終戦の日と「靖国」

桔梗  いつまで論争続けるのか

■この時代に「軍国主義」とは

毎年、この時期になると、さきの大戦で戦陣に散った人々を偲(しの)ぶ物語がメディアを賑(にぎ)わす。いつの時代になっても、国のために命をささげた人たちのドラマには胸をうたれる。

≪歴史認識は入り込めぬ≫

その東京・九段の靖国神社ではきょう、多くの人が亡き父、夫、兄弟の霊にぬかずき、国に殉じた人たちに哀悼の誠をささげる。

今の時代、「死者との対話」は静かに行われるべきだ。歴史認識や外交上の配慮、政治的な思惑など入り込む余地はない。

中国や韓国は、日本の指導者の参拝を容認しない。「日本の軍国主義が行ってきた侵略戦争の象徴」(秦剛・中国外務省報道官)だという。念頭にあるのは、いわゆるA級戦犯の合祀(ごうし)だろう。だが、首相はじめ日本国民が靖国に詣でる目的は、ただ戦没者への哀悼の表明である。

靖国に祀(まつ)られることをひたすら念じて逝った人々が、残した家族と「再会」できる唯一の厳粛な場を、「軍国主義の象徴」と糾弾する-。この大きすぎる認識の差こそが靖国問題の本質だ。

靖国の杜(もり)には、ふだんから参拝客が訪れる。そういう人たちの何人が、合祀の是非論や歴史認識を意識してお参りするだろうか。参拝した人自身が自問すれば、答えはおのずと明らかだろう。

毎年7月の「みたままつり」には、大勢の若い女性が浴衣にうちわという姿で訪れ、女御輿(みこし)が露店の参道を練り歩く。「軍国主義の象徴」などとは無縁の光景だ。

安倍晋三首相は昨年暮れに参拝した際、「戦犯崇拝という誤解に基づく批判があるが戦争で人々が苦しむことのない時代をつくる決意を伝えるため」と内外に説明した。残念ながら中国や韓国の納得は得られなかった。国民はいいが、指導者は許せないということだろう。

同盟国の米国も「失望」したという。日本の首相が参拝すること自体への不快感ではなく、中韓の反発による東アジア情勢の不安定化への危惧ではあろう。

「中国は歴史問題を日本批判の材料に使う。罠(わな)にはまってはいけない」(ハーバード大、ジョセフ・ナイ教授)という忠告もある。責められるべきは罠をかける方だ。不当な批判を恐れていては、先方に屈し続けることになる。

≪理解は得られつつある≫

徐々にではあるが、変化は生じてきている。

ことし5月、シンガポールでのアジア安全保障会議で講演した安倍首相は、中国側出席者からの質問に答え、靖国参拝について「国のために戦った人たちの冥福を祈るのは世界共通のリーダーの姿勢だ。(戦後の)日本は平和国家として歩んできた」と強調して、大きな拍手を浴びた。

首相は集団的自衛権の行使容認が閣議決定された直後の先月、豪州を訪問した。アボット首相は「日本は戦後ずっと本当に模範的な国際市民だった。過去ではなく現在の行動で判断されるべきだ」とわが国の歩みをたたえた。

来年は戦後70年を迎える。歴史認識についても、再検討されるべき時だろう。中国、韓国、そして日本国内の一部の人たちは、「戦後秩序への挑戦」などと非難するが、先日の朝日新聞の慰安婦報道に関する検証はどうだろう。

世論をリードする有力なメディアの記事が虚構であったという事実は、内外で広く流布されてきた「歴史認識」の見直しが必要であることを示している。根拠のない記事は、靖国に祀られている戦没者を含む多くの日本人を貶(おとし)めることになりかねず罪は重い。

靖国論争も、そろそろ終止符を打つ時にきているのではないか。中国や韓国は、かたくなな態度をとり続けるのではなく、日本人の心情を酌み、理解してほしい。

安倍首相は、きょう参拝するかどうか、明らかにするのを避けている。見送るなら外交的配慮による苦渋の決断だろう。天の時、地の利、そして人の和が備わる時まで信念を持ち続け、再びそれを実現してもらいたい。

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