日本人の底力

th (4) 終戦直後という時代と日本人の底力

闇市

戦争で国土が焼け野原となり、終戦の玉音放送が流れ、米軍が日本に上陸し、日本がGHQによって占領され、東京裁判が開かれ、一方で外地(海外)にいた600万人の日本人の復員が行われ、街には闇市が出来、5年後には朝鮮半島で戦争が始まった時代。つまり、日本が占領下に置かれていた昭和20(1945)年から27(1952)年までの時代というのは、どういう時代だったのでしょうか。

一般にはこの時代は、とても暗い、混沌とした時代として描かれることが多いようです。けれど日本人は、そんなヤワな民族ではありません。実はとてもたくましい。

戦後、焼け野原となった日本の都市では、戦時中には多くの人が山間部に疎開していました。戻ったところで、焼け野原なのです。何もない。市場もなければ、仕事もない。なにせ焼け野原なのです。

けれど、瓦礫の山となったところは、やはり片付けなければならないし、ですからポツポツと人々は、まずは子供たちを疎開先に置いたまま、大人たちだけが帰ってきて、片付けを始めました。けれど焼け野原です。そこには食べ物がありません。そこで食べ物を少し多めに持ってきて、これを駅前などで売ると、ひどく高値で売れた。

そうしてだんだん都市部にやってくる人々が増えてくると、そこに闇市が立つようになります。
はじめのうちは、野天です。衣類もない時代ですから、地方にいって衣類を仕入れ、それを市で売ると、仕入れ値の10倍くらいの高値で売れる。なので、焼け残った岐阜の方まで出かけて衣類を仕入れ、これを街中で売ると、仕入れた衣類がまたたく間に売れました。衣類や食料を、地方から担(かつ)いで来て都市部で売るので、こうした人たちを「かつぎ屋」と呼びました。

戦後に生まれて、いまでは大手スーパーとなっていたり、大手衣料品販売店となっている会社の多くは、こうして当時、かつぎ屋をして財をなした人たちで、この頃の思い出話を聞くと、「とにかく人手が足りないので、外地から帰ってきて職を求めている若い人や、おっちゃんなどを、どんどん採用した。儲かってしかたがないから、いまで言ったら4〜5万円くらいのお金を日当で払ってあげた。連中はそのお金をもらうと、すぐに売春宿に通って遊んでた」そうです。

衣食住といいますが、とにかく衣類も、食べ物も、住まいも何もないのです。ですから衣類や食料はどこかから調達しさえすれば、飛ぶように売れたし、住まいはたとえ仮説のバラックでも、建ててあげさえすれば喜ばれたから、仕事はいくらでもありました。

衣類はかつぎ屋さんたちが運んで来ましたが、食については、たとえば米軍の残飯を片付けるゴミ処理業者は、その残飯をバケツに入れて煮立てて、これを茶碗に一杯いくらで売りました。なかには軍用のアルマイトの洗面器をどこかから大量に調達してきた人がいて、その洗面器にうどんを入れて煮込みうどんにして売った人もいて、これは腹一杯食えるということで評判になり、当時、オンボロ屋台で洗面器うどんを売っていたお店は、いまでは名店となって高級洗面器うどん料理店になっています。

住まいは、瓦礫を片付けて、そこに建てるのですけれど、瓦礫の片付けやバラックの家の建築には、人手がいります。そういう土方さんたちを束ねる大工の親方は、腹巻きにいつも札束を差し込んで、仕事が終わると毎夜人夫さんたちを連れて、呑みに出かけて豪遊しました。

この時代、日本人の独身で結婚適齢期の若い男たちは、戦争でその多くが死んでしまっていて、適齢期の男女の人口差が5倍くらい開いていました。
ですので、女性はよくモテたし、男性はお目当ての女性をめぐって、日常的に喧嘩が絶えない。
外地からも、若い人がたくさん復員してきましたし、酒を飲んでは酔っぱらって繁華街(といってもドヤ街ですが)そこで喧嘩が絶えない。

そうすると自然発生的に自警団のようなものが生まれ、腕に覚えのある若者は、いまで言ったら警備業のようなカタチで、ドヤ街の治安にあたったりもしていたわけです。
とにかく誰もが生きるのに必死だったし、なんにもないというとこは、モノさえ調達すれば売れて大もうけできたということだし、誰もが必死だったということは、それだけたくましかったわけです。

一方、終戦後に大暴れして迷惑をかけたのが、朝鮮人でした。

彼らは、戦前に職を求めて日本本土にやってきた人たちでしたが、日本人の若者が徴兵されて外地行ってしまったため、日本人の労働力が不足し、そのすき間に日本で雇われていたわけです。

