10個の時計に救われた命

画像の説明 50代男性

■脱北者の証言:7 男性(50代) 2001年冬に脱北(2002年9月に日本入国)

――なぜ北朝鮮で暮らすことになったのですか。

私が日本から北朝鮮に渡ったのは1972年。姉は昔から真面目で、朝鮮総連の教育を信じていて、学生のときから北朝鮮に行くと決めていたそうだ。北朝鮮はやる気があれば性別問わず勉強ができると信じていた。

脱北者の証言

父母は自分が小学校の時に離婚。自分と兄2人と姉のきょうだい4人は父親の戸籍に入っていたが、父親はばくち好きで家に帰ってこなかった。「北朝鮮に肉親がいるわけではないが、肉親がいる日本でもこんな生活なんだ」と思い、北朝鮮に行くことにした。北朝鮮は社会主義だから、本人が学びたいと思えば勉強できると教えられていたし、それを信じていた。

姉が住んでいた社宅で隣人に、「時計や服の生地を持って行け」と言われたことがあった。そんなものいらないと思ったが、心配したその隣人が無理やり日本の腕時計を10個持たせてくれた。北朝鮮では生活が苦しかったので、時計を売って何とか耐えた。時計がなかったら死んでいたかもしれない。

――それほど大変な生活だったのですか。

目の前で餓死する子どもを何人も見た。自分も生活苦から一家心中を考えたことがある。この先、この国はどうなってしまうのかと暗い気持ちになった。そんなことが続き、2000年ごろ、脱北を決心した。

――脱北は命がけだと聞きます。

脱北したのは01年。中国の吉林省に逃れた。中国で戸籍を買った。兄と2人で約15万円だった。その上でパスポートを申請した。私は兄より1カ月早く、02年9月に日本に来た。

脱北の際に一番怖かったのは、中国に入ってからのことだ。中国側でも朝鮮労働党による家宅捜索があると聞いた。そういう情報が入ると、先に逃げた。中国側の検問を通る時、寝たふりをして何とかやり過ごしたこともあった。半分死ぬことを覚悟していたし、ばれたらすぐにどこかから飛び降りて死のうと思っていた。

■マイナス30度は当たり前 「姉は壊れてしまった」

――北朝鮮での生活について聞かせてください。

北朝鮮に戻った直後は清津(チョンジン、北東部・咸鏡北道の港湾都市)の招待所に滞在した。そこには同じ帰国者が200世帯ぐらいいて、住む地域が決まるのを待っていた。当局が振り分けるのに時間がかかり、結局38日ほどそこで暮らした。私たちは平壌に住むことを希望したが無理で、恵山(ヘサン、北部・両江道の中国国境近く)に行けということになった。

兄は製紙工場で働き、姉は「両江日報」という新聞社で記者見習いとして働きながら、金日成大学の通信課程に入った。恵山は本当に寒いところで、マイナス30度は当たり前。日本で聞いてたことと、まったく異なる世界だった。

――生きていくだけでも大変な環境ですね。

北朝鮮に着いて2年して、姉は壊れてしまった。もともと姉は一番上の兄ととても仲が良かったが、精神を病んで兄を憎むようになった。ある時、姉の日記が家の洗濯機の下から出てきたことがあった。そこには「自分の兄は本当の兄じゃない。日本で整形手術を受けて兄になりすましているスパイだ。そんな偽の兄が祖国に来てスパイ行動をしている」と。入退院を繰り返し、姉は結局亡くなった。

――どうやって生計を立てていたのですか。

機械の設計事務所で働いていた。3年くらい働いた後、自主的に機械工場へ転職した。金日成の教えで「今後の祖国の教えを担う若者が前線に進出して、祖国を建設しないといけない」とあったので、それに影響された。

当時、設計事務所にはノルマがなかった。設計図を1枚描こうが10枚描こうが給料は一緒。だが、工場は自分の仕事を頑張れば、それだけ給料がもらえた。だから選んだ。周りからは「なんでわざわざつらい職場に行くんだ」と言われたが、自分は「金日成の教えを行動に移すのみだ」と胸を張っていた。

そこで妻となる女性と出会うことになる。妻も金日成による「社会主義大建設」の一環で、専門学校生の身分でありながら工場で働いていた。私は労働党員になるため、1日18時間働いたこともあった。

■「10年間監視してたんだぞ」 誤解で12時間暴行も

――思想統制はありましたか。

中朝国境に住んでいたので、中国から流れてくるものがあった。日本の映画、高倉健が出ている映画なんかも見た。中国のビデオを入手した当局の人間が、見る施設がないものだから私たちの家で一緒に見たこともあった。

各地域には(国家安全)保衛部という役人がいる。変なものを持っていないかということで、たまに書物や家にあるものをチェックするために家宅捜索をしていた。それ以外にも、帰国者は盗聴器などで監視されていたようだ。実際に盗聴器を見つけたことはないが、後々保衛部の人間に「今だから言うけど、お前らを10年間監視してたんだぞ」と言われてぞっとしたことがあった。

――強制収容所について知っていたら教えてください。

直接見たことはない。帰国者がまず周りの人から言われるのは、「保衛部に注意しろ。自分の主張をしちゃダメだ。強制収容所に行ったら終わりだ。あそこに行ったら出てこられないぞ」ということ。

