制札

画像の説明 制札倒壊事件と戸田忠昌

タイトルが「制札倒壊事件」となっていますと、なにやら最近の事件のような印象を受けますが、戸田忠昌(とだただまさ)という幕府の老中だった人の逸話です。
この人は、岩槻藩主、佐倉藩初代藩主などをつとめた人で、たいへんな人格者として知られます。

幕末もほど近いある日のことです。
戸田忠昌が御用部屋で仕事をしていたとき、用人が息急きって部屋に飛び込んで来ました。聞けば、庭師の手配で大石を運んでいた車力(運送業者)が、大手前で誤って石を車から落してしまい、制札を根元からポキリと折ってしまったというのです。

その車力は真面目な男で、これまで間違いなどひとつも犯したことがなかった男です。まさか、よりによって、という事故でした。

けれど制札といえば、幕府からのお達しを幕臣たちに伝えるための厳粛な命令の立て札です。
これを折ったとなれば、お上に対する不埒な行為として、厳罰に処せられるものです。番所役人に捕まった車力は、下手をすれば打ち首ではないかと、獄舎で震えていました。

話を聞いた戸田忠昌は、しばらく考えた後、御徒目付(おかちめつけ)を呼びました。
「いま、大手前で車力が石を落とし、制札を倒したとの報告を聞いた。制札を倒す行為は許しがたい行為である」
「・・・・・」
「だがしかし、その制札の根元が腐っていたとなれば、どうであろうか。腐っていたならば、大石どころか、わずかな風でも倒れるであろう。
「・・・・・」
「いますぐに行って、制札の根元が腐っておるか、よく調べてまいれ。よいか。よく調べてくるのだぞ」

御徒目付は、重ねて「よく調べて来るのだぞ」と言った忠昌の言葉に、すべてを悟りました。そして調査の結果を忠昌に報告しました。

「お察しの通りでございます。制札の根元はたしかに腐っておりました」

車力は涙を浮かべて、獄舎を出て行ったそうです。

・・・・・

この話の戸田忠昌という人は、当時を記したいくつかの書物で「善人の良将」と評された人で、このような数々の善政の逸話を残している人です。

ところがこの戸田忠昌、若い頃は、とんでもない暴れん坊で豪放磊落、剣術の腕も立ち、酒は飲むは妾は囲うはで、あまりの乱行ぶりに、老臣の彦坂与次右衛門が心配して、まる二日間も諌言のための座り込みをしたこともあったそうです。
この諌言が功を奏し、以降は万事を正しく行い、ついに幕府老中として重きをなす名臣となりました。

老中にあったとき、場内で若年寄だった稲葉正休(まさやす)という人物が、大老の堀田正俊を刺殺するという事件がありました。

このときは戸田忠昌は、「稲葉殿ご乱心」の声に現場に駆けつけ、稲葉岩見守を一刀のもとに斬り捨てています。戸田忠昌は、ただの能吏とはわけが違う。まさに武士そのものでもあったのです。この事件のとき、忠昌は58歳でした。

ちなみに殿中での刃傷沙汰は御法度ですが、その刃傷を犯した者を現行犯でその場で斬り捨てることは、これは当然とされました。
まして、このとき稲葉正休は、実は大坂淀川の治水工事の工事予算の半分を着服した疑いがあり、大老から処分を下される直前であったのです。戸田忠昌の行為は、ですから、当然の行為でもありました。

さて、話が脱線しましたが、冒頭でご紹介した制札事件のようなことが現代社会で起こったら、どのようになるのでしょうか。
現代社会は「結果主義」です。
ですから物品の損壊事件があったとすれば、それをした者が、責任を問われます。法は、結果に基づいてこれを処罰するものだからです。

けれども戦前戦中までの日本、あるいは戦後も高度成長を担った日本の企業風土の中には、あきらかに「察する」という古くからの日本の文化がありました。冒頭の物語においても、戸田忠昌は、部下の報告を執務室で聞いて、それだけで、素晴らしいジャッジをしています。そして御徒目付も、忠昌の言葉から、すべてを察しました。

