神々の

画像の説明 なにをやってもどうにもならない、

まるで手のひらから、掬(すく)った砂がこぼれていってしまうかのように、幸せが逃げていくというか、みんなが誠実に、一生懸命になってがんばっているのに、なにやらおかしな方向に時代が流れていってしまうということってあります。

ひとつの例をあげると、保元の乱(1156)から鎌倉政権の誕生(1192)までの年代がこれにあたります。

この当時、もともとは、長く続いた平安貴族の世でした。これは飛鳥から奈良、平安時代へと続く世なのですが、この時代というのは、これがまたものすごくて、・・・・・死刑や皇族の流罪といった大事件がなんと、500年間もなかった時代です。

それは官吏がさぼっていたとかそういうことではなくて、その必要自体がなかったのです。
早い話が、大宝律令とか、養老律令などが発布されましたが、この「律令」というのは、古代の支那の漢字で、「律」が刑事法、「令」が民事法です。
そして、大宝も、養老も、実は「令」は早々に発布されて、その詳しい解説本などが書かれたりもしているのです

けれど、「律」は、そもそも発令自体がされたのかどうかわからないくらい、ほとんど出ていないのです。
つまり、刑事犯の処罰を必要とするような事件そのものが起こらなかったわけです。いかに、シラス統治が民度を高めることかの、これはひとつの象徴ともいえることであろうと思うわけです。

そんな時代が、500年続いたのです。
いまは2014年ですが、その500年前といったら、1514年です。

まだ応仁の乱の最中です。
それから戦国時代が始まり、安土桃山時代があり、江戸時代があり、幕末の戊辰戦争があり、明治以降の日清、日露、大東亜などの戦いがありました。
逆に考えれば、500年前といったら、ほんとうに途方もない昔にあたるわけですけれど、そのまるまる500年間、刑罰を与える必要がないほど、古代から中世にかけての日本は、平和で豊かな国だったというのは、これは驚愕すべき事実です。

ところが、そんな平和な時代を破った大事件が、実は「保元の乱(ほげんのらん)」でした。
詳しい説明は長くなるので省きますが、太政官が前の天皇である崇徳院に武装した武者たちを差し向けて、崇徳院を逮捕、崇徳院派とみなされた武者たちの首を刎(は)ね、崇徳院を讃岐に流罪にしてしまったのです。

これは、いってみれば、大手銀行の役員たちの派閥争いが高じて、一部の役員が銀行本店の警備員を利用して前の頭取を捕縛し、対立する役員や部長たちを殺害してしまったようなものです。

現代社会であっても、もしそのような事件が起これば、これは世間を騒がす一大事となろうと思います。

そしてこの乱以降、それまでは宮中の一介の警備員に過ぎなかった武者たちが、政治権力を持つようになり、こうして生まれたのが、平清盛を筆頭とする平家一門の興亡であり、鎌倉幕府の成立であったわけです。

そして時代は、貴族政権の時代から、武家政権の時代へと移りました。

そうした時代下にあって、実は多くの人々が、もとの平和で安定した社会を取り戻そうとして、奮闘努力しました。貴族政権の保持を図ろうとしたし、武器を用いない、平和な社会をなんとかして取り戻そうと努力を重ねたのです。

だって、そりゃそうです。なにせ500年続いた平和な時代が、いきなり破られたのです。
誠意がある人たちなら、なんとかして平和で安定した社会を取り戻したいと考え、行動するのはあたりまえです。

ところが、そういう多くの人々の願いや希望や運動もむなしく、時代はどんどん武家の力による政治、武器を持って人が人を殺す政治の時代へとシフトしていきました。平治の乱が起き、源平の合戦が起き、国内は大混乱の時代となってしまうのです。

誰もが平和を願い、誰もが古き良き時代を取り戻したいと願いながら、時代はどんどん逆行する。人が人と殺しあう。そんな時代が続きます。
そして気がつけば、政治の中心は、京都の貴族から、鎌倉の武士たちへと移ってしまうわけです。