実は自分も保衛部に捕まったことがある。90年代、北朝鮮の若い女性を中国に人身売買をしたと誤解されて捕まった。手を縛られて、夜7時から翌朝の7時まで若い男6、7人にずっと殴られた。その男たちは工場が自前で持つ自警団のような組織の連中だった。

殴られ終わった後、私は保衛部の指導員に「うちの住所を教えるから自宅に行ってみろ。人身売買をしていたら裕福なはずだ。うちは犬小屋よりちょっとましな程度だ。近所の人にも聞いてみろ」と言った。保衛部が家の周りで聞き取りをして誤解が晴れた。釈放されたが、やつらは謝ることもなく、「あんた、このことは誰にも言うなよ」と口止めされた。

■他国の支援物資が闇市へ

――社会環境は変わらず推移したのですか。

金日成の時代はちゃんと配給があった。それが、金正日になって、だんだん滞ってきた。1995年ごろから配給制が崩壊したのではないか。働いても給料が出なくなった。給料が出ないため、私なんかは職場が機械工場だから部品や金属を盗んで売って生活していた。目の前の物を売ってでも生き延びようと。

――北朝鮮の今後について思うことはありますか。

北朝鮮では、「日本は軍事政権を再生しようとしている」と言われていた。一方で、北朝鮮で災害があって、日本から支援物資が来た時は小さくしか報じない。闇市で売られていた米が入った袋には、日本語で「支援物資」と書かれたものや、韓国語で「水害に遭われた皆様へ」と書かれていたものもあった。

――南北統一を望む声もあります。

いますぐ統一したら、韓国の人間と北朝鮮の人間に圧倒的な格差が生まれる。(格差を埋めるには)これから何世代にもわたって時間がかかると思っている。

第一、韓国にしてみれば統一するメリットがない。まずは、北朝鮮の経済を発展させて、韓国に肩を並べるぐらいにならないといけない。そうでなければ、戦争を起こすくらいしか統一の方法はないのでは。

韓国が金を出して、経済支援をしてできるだけ北朝鮮を発展させればいいが、金を渡しても全て幹部の懐に入るだけ。北朝鮮の政治制度が変わらないと、どうにもしようがないのが現状だと思う。

■もっと早く脱北していれば……

――いまの日本での生活に満足していますか。

一応満足している。言いたいことを言い、貧しいながらも自由だ。人間並みの生活が出来ている。

息子2人は日本に来て3カ月後に仕事をさせた。言葉は何もわからなかったが、無理やりにでも働かせた。自分がいなくなったら息子たちは生きていけなくなるから、鍛えておかないといけないと思ったんだ。

やはり、北朝鮮で育った人間は「主体思想」を誤解して、民族第一主義になってしまっている。「自分は間違っていない。自分は利口だ」と思い込んでいる。

息子たちも最初のころは仕事がうまくいかず、「俺は一生懸命やっているのに俺だけ怒られた。怠けているやつより給料が安い」とよく言ってきた。私は「そうじゃないんだよ」と教えた。

息子たちは何度も仕事を変えたが、いまは「ようやくおやじの言っていたことがわかった」と言ってくれている。2人とも飲食店の立派な正社員だ。

――日本に戻ってきたことについては。

日本に戻ってきたのは良い決断だったと思う。ただ、もっと早く来るべきだった。脱北したのは息子たちが20代の時。もっと早く日本に来て、日本の学校に通わせていれば、日本社会に早くなじむことができたのではないかと。

次男は北朝鮮の特殊部隊にいて、実は「俺は北朝鮮でいくらでも生きていける。脱北しない」と言っていたんだ。最初は日本にもなじめず後悔したと思う。いまは脱北して良かったと思ってくれているが。

――日本政府に望むことはありますか。

欲を言えば、日本政府が脱北者を難民として見て、もう少し国で保護、面倒を見てくれたらと思う。

ただし、脱北者の中にもピンからキリまでいる。いい若い者が脱北して6年も7年も生活保護を受け続けるといったようなことがあると、政府としても支援しにくいと思う。国民の反対もあると思う。

これからは、私たちの子どもや孫の時代だ。兄の孫は小学校の低学年だ。その子は幼いころに脱北してきたから日本になじめている。

だが、兄の息子、私の息子の世代。その世代がちゃんと稼げないと孫たちにも教育も受けさせてあげられない。せめて、私たちの次の世代が生きていきやすい世の中をどうつくるかについて、日本政府がもっと関心を持ってくれるといいのだが。

     ◇

〈主体(チュチェ)思想〉 人間がすべてのものの主人だという原理のもと、「政治の自主、経済の自立、自力防衛」などを目指すとし、北朝鮮で「唯一思想体系」と位置づけられる。中ソ対立の激化とともに、両大国の間で生き残りを図る過程で1967年前後から唱えられた。金正日(キムイルソン)氏が体系化し、97年に亡命した黄長燁(ファンジャンヨプ)元朝鮮労働党書記が哲学的に整理したとされる。72年の社会主義憲法は「マルクス・レーニン主義をわが国の現実に創造的に適用した思想」とした。

北朝鮮の一人独裁政治、個人崇拝の正当化に利用された。人間のアイデンティティーは生物学的なものと政治的なものがあるとし、後者は北朝鮮指導者によって与えられると教えた。また、北朝鮮は94年7月、金日成国家主席が生まれた1912年を主体元年とすると発表し、現在もこの年号を使用している。

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