規定違反、消された運行の歴史

ぶた 『ごちそうさん』は本当だった、

大空襲の夜に救援電車が走った…

死者・行方不明者が1万5000人にも上った大阪大空襲直後の旧そごう百貨店周辺。近辺の地下鉄心斎橋駅から「救援電車」が走った

戦争や大災害は、あまたの人々の命、平穏な暮らしを奪う。歳月の経過とともに社会の記憶は風化しがちだが、遺族の悲しみ、当事者のさまざまな思いは、決して消えることはない。日本は来年、第二次大戦の終戦から70年、阪神大震災から20年を迎えるが、終戦当時10歳だった人は80歳になり、新成人は阪神大震災後に生まれた世代だ。読者の体験証言を募り、後世に語り継ぐ新企画「記憶の中に」。初回はその導入として、大戦末期の大阪大空襲の際、市民の命を救った「救援電車」の話から-。

「あの夜、地下鉄が走ったという正確な記録は残っていない」

大阪市の中心市街地が焼き尽くされた昭和20年3月13日深夜から14日未明にかけての大阪大空襲。前作のNHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」で、一つのエピソードが物語に織り込まれた。

《火の手に囲まれる中、大阪市職員として市営地下鉄建設に携わった夫、悠太郎の「地下鉄に逃げれば安全だ」というアドバイスを思いだし、駅員に頼み込んで心斎橋駅に避難したヒロイン、め以子たち。命からがら逃げ込んだホームに、この時間運行しているはずのない電車が入ってきて、め以子らを比較的安全な梅田方面へと運んだ-》

大空襲のさなか、市民の命を救った「救援電車」。市交通局の広報担当者は「あの夜、地下鉄が走ったという正確な記録は残っていない」と話すが、近年の調査で、実際にあった出来事だったことが明らかになった。

地下鉄に入れ!

交通局職員の労働組合の関連機関、公営交通研究所が平成10年にまとめた調査結果に、救援電車に関する証言がまとめられている。

「(空襲で逃げ場がなくなり)『もう、あかんね』と顔を見合わせたとき、煙の中から『命が惜しかったら地下鉄に入れ!』と何度か呼び声がした」
 熱風と火の粉が舞う中、心斎橋駅に逃げ込み、救援電車で梅田に向かったという別の女性は「交通局の当時の方々のおかげで今、元気に過ごしております」と回顧。「地下鉄は救いの神」という声もあった。

当時は、空襲時に市民を地下鉄の駅構内に避難させてはならないという決まりがあった。理由について、交通局の担当者は「地下鉄駅はもともと避難先として想定されていたが、東京大空襲で地下鉄のトンネルが破壊されたことで、やはり構内を使わない方がいいということになったようだ」と説明する。大阪大空襲の4日前に起きた東京大空襲では、10万人以上が死亡したとされ、東京の下町などが焦土と化した。

地下鉄は深夜から未明にかけて電気が止められていたため、通常なら電車を走らせることはできない。だが、地下鉄に電気を送る変電所職員の証言などによると、当夜は「特別な指示」があり、終電後も電気が送り続けられていたという。

残念ながら運行に関する資料が残っていないため、どの時刻に何本が走ったのかや、運行のきっかけが職員の機転だったのか市民の要請だったのかなどは定かでない。資料は終戦直後、軍の指示により焼却処分されたという。地下鉄駅に市民を避難させること自体が規定違反となることが影響したのか、運行が語り継がれることもなかった。

失われてなかった助け合いの精神

それでも、凄惨(せいさん)な状況の中で救援電車が避難者を乗せて走ったことは、半世紀のときを超えて史実として浮かび上がった。それを可能にしたのは、関係者らの数々の証言だ。証言がなければ、救援電車の存在は歴史から忘れ去られていた。

非常時でも、冷静な判断と助け合いの精神が失われなかったことを示す逸話は、後世に生きるわれわれの心をも打つ。同時に、歴史を語り継ぐことの大切さを感じさせられる。

都市防災などに詳しい関西大社会安全学部の越山健治准教授は「過去の教訓を知ることは、将来起きる可能性がある災害にどう向き合うのかを考える上でも非常に重要だ」と指摘する。

戦争や大災害の記憶を、世代を超えてどう残していくのか。戦後70年、阪神大震災から20年を迎えようとしている今こそ、向き合うべき大きな課題でもある。大阪大空襲 第二次大戦末期の昭和20年3月から8月にかけ、米軍が大阪市域を中心に8回にわたって行った大規模な無差別爆撃。小規模なものも含めると、空襲は約50回に及んだという。

最後の大空襲は終戦前日の8月14日。死者・行方不明者は計約1万5千人にのぼった。3月13~14日の第1回空襲が最も被害が大きく、約4千人が死亡したとされる。

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