ところが、その後の歴史を眺めてみると、なんとその保元の乱から約100年後に、元寇が起きているわけです。

文永、弘安と二度にわたる元寇は、鎌倉武士団の大活躍によって、元と高麗の連合軍を水際で食い止め、おかげでわたしたちの国は、その後も自立自尊が守られる結果となりました。

しかし、よくよく考えてみると、武器を持たない、あるいは武力を用いることを極端に忌避した平安貴族政権が、もし、13世紀になってもまだ続いていたとしたならば、果たしてわたしたちの国は、元と高麗の連合軍を打ち破り、押し返し、わたしたちの国の独立と平和を保つことが、果たしてできていただろうかと考えると、はなはだ疑問なのです。

そう考えてみると、保元の乱以降、ほとんどの朝廷の貴族たち、あるいは民衆が望んだ平和な時代が、まるですくった手のひらから、砂がこぼれ落ちてしまうかのように、何をやっても、どうやっても、時代の変化を食い止めることが出来なかった、どんなにがんばっても、時代のうねりの前に、蟷螂の斧でしかなかった、それによって貴族たちの力が弱まり、殺伐とした武力がものをいう時代へと変化していったという時代の流れが、結果からみると、まさにそうした動きが、もちろん個々の戦いで命を失った人やそのご家族にとっては不幸そのものであったでしょうけれど、わたしたちの国にとっては、最良の選択となっていたことに、あらためて驚かされます。

それだけではありません。
武家政権を確立した源氏は、頼朝以降、たった三代でなくなり、その後は北条氏が実験を握りました。
そしてその鎌倉幕府も、14世紀ににはなくなり、次に登場した足利幕府は、いわば全国の大名の連合政権となったため、結果として群雄割拠の戦国時代を招いています。

そして、戦国時代が群雄割拠であったため、それぞれの戦国大名たちは、自国の生き残りのために強力な武器を持つことが必要となり、またたく間に鉄砲が全国に広がりました。
そして気がつけば、16世紀には、日本は世界全体の鉄砲の約半数を保有する、鉄砲大国になっていました。

同じ時代、南米には巨大なインカ文明がありました。

けれどそのインカの大帝国は、スペインの無法者たちの、たった150丁の鉄砲によって完膚なきまでに滅ぼされ、いまではその文明でどのような言語が話されていたのか、どのような文化があったのかさえ、まるで超古代文明を探るのとおなじくらい見えないものになっています。
そして同じ事態となる危険が、16世紀の日本にはあったのです。

先般、コンゴのことを書きました。

白人がコンゴにやってきた時期は、白人が日本にやってきたのと、ほぼ同じ時期です。
ところがその後のコンゴは、世界に奴隷を輸出する中心地となりました。

つまり、世界が植民地支配下におかれていった時代に、日本もコンゴと同様に植民地支配されていく危険があったのです。

ところが日本は、気がつけば、群雄割拠が幸いして、世界最大の鉄砲大国になっていました。
その結果、日本は白人たちを見事に押し返し、むしろ世界が征服されていったその時代に、江戸270年の平和と繁栄を手に入れています。

そしてペリー来航以降、日本は、それまでの武家政権と、残っていた貴族政権の両方を一気に廃止し、古代大和朝廷時代のシラス体制を復活しました。
そしてなんと世界を相手取って戦い、こんどはなんと、世界から植民地支配をなくしてしまったのです。

神々の御意思というのは、わたしたち人間には計り知れないものです。

ただ、歴史の流れを、百年、二百年、あるいは五百年、千年といった大きなタームでとらえてみると、なんだか日本には、まさに神国としかいえないような現実があります。

「日本を信じる」
神々の御意思を信じる。
それがわたしたち日本人の、究極のかつ最良の選択といえるのかもしれません。

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