国民にツケを回す銀行経営は持続可能か

103 (5) 「フクシマ」と「金融危機」の共通点

2011年3月11日に起きた東日本大震災から3年半。原発事故は未だに収束の見通しさえ立たない状況だ。この事故は、規制機関からの警告を無視し、事故後も「1000年に1度の想定外の事態」と開き直る東電の経営姿勢から生じた人災だ。

1990年代終盤から2000年代初頭にかけての日本の金融危機、2007年から2009年にかけての世界同時金融危機も、実は東電と同じように「100年に1度」のリスクを「想定外」として無視してきた金融界の経営姿勢が生んだ人災であり、どちらのケースも、結局は国民や世界中の一般市民が巨額の尻拭いをさせられる結果となった。このような経営がなぜ黙認され続けてきたのか、その背景の一つには、政治とカネの問題がある。
「100年に1度」なら許されるのか

企業経営者は、100年に1度、つまり1%のリスクであれば、対応しなくて良いのか。それは、その企業が置かれた社会的立場によって全く異なる。多くの企業は、100年に1度の事象が起きれば倒産する可能性があるだろう。それは不幸なことではあり、経営者の心中を思うといたたまれない。しかし、その倒産の影響は、当事者とその関係者以外には及ばない。しかし、東電や銀行のような社会インフラを担う事業者の場合は全く異なる。万一にも、こうした企業が倒産の危機に瀕すれば、全国民、場合によっては、世界中の人々に甚大な被害をもたらす。

100年に1度というような事象を、一般に「テールリスク」と呼ぶ。企業が自己資本(純資産)を一定程度維持している理由は、そういう事象が起きても企業が存続できるようにするためだ。現に、昨今巨額の損失を計上した電機業界の企業群も、過去に蓄積してきた純資産のお蔭で最悪の事態を免れている。東電の場合は、それをはるかに上回る損失を計上したために実質債務超過に陥り、実質的な国家管理の下に置かれている。

翻って、金融業界、特に銀行はどうだろう。あまり専門的な用語を用いずに説明すれば、要するに「1%のリスクが起きた場合はともかく、99%の場合は大丈夫だ」という考え方で、それに必要な純資産額を金融工学を駆使して算定している。これを金融用語で「エコノミック・キャピタル」と言う。金融工学に興味のない読者の方も、図1のような正規分布の図は中学校か高校の数学の授業で目にしたのではないだろうか。

銀行は、最後の1%(これを何%にするかは各行の考え方次第)の部分、言い換えれば分布図の右端、つまり「テール」に対しては純資産を用意しなくていいというのがここ20年程の考え方だ。しかも、残り99%のリスクに対する純資産には、他の債務に対して返済順位の劣る劣後債など様々な調達手段を含めてもいいとされていた(いわゆる「資本の質」の問題)。これまでの国際的な自己資本規制(バーゼルⅡ)も、基本的にはこの考え方に基づいている。

しかし、逆に言えば、その1%の事象が起きた場合には、銀行は債務超過、つまり経営危機に陥るということでもある。そして、一般企業と異なり、その1%が起きた場合に社会が蒙るダメージは極めて甚大なのだ。しかも、悪いことに、銀行が100年に1度と言い張るような金融危機は、世界中でだいたい10年に1度の割合で起きているのだ。

銀行、東電が救済される構図

各国の金融当局も、2007~2009年の金融危機後、こうした問題点は把握している。その結果、世界の銀行の自己資本規制は、現行のバーゼルⅡから、段階的にバーゼルⅢに移行しつつある。

バーゼルⅢについては、既に連載第12回「バーゼルⅢ後の銀行は企業を救えるか」で詳細に解説したので、改めての説明は省略するが、要するに、①自己資本の質の強化、②リスク計測の精緻化、③流動性規制の導入、④プロシクリカリティ(景気循環による悪影響)の軽減、等についてバーゼルⅡを大幅に強化したものだ。自己資本の質の強化や流動性規制の導入は、銀行に利益の積み上げや増資などで安定的な純資産を計上せしめ、しかもそれを真に流動性(売却・現金化のしやすさ)のある資産で運用させることになる。

