100年前、平和願い戦った日本人

103 (1) 「地中海のへそ」マルタ 

マルタの首都バレッタの高台で港をバックに記念写真を撮る観光客。港には、ヨットや豪華客船が停泊していた

マルタ騎士団が眠る聖ヨハネ大聖堂の内部は、簡素な外観とは異なるきらびやかな装飾が施されていた=マルタ・首都バレッタ

マルタのバレッタの港に停泊する日本帝国海軍の艦隊。地中海で日本海軍が戦ったことは、マルタでもあまり知られていない(マルタ国立戦争博物館提供)

日本から遠く離れた地中海で約100年も前に、平和を願いながら第一次世界大戦を戦った日本人たちがいたことはあまり知られていない。第一次大戦開戦から1世紀に当たるこの夏、彼らの足跡をたどり、「地中海のへそ」と呼ばれる南欧の小さな島国マルタを訪ねた。

マルタの首都バレッタは、高い城壁に囲まれた海に浮かぶ要塞だった。南国特有の強い日差しが肌を焼き、透き通るような青い空と海が広がる。港には、ヨットや豪華客船が停泊していた。だが、100年前には、その平和な港も、軍の艦船でいっぱいだった。

ちょうど100年前に参戦した英国は、ドイツとの戦況が悪化する中、同盟関係を結んでいた日本に地中海への艦隊派遣を要請。日本は1917年に駆逐艦8隻を派遣し、翌18年の終戦までに計788隻の連合国側の輸送船や病院船を護送し兵員70万人を輸送した。

さらに、敵の潜水艦Uボートと35回も交戦し、Uボートに沈められた船からは7000人以上を救出。駆逐艦「榊」は魚雷攻撃で大破し、艦長ら59人が死亡するなどの犠牲者も出した。

「日本艦隊の働きがなければ、英国は苦境に追い込まれていたかもしれない。そうした史実がマルタで知られていないのはおかしいと思い、コーナーをつくった」。要塞内の国立戦争博物館に、「マルタでの日本帝国海軍」のコーナーを数年前に設置したデボノ学芸員(35)は、こう強調した。

当時、艦隊士官として参戦した片岡覚太郎中尉は著書「日本海軍地中海遠征記」で、「わが国も東洋の平和のため、戦争に参加した」と記し、平和を願いながら苦闘する日本人の姿を描いていた。

長い歴史の島 眠る66人の将兵

マルタの港に投錨(とうびょう)する日本海軍の艦船、敵から接収したUボートの甲板に並ぶ水兵たち…。マルタの国立戦争博物館には、そんなモノクロ写真が展示されていた。

英国は当時、同盟国でありながら影響力拡大を図る日本を警戒し、不信感を抱いていた。だが、博物館にあった解説は「日本艦隊の艦船数は最大時には17隻に達し、日本の海上支援の意義を否定する英国の見方は今日までになくなった。日本は大戦で重要な役割を果たした」と評価していた。  日本人水兵たちが眠る旧日本海軍戦没者墓地は、バレッタの港を望む小高い丘にある「英国軍墓地」の一角にあった。

白い慰霊塔には66人の名前が刻まれ、清掃も行き届いていた。第二次大戦の爆撃で破壊されたが、戦後に再建され、今も多くの日本人が訪れるという。昭和天皇も皇太子時代の1921(大正10)年に訪問された。

第一次大戦で戦勝国となった日本は人々に感謝され、戦後はUボート7隻を戦利品として日本まで運んだがその後、米国と衝突。第二次大戦では、かつて共に戦った英国やマルタとたもとを分かち、悲劇への道を突き進んだ。父親の代から在マルタ日本名誉総領事を務めるミフスッド氏(70)は、墓地のほか、日本の士官が足を運んだとされる将校クラブ跡などゆかりの場所を案内しながら、「日本と歴史的なつながりがあるマルタに、もう少し足を運んでほしい」と話していた。

印象的だったのは、バレッタの中心にあった聖ヨハネ大聖堂。簡素な外観なのに、マルタ騎士団の富と力を集めた内部は、驚くほどの豪華さだ。大聖堂博物館のガイドは「マルタは騎士団の所領となり、キリスト教が伝来したことで大きく変わり、独自の地位を築くことができた」と説明していた。

マルタでは、日本の存在感が薄れる一方、中国が電力エネルギーや港湾施設などに投資して急速に影響力を拡大しているという。だが、それも長い歴史の中では、ほんの一瞬の出来事なのかもしれない。

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