30代女性

雲ひまわり 「中国に行きたくないか」声かけられ決意 

■女性(30代) 1998年春に脱北(2002年に日本入国)

北朝鮮では、どんな暮らしでしたか。

両親は日本生まれの帰国者で、北朝鮮で結婚。両親と姉2人の5人家族だった。豆満江(トゥマンガン、北東部のロシア国境付近)の近くに住んでいた。仕事は4年ほど農業に従事し、白菜やキュウリなど野菜を作っていた。休みは10日間に1日。正月には、友だち数人と写真を撮りに行ったこともあった。娯楽は市場を歩き回ることだった。

特集・脱北者の証言

1997年に食べ物がなくなり、すごくやせてしまった。父親が畑に植えた種にんにくを引き抜いて「いいから食べなさい」と言ってくれた。父は、その年に栄養失調で亡くなった。翌98年には食べ物が本当になくなり、生活が苦しくなった。もう北朝鮮にいても未来がないと思って脱北を考えた。家族で一番早く98年に脱北し、中国人と結婚。その後、母、姉妹も脱北した。

――脱北の経緯を教えてください。

姉が市場でブローカーから「中国に行きたくないか」と声をかけられ、自分も一緒に行こうと思った。市場でブローカーが女性に声をかけることはよくあった。近所の若い女性たちも次々にいなくなっていたので、みな売られたのだとわかっていた。結局、姉は病気の母の面倒を見るために残り、自分が一人で脱北することになった。中国人と結婚させる人身売買だとうすうすわかっていたが、生き延びるために他に手段はないと思った。

ブローカーは自分も密告されるのが怖いので、市場などで女性に声をかけて合意すれば、家族に別れのあいさつをする時間も与えずに連れて行く。実際、あとで姉を脱北させたブローカーはその後、公開銃殺されたと聞いた。自分は病気の母親に相談したいと言って、家に帰る時間をもらえた。ブローカーに「病気のお母さんに金を渡す、仕送りもできる」と言われて決めた。実際は、お金は渡されなかった。

4月の雪解け水に、胸の深さぐらいまで川につかって渡った。そこから黒竜江省まで行き、朝鮮族の男性と結婚した。近所には、同じようにブローカーに連れられてきた脱北者の女性たちが妻として10人ほどいた。自分以外はみな、逃げたのかわからないが、いなくなった。

中国でも生活は苦しいし、愛情があって結婚したわけではないので理解できる。自分は脱北してきた母も迎えて中国の家で一緒に暮らしていた。中国公安の見回りと北朝鮮への強制送還が怖くて、靴を履いて寝ていた。母が中国から赤十字に手紙を出したら返事が来て、日本大使館の人に迎えてもらうことができた。父が日本人だったことが証明できたのが決め手だった。

◇「豆腐を食べる人は恵まれた人」

北朝鮮での生活で印象に残ったことは何ですか。

とにかく食べ物がなかったこと。食べることが好きだったのに、おなかいっぱいに食べたことがなかった。お正月だけはトック(雑煮)をつくったが、肉は入っていなかった。印象に残っているのは、父が飼っていたウサギの肉をちょっと食べたこと。

賄賂はずっとあった。米は賄賂のうちに入らず、たばことかお金が有効だった。大学に合格するためには賄賂、軍隊に行きたくないときも賄賂だと聞いた。金額はよく知らないが、親戚が日本から送ってもらったお金でそうしたと聞いた。

女性の地位が低く、食事も男性家族と一緒にしないぐらいだったが、90年代後半に食料が不足し、女性も働いて食料や生活必需品を手に入れるようになってから、ようやく地位が上がってきたように感じる。

90年代には配給があった。毎月15日か10日、日付を決めて2回、配給をもらっていた。けれど、経済的に厳しくなってからは、半年に1回とか3カ月に1回になった。トウモロコシが主食だったが、食べ物がだんだん少なくなってくる。最初は7対3で米とトウモロコシだったのが、食料事情が厳しくなると雑穀でもなくなり、とったままのトウモロコシで石も入っているようなものになった。米より長い米の代わりの「アラミ」も配給された。配給する食べ物が足りなくて、外国からの救援物資だと思う。

配給所という建物があって、配給票をもらって行くとそこでもらえる量が書かれた票を取り、受け付けをする。配給をもらえる場所は別に横にあって、そこで物資を袋に入れてもらう。肉はまったくない。市場で大豆を売っていたり、個人的に豆腐を作る家が農村にあったりするのだが、豆腐を食べる人は恵まれた人だった。しょうゆ、みそ、油は1本だけで、金日成誕生日とか、金正日誕生日、国慶節などの時だけ(配給して)もらえた。厳しくなってからは、それもなくなった。塩はあった。粉唐辛子、キムチ、白菜などは職場の人たちで分ける。農業をしていたときは、畝(うね)を分けて、工場ごとに分担して職員に植えてもらったりした。

