原爆投下

画像の説明 長崎への原爆投下の当初の目標地点は小倉

8月9日は、長崎に原爆が投下された日です。
はじめに、長崎での原爆投下によってお亡くなりになられたすべての御霊にご冥福をお祈りしたいと思います。

また8月9日はソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州、北鮮、樺太、アリューシャンへの侵攻を開始した日でもあります。
今日は、そのなかで長崎への原爆投下について書いてみたいと思います。

長崎に原爆が投下されたのは、昭和20(1945)年8月9日、午前11時2分のことです。当時の長崎市の人口は24万人でした。そのうちの14万9千人の長崎市民が、一瞬のうちに燃やされてしまいました。

この長崎への原爆投下についてですが、あまり知られていないことに、この日の当初の原爆の投下目標地点が福岡県小倉市(現:北九州市)であったことがあります。

この原爆投下のために米軍が飛ばせた飛行機(B−29)は6機でした。別々に飛び立ったB−29は、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。ところがエンジンにトラブルが発生し、そのうちの2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達したのです。
ところがその2機のB−29は、小倉への原爆投下を断念して、目標地点を、第二目標の長崎市に切り替えてしまいました。

なぜでしょうか。
ここに歴史を学ぶための重要なポイントがあります。

飛来したB−29に対し、小倉造兵廠にいた陸軍の守備隊が、果敢に高射砲で応戦したのです。そのあまりに激しい応射に、B−29は爆弾投下目標の目視ができなくなってしまったのです。それでもB-29は、45分かけて目標地点補足を3度やり直しています。けれど、3度とも失敗してしまう。

そこへ陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきました。このためB−29は、小倉への原爆投下を断念して、目標地点を第二目標の長崎市に切り替えざるを得なくなってしまったのです。

なぜこのことが重要なポイントなのかといいますと、その理由は3つあります。

ひとつは、当初の目標地点が小倉市であったことです。
小倉市の当時の人口は30万人です。その小倉は、長崎以上に平野部が広がっています。つまり遮蔽物がありません。そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域、および関門海峡を越えて対岸にある下関市までに被災が広がっていたはずなのです。ということは、被害規模は推定で瞬間の死者だけで30万人以上となります。その後の被爆による死者も10万人以上に至ったであろうといわれています。ぞっとします。

ふたつめは、日本側の抵抗です。
北九州の陸軍小倉守備隊が、猛然と必死の高射砲での応戦をしたのです。
このためにB-29は、原爆投下のために必要な高さに高度を下げられない。また猛烈な弾幕とそによる煙幕で目標地点を目視しようにも目標物が見えなくなりました。

基本的に日本の軍隊は、物資が不足する中でめくら撃ちのような速射はほとんどの場合しません。それが弾幕と煙幕で、上空からの目標地点捕捉ができなくなったほどの応射をしたというのは、当時の陸軍が、どれだけ危機感を持っていたのかがわかります。わずか3日前に広島に原爆を落されていたばかりなのです。

さらにそこへ陸海軍の戦闘機が飛来しました。
おかげでB-29は、小倉を去り、小倉から下関一帯は被爆被害に遭わずに済みました。

軍事的脅威に対して「抵抗力を持つ」ということが、いかに国を護り命を守るか。
このことは私たちは、原爆という実際の被害を受けた国の国民として、しっかりと認識すべきことだし、学校でも子供たちにしっかりと教えるべきことと思います。

みっつめは、情報戦争です。
あとに書きますが、長崎ではたいへん不幸な事態が重なり、十分な抵抗ができないまま原爆被害を受けてしまっています。長崎への原爆投下について、戦後宣伝されたデタラメの中に、「長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」「大本営は、B29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置していた」というものがあります。まったくの妄言です。

どちらも、日本の無能、もしくは大本営の無能として形容され、宣伝されたものですが、残念なことにいまだに、それを真実と思い込んでいる人が多数います。けれども、経過をみれば、その宣伝が、事実と事実を巧妙に繋ぎあわせた妄言にすぎないことが、はっきりとわかるのです。

小倉上空を離脱したB−29が長崎上空に達したのは、小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後の午前10時50分のことです。この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。積雲は分厚い夏の雲です。これがあると上空を飛ぶ飛行機の姿を地上から見ることができません。

つまりB−29は地上からは発見されないまま、長崎上空に達したのです。
発見されていませんから、当然、地上からの反撃もありません。ところが同じことはB-29の側にもいえたのです。B−29は、第二目標の長崎上空に達したことは機内での計算によってわかっているものの、原爆投下の目標地点の目視ができなかったのです。
つまり、そのままでは、原爆の投下ができない。

ところがそこに不思議なことが起こりました。
空を分厚く覆っていた積雲に、切れ目が生じ、そこから地上の様子が見えたのです。眼下に長崎の街並が見えました。そこでB−29は「手動操作で」原爆を投下しました。