さらに、本年4月から導入された米国の「ボルカー・ルール」は、銀行の自己勘定トレーディング業務を禁止するなど、一層リスクを抑制する方向を明確にした。

筆者は、既に約4年前の本連載第3回「ユニバーサルバンクは万能か」で、こうした規制の流れを受け、今後の世界の銀行の潮流はナローバンキング、すなわち、シンプルな預金・決済、及び融資に的を絞った経営が指向されると予測した。しかし、現実はそうなっていないように見える。

 世界の金融機関、特に日本の大手金融機関は、コングロマリット化やグローバル化を進め、経営上管理しなければならないリスクを一層複雑にしているばかりでなく、巨大化することによって「大きすぎて潰せない(too big to fail)」金融機関が増加した。銀行が証券会社やPE(プライベート・エクィティ)ファンドなどに手を出しても、融資との利益相反がある上、そのリスクを管理する能力がある経営者などいない。「大きくて潰せない」金融機関が増えるということは、何かあったら必ず政府、つまり国民の負担でその金融機関が救済されるということを意味する。

銀行は実質的に国民から補助金を受けている

これは、東電がリスク管理能力を超えた原発を保有し、経営危機になっても「潰せない」ために国民負担によって生かされたのと全く同じことだ。そして、国民負担の前に痛みを取るべき債権者や株主が税金によって救われるという歪んだ構図も同じだ。

東電は政治家に多額の献金をし、マスコミにとっても多額の広告料が得られる上客だった。銀行は政党やマスコミに多額の融資をし、多額の広告料も支払っていた。これまた全く同じ構図であり、しかも、これら経費は、後述する総括原価方式の下、すべて国民負担でなされてきたものだ。政治家やマスコミが東電や銀行に甘いのは、こうした利益相反構造が少なからず影響していると考えてよかろう。

銀行は実質的に国民から補助金を受けている

銀行に課された自己資本比率規制は、バーゼルⅢで強化されたとはいえ、せいぜい8~12%程度のものだ。しかも、自己資本比率計算の際に使用される分母は、総資産ではなく、「リスクアセット」と言って、銀行が持つ融資や投資などの資産を、安全性(リスクウエイト)に従って割り引いたものだ。たとえば、日本国債はリスクがゼロだと見なされているし、格付けの高い大企業向けのリスクは非常に低く計算されるため、リスクアセットは総資産より小さな数字となる。結果的に、総資産に対する自己資本(純資産)の割合は一般企業に比べて非常に低いレベルでいいことになっている。

 つまり、銀行は、大半の資金調達を借入(預金を含む)で賄っていることになるのだが、それで利益が出せるのは、信用力があって借入の資金調達コストが安いからだ。なぜ資金調達コストが安いのかと言えば、それは、銀行というものが、「大きすぎて潰せない」、あるいは「地域経済にとって不可欠」ゆえに政治的に守られており、言い換えれば銀行が国による信用補完を受けているからに他ならない。これは銀行の特権と言ってよい。言い方を変えれば、銀行は国民からリスクが顕在化するたびに支給される補助金を受けているのだ。

 銀行のもう一つの特権は、総括原価方式で預金や貸出の金利、あるいはATMや振り込みの手数料を決めていることだ。すなわち、銀行は、自分たち役職員の給料はもちろん、接待交際費、広告宣伝費などを含む経費をすべて消費者である国民に負担させた上で、利益が出る価格設定をしている。これも東電と全く同じだ。

 しかも、バーゼルⅢが施行されてもなお、リスクウエイトを用いた自己資本比率が用いられる限り、本当に資金が必要な企業、つまり信用力は劣るかもしれないが大きな可能性を秘めたベンチャー企業や、日本にとって重要な技術を保有するが財務が必ずしも強くない企業などに対する融資は抑制的になる。こうした企業はリスクウエイトが高いので、リスクアセット(分母)を小さくする効果がないためだ。

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