そうやってお互いに、相手の様子や気持ちや事態を「察する」という文化があったからこそ、こうした物語が生まれています。

そしてそれができない、わからないような者は、高官に取り立てられることもなかったし、諸般の事情で間違って要職に就いたとしても、それで問題があれば、刀にかけて不忠を正しています。そこに、命をかけた政治があったのです。

もし、江戸日本で、虚偽の報道を30年間もくり返したり、嘘を並べて政治を壟断するような者がいれば、その者たちは、たとえそれが豪商瓦版であったとしても、店はお取り潰しで廃業、全財産は没収、その社長などの責任者は、一同、揃って打ち首となったことであろうと思います。

そしてさらにこれが奈良、平安の中世日本であれば、そのような虚偽報道をしそうになった、その徴候が見えたという段階で、流罪、財産没収となったことであろうかと思います。

「察する」という文化は、たかをくくって悪巧みをする者に対しては、断固武をもって制するという硬軟両方の使い分けが背景にあったのです。

このことは、実はとても重要な、社会科学を浮き彫りにしています。つまり「いざとなったら武を用いるぞ」という文化は、「察する」という文化とセットになってはじめて功を奏するということだからです。

悪さをしたものを逮捕し、処罰する。そういう社会文化の中にあっては、では「悪さ」とは具体的に何を示すのかが問題になります。ですから、制札を倒した、壊した、だから器物損壊であるから、諸法度の第何条に基づき、処罰する。そのために、人手を出して逮捕する。

そしてその損壊に至った経緯を明らかにするために、被疑者の身辺を徹底調査し、自宅や職場を強制捜査する。そのときに抵抗されないように、警備を厳重にする。そういうことに、エネルギーが費やされます。

そうなると、冒頭の事件の処理のために、いったい何人の逮捕のための捕り手方、取調べ官、身辺捜査官、差し押さえた書類等の調査官、検察庁への提出書類の作成者、検察官、裁判所等々、いったい何人の官僚や捜査官が必要になるのでしょうか。
膨大なエネルギーです。けれど、もともとの事件は、たった一本の制札が、事故で折れた、というだけの話です。

しかもこうした事件は、人の世ですから、人が生きて生活していれば、次から次へと起きて行きます。
その都度、上に述べたような膨大な人でと労力が費やされるのだとしたら。そしてそれだけの労力をかけて、では、犯罪や事故がなくなるのでしょうか。
もっというなら、減るのでしょうか。

つまり「結果主義」というのは、一見すると合理的で簡素にみえながら、実は、かえって社会負担を増大させてしまうものなのです。

これに対し「明察功過」という社会制度は、察する側に武力があり、察する側に責任負担があります。
情報共有化社会(シラス国)ですから、相互の情報は共有されています。

ですから日頃から忠勤に励み、間違いのない者が、たまたま事故をしでかしてしまったというのならば、制札の根元が腐っていたのであろうということで処罰もないし、そこに相互の感謝もあります。
もちろん、もしこの車夫が日頃から素行が悪い者であるのなら、百叩きくらいの刑はあったかもしれません。

けれど、察するお上に武力があり、こんなことをすれば「下手をすれば打ち首?」というくらいの緊張感があることで、民の側に日頃から「かしこまる」という社会風土が熟成されています。

これが平安時代くらいになると、武そのものをもちいるほどがないほどに、世の中が安定していました。

わたしたちは、明治の開闢以降、諸外国に学べ、西洋の制度に学べという気風がたかまり、特に先の大戦以降は、なんでもかんでも、洋風が正しいように、いわば洗脳されてきています。

けれど、そうした洋風の社会風土であれば、冒頭に記したような、おそらく世界中がうらやむこうした美談は、まったく通用しなくなります。
そしてわがままで、声だけが大きい不埒者が、大手を振ってまかりとおる社会になっていってしまいます。

わたしたちは、失った文化を、もう一度、まじめに見直してみるべきときに、いまきているのではないでしょうか。

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