投下したのが午前11時1分です。
放物線を描いて落下した原爆は約1分後の午前11時2分に炸裂しました。炸裂した場所は、長崎市街中心部から3kmそれたそれていました。雲の切れ間からの手動操作による投下であったためです。

そして原爆は、長崎市松浦上地区中央にあったテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。
長崎に投下された原爆の威力はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)です。これは、広島に投下されたウラン235型原爆の1.5倍の威力のある爆弾でした。

この炸裂によって、長崎市の浦上地区はほぼ完全に瓦礫の平原となり、一瞬で町に住む14万9千人がお亡くなりになりました。広島よりも威力の大きな爆弾で、広島(人口20万人)よりも死傷者が少なかったのは、爆心地が市街中心部から多少それたことと、長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。

それでも約15万にものぼる死者が出ました。
では、長崎では、なぜ空襲警報や応射が間に合わなかったのでしょうか。

硫黄島を出たB29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来しました。
わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりでしたから、長崎でもB−29の飛来に、午前9時には警戒警報を鳴らして市民への警戒を呼びかけていたのです。

ところがそのB−29は、9時44分に小倉に現れました。そのため長崎では午前10時過ぎには、警戒警報の解除を行っていたのです。そのためいったんは防空壕に避難した長崎市民も、日常の生活に戻っていました。

ところが小倉での爆弾投下に失敗したB−29は、次の目標地点である長崎に進路を変えたのです。
この日、北九州から長崎までの空は、ぶ厚い積雲が覆っていました。ご存知の通り、積雲は真夏の雲です。たいへん厚みがあります。高高度を飛行すB29は積雲の上を飛んでいます。ですから地上からその姿は見えません。Bー29の側も、ぶ厚い雲で地上の目視ができません。

そこで乗員のひとりが航法士に、「現在地はどの辺りか」と尋ねました。
このとき、答えようとした航法士が、誤って内線用のインタホンのスイッチと無線スイッチを取り違えて返事をしてしまったのです。このため、無線通信が外に洩れました。よほど慌てたのでしょう。これに慌てた操縦士が運転を誤り、あやうくもう一機のB−29と空中で衝突しそうになっています。

その無線を、鹿児島沖で、作戦からはぐれて迷子になって飛行していた別なB-29がキャッチしました。そのBー29は、突然はいってきた現在地を知らせる僚機の無線に、「チャック、いまどこにいる?」と音声無線を返しました。これが午前10時50分頃の出来事です。

この無線通信を、日本側も傍受しました。
ほんの一瞬の無線漏洩ですが、その一瞬のやり取りで、日本側通信傍受隊は、ひとつが鹿児島沖からのもの、もうひとつが長崎方面と場所を特定しました。そしてすぐに長崎に警戒を呼びかけたのです。

知らせを受けた長崎市は、すぐに空襲警報を鳴り響かせました。これを聞いたら、市民はなにはさておいても防空壕へ避難することになっています。
いつもなら、これだけの対応なのですが、広島の原爆投下で甚大な被害を受けたばかりのできごとです。軍と市は一緒になって、空襲警報だけでなく、ラジオの臨時ニュースでも長崎市民への緊急避難を呼びかけました。

ラジオからは、「長崎市民は全員退避せよ。繰り返す。長崎市民は全員退避せよ」という声が繰り返し流されたのです。そしてその臨時ニュースの声が「総退避・・・・」と言ったとき、原爆が炸裂し、ラジオの音声は無変調になりました。
それが午前11時2分の出来事です。

8月9日の長崎への原爆投下のあと、8月15日には終戦、そして8月29日には、米軍の日本上陸が開始されました。上陸した米軍は、広島、長崎の被災地に入って調査活動を行っています。8月の末のことです。長崎では、被災して亡くなった人たちの片付けが行われていました。

そこで、米軍の従軍カメラマンの、ジョー・オダネルが撮った一枚の写真があります。
それが下の写真です。

一枚の写真0809

この写真について、オダネルは、次のようにコメントしています。
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佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。

少年の様子はあきらかに違っていました。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。足は裸足です。

少年は焼き場のふちまでくると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしました。少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。

白いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。私は、背中の幼子が、すでに死んでいることに気づきました。

男たちは幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がりました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。

その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気づきました。
少年があまりにきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。
背筋が凍るような光景でした。
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唇を噛み締め、不動の姿勢をとる少年の心に何があったのか。

そして、長崎の原爆投下までの空襲警報の流れや、当時の小倉市の陸軍基地や陸海の航空隊の奮戦。
そしてそれらを嘘とデタラメにすり替えていた戦後左翼の策謀。

私達は、そこから何を学ぶことができるのでしょうか。

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