料理やオンドル暖房に必要な石炭や薪(まき)も配給だったが、それも90年代に入ってから徐々になくなった。山に行って、薪を切ったり、トウモロコシの芯を燃やしたりしていた。病気の父親も枯れ木を集めにいっていた。枯れ木を集めて燃やして料理したり、温めたりしていた。山の多いところは、ジャガイモを作っている村が多い。交通手段はなく、徒歩か牛か、リヤカーで行く。自動車は工場にあるぐらい。ガソリン不足だし。

◇白いカーテンがついた、ピカピカの金正日専用列車

強制収容所について見聞きしたことはありますか。

あれは強制収容所の人ではなかったか、と思ったことが1回ある。母親と歩いていたら、軍人に囲まれてしゃがみこんで畑の雑草取りをしている人たちがいるのを見た。10人ぐらいで、立ったらたたかれていた。服は薄い水色っぽいボロボロの統一服で、ひざが出ていた。頭は全員そっていて、男性だったと思う。あまり見ていてはいけないと思って、よく見なかった。

いわゆるロイヤルファミリーについて話を聞いたことはありますか。

金正日が乗っていると言われた特別列車が通るのを見たこともある。白いカーテンが全部ついていて、列車自体がピカピカで速かった。それを1度見たぐらい。穏城(オンソン、咸鏡北道北部)というところに別荘があり、そこに遊びに行った帰りだと言われていた。何にも感じなかった。金正日はやりたいことはやるんだろうと思った。スケジュールは秘密で、後で報道されるようだった。

北朝鮮に残してきた家族との連絡はどうしていますか

母の兄弟がいる。韓国からは手紙を送れないが、日本からは手紙のやりとりをできるのがよい。金日成の時代に、朝鮮総連の役員たちが北朝鮮訪問をするなど、力があったためと聞いた。総連の人たちはほとんど北朝鮮に誰か親戚がいる人が多い。脱北者から手紙をもらってもそんなに問題にならない。自分はもともと大阪に母のいとこがいて、その人の名前で残った家族に送っていた。最初は間接的に送っていたのだが、何回かやるうちに直接やっても大丈夫になった。ハングルでも日本語でも書くけれど、8割ぐらいは中身を見られていると思うので、悪口や「日本に来て」などとは書けない。

電話は盗聴される可能性もあると思って、なるべくしないようにしている。国際郵便局から電話すると3分で1万円ぐらいかかる。着信払いで電話がかかってくることもある。

◇日本の生活「脱北して中国に行ったときより苦労」

日本での生活に満足していますか?

満足はしていない。思ったよりも苦しい。北朝鮮で総連幹部の話を聞いていたので、日本にいる人はみなお金持ちで、日本は天国だと思っていた。日本に行けたら、もう人生幸せになれると思っていたが、そうではなかった。

仕事を続けたいという気持ちはあるが、税金などが高い。私たちは荷物一つ持たずに日本に着き、お金も職業も言葉もゼロで始まった。脱北して中国に行ったときよりも苦労した。飲食店で毎日12時間以上働きながら、小さな子どもたちのことをほったらかして、今までやっている。

日本に来たことは、よい決断だったと思う。人生が転換する機会だった。そのまま北にいたら、今ごろもう生きていなかったと思う。結婚もしていなかったと思う。自分は餓死するのだと思っていた。

南北統一が実現したら、格差は生まれると思いますか。

人々の自由にするのが一番だと思う。どう稼ぐか、自由になればアイデアもわくし、何をするべきか世界を見る。北朝鮮は中国、ソ連、韓国、日本と交流できるいい場所にあるので、それを利用できればよいと思う。

子どもの未来のために、小さい子どもがいる親には経済的な支援をもらいたい。生計を立てるのに精いっぱいで、休日もなく店をやっているので子どもと一緒にいる時間がない。韓国では、脱北者が自立して自営業をすると、国から支援がもらえると聞いた。

故郷に帰りたいと思いますか

統一されたら、故郷に戻るというより、一度ぐらいは訪問してみたい。何より父や祖母のお墓参りに行きたい。日本で生まれた祖母や父こそ、日本に戻りたいと思っていたはず。でもきっと、「お前たちだけでも先に行ってくれ」と願ってくれていたと思う。友だちや一緒に暮らした村の人も懐かしい。日本に来てから一度だけ、ふるさとを見たことがある。中国人の夫の里帰りのとき、夫と子どもを連れて、豆満江が見える中国と北朝鮮の国境に電車で行った。国境警備兵が止めたけれど、対岸が見える場所まで行った。昔と変わらない道が見えた。子どもたちは北朝鮮のことは知らない。足元に深く積もった雪で遊んでいた。

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