが、この行動に対し韓国内でバッシングが始まった。中心となったのが反日団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」(挺対協)だ。挺対協はその前年秋、基金を「日本政府の賠償責任を回避するためのまやかし」として、元慰安婦らを一堂に集め、受け取りを拒否するよう迫った。この席で、朴は「いつ死ぬか分からないのだからいま受け取りたい。それを決めるのは自分自身だ」と反論した。

挺対協の共同代表、尹(ユン)貞玉(ジョンオク)は「償い金を受け取ったら、被害者は志願していった公娼(こうしょう)となる」と朴らを非難。韓国のマスコミも基金に反発した。

韓国側が実名公表

日本側はこうした状況に配慮し、一時金を受け取った7人の氏名を公表しなかったが、韓国サイドが実名を公表し、嫌がらせも始まった。家まで押しかけ「なぜ汚い金を受け取るのか」と責め立てた市民運動家や記者もいたという。

基金にも協力していた臼杵は間近でその様子を見聞きした。

「(朴の)家にも『日本から汚い金を受け取った汚れた女だ』といった嫌がらせの電話があった。屈強な若い男たちが脅迫まがいに訪ねてきたこともあった」 臼杵は朴の身を案じ、一時、日本に呼び寄せ自宅に泊めたこともあった。

挺対協は臼杵に対する妨害行動にも出た。韓国で基金の活動ができないようにするため、臼杵の入国禁止を韓国法務省に求めた。臼杵は9年から2年余にわたり、訪韓できなくなった。

朴は17年、韓国で“公娼”“売春婦”の汚名を着せられたまま死去した。83歳だった。朴は一生独身で、親戚付き合いもほとんどなかった。臼杵が資金を出し、韓国・天安の国立墓地「望郷の丘」に墓を建てた。

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