卑屈になる必要はない

103 (1) 日本人の矜持を忘れるな!

イラクでの人道復興支援の時のことです。

サマワで武装勢力による迫撃砲発射があった直後、サマワの住民たちは日の丸と垂れ幕「サマワ市民と自衛隊で安全な街を再建しよう」を掲げて自衛隊支援デモを行い、自衛隊に花束を届けて「撤退しないでほしい」と訴えました。

このような光景はイラク全土の各国軍駐屯地のどこにも見られないもので、米CNNはこれを全米に報道したくらいです。

自衛隊員はイラクの住民たちと一緒に汗をかき、苦労と喜びを分かち合った。

サマワの部族長は「自衛隊を攻撃する者があれば一族郎党を征伐する」と布告を出しました。自衛隊駐屯地には常に地元住民が笑顔に包まれていました。

そして、自衛隊がいざ帰国する時にはお互いに涙を流して別れを惜しんだくらいです。

大東亜戦争の時のことです。

インドでは日本軍とインド国民軍が共に英印軍(インド人兵士からなるイギリス軍)と戦っていました。光機関(対インド工作にあたった日本の特務機関)の日本人が敵陣へ近づくと英印軍が射撃してきました。するとインド国民軍が日本人の前に立ちはだかり、大声で叫びました。

「日本人を殺すな。我々インド人の独立のために戦っているんだぞ」このヒンズー語の叫びを聞いて射撃は一瞬止みましたが、すぐに射撃が再開されました。すると今度はその日本人が立ち上がって両手を広げてヒンズー語で叫びました。

「同胞を殺すな。撃つならまず俺を撃て。俺はお前達に話に行くところだ。武器は持っていない」
これを見ると、再びインド国民軍兵が日本兵の前に両手を広げて立ちます。この繰り返しにとうとう相手は説得されて、英印軍一個大隊すべて日本軍に寝返った。

イギリスの植民地であったインドでは敵味方に分かれて戦っていたが、インドの人々は一つとなって日本軍に協力したのです。その後、日本は戦争に敗れ、イギリスが再びインドを支配するために攻めて来ましたが、インドの人々は一丸となってこれを追い払い、インドの独立を勝ち取ったのです。

太陽の光がこの地上を照すかぎり、

月の光がこの大地を潤すかぎり、

夜空に星が輝くかぎり、

インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。

(P・N・Lekhi=インド・最高裁弁護士)

日本の教科書では、日本がアジア諸国に対して悪いことばかりしてきたと教え、日本軍は立派であったと語り継いでいるアジア諸国との友好を無にするような教え方をしているのです。

例えば「日本の占領政策は、欧米にかわる植民地支配にほかならなかった」(清水書院)。

しかし、「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本が育んだ自由への炎によるものであることを特に記さねばならない」(インド元国民軍大佐ハビブル・ラーマン)と述べています。

「日本語教育などの政策も進められたので、これらの地域でも抗日運動がおこりました」(帝国書院)。

「私たちはマレー半島を進撃して行く日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、民族の国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのです」(マレーシア元上院議員ラジャー・ダト・ノンチック)

マレーシアで抗日運動を主導していたのは敵国支那の華僑でした。マレーシア王子は国民に日本軍とともに英軍と戦えと言ったのです。

教科書に書いてあることと、当時を知るアジアの方々の声が全く違うのです。

マレーシア独立の英雄ラジャー・ダト・ノンチックが作詞した歌『日本人よありがとう』(作詞 ラジャー・ダト・ノンチック 作曲 田中舘)の歌詞にはこのように書いてあります。


みずからもひもじい時に 配給のわずかなパンを
持ってきてくれた乙女ら ああ日本は美しかった
真白き富士の気高さと 歌う黒髪瞳清らか


空襲のサイレン鳴れば 真っ先に僕らを壕に
案内してくれた若者 日本人はひたむきだった
アジアのための戦いに 力尽くして彼等は散った


戦いに敗れた後の 生きるすべあてない街で
励ましてくれた友らよ 日本人は親切だった
独立のため生き抜けと 握り合う手に涙こぼれた


あの頃は苦しかったが アジアには平和が訪れ
民はみな祖国を持った ああ日本の若人たちよ
こころを継いで暖かく 共に栄える明日に進もう

ああ日本の若き友らよ こころとこころ結び合い
豊かなアジア共に築こう

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