彼らには徴兵がなかったし、やってくるのは主に若い連中でしたし、終戦の2ヶ月前になって、やっと朝鮮人にも徴兵が行われるようになりましたが(当時の朝鮮人は日本人です)、ところがその頃には、もう日本は制海権を失っていましたから、外地に派遣されることもなかったわけです。つまり徴兵はされたけれど、国内で銃の撃ち方などの訓練を受けただけで、戦場にはまったく行っていない。

ところが戦争が終わって日本人の復員が始まると、言葉が通じず、我がままなばかりで仕事のできもよくない朝鮮人を雇っている理由がなくなります。
日本人が復員してくれば、その日本人を雇う。
すると朝鮮人たちは仕事がなくなるので、盛り場に集まって大暴れして日本人から金をカツアゲする。

復員してきた日本人の若者たちは、たいていは田舎に帰って農業をしたのですけれど、朝鮮人たちは田舎(朝鮮)に変えれば白丁(ぺくちょん)です。つまり奴隷階層として差別される。日本にいれば、人として扱ってもらえる。ただ職がないだけですけれど、働かなくても徒党を組んで日本人からカツアゲすれば、いくらでも稼げれたし、とにかく若い男女の人口差が激しいので、日本にいたら独身男性としてモテまくりです。そりゃあ、朝鮮半島に帰りたいなど、夢にも思わない。

このあたりも、家族や実家、田舎を持たない朝鮮からの渡来の人たちと、とにかく仕事はいくらでもあるのだから、みんなで復興のために力を合わせて働こうとする日本人との間に、なにやら大きな違いがあるようです。

そこに昭和25年になると、朝鮮戦争が勃発します。半島から、難民となった人たちがたくさん、日本に流れてくる。ところが来ても住むところがない。
そこで、前から日本にいて愚連隊となっていた朝鮮人の若者たちが、祖国から来た人たちのためにと、日本人の土地で、そのころになってもまだ疎開先から戻ってきていない人たちの土地や、闇市に近い駅前の一等地のようなところに、勝手に縄を張って、その土地を自分たちのものに勝手にしてしまいました。

とにかく登記所も焼かれてしまっているのです。土地の所有を証明するものがなにもない。
近所の人たちも焼け死んでいるようなところでは、その土地が誰の者かわからないので、彼らはそこを暴力で勝手に奪い取ってしまったわけです。

路上での朝鮮人たちによる強姦事件も日常的に行われていました。日本の警察官たちは勇敢に立ち向かったのだけれど、当時の日本人警察官には、拳銃の所持も警棒の所持も認められていません。つまり警官の制服を着ているだけで、素手です。

ですので、そういう警察官たちを朝鮮人たちは舐めてかかかり、集団で襲っては暴行を加えていました。それでも勇敢に不正を許さずに取り締まる血の気の多い署長、つまり真面目で熱心な署長さんのいる警察署は、焼き討ちにあって警察署ごと丸焼きにされたりしています。

一方、昭和24年4月には、それまで1ドル4円程度だった円とドルの交換レートが、GHQによって強引に1ドル360円と決められてしまいました。
もともとの両替相場は、明治の頃には1ドル=1円だったのです。
それが高橋是清財政によって、円が増刷され、1ドル=4円くらいになり、日本の輸出産業が急伸したりしていたのですが、これをGHQは、なんといきなり360円にしてしまったわけです。

こうなると大喜びだったのが、日本にいる米兵たちです。
末端の米兵の給料は、いまでいったら月10万円程度の安月給だったのですが、ところがそれが一歩、米軍基地の外に出れば、日本円で90倍になるわけです。つまり、日本国内でなら、月給900万円もらっているのと同じことになる。

要するに米兵たちは、これによって末端の兵士のひとりひとりが、まるで王侯貴族のような大金持ちになったわけで、そういう米兵たちをパトロンにして稼ぐ女性たちも出てきたため、彼らは、本国にいればただの貧乏な若者でしかないのだけれど、日本にいたら大金持ちです。しかも日本国内は、戦争で男女の人口差があったから、女性の数がとにかく多い。こうして米兵たちは、夜な夜なパーティを開き、モテモテ生活をするようになるわけです。

その米兵を相手に商売をする女性たちも、大もうけします。なにせ為替相場が90倍なのです。
彼女たちは、お金がありますから、高価な買い物をします。すると高級品も売れるようようになるから、それまでは生活必需品しか生産でなかった日本の産業界が、国内に高級品高額品市場が開けてきて、モノ作りが盛んになる。

ところがこうして生まれた日本の高級品は、品質がよくて、加えて1ドルが360円という超円安です。
同じ高級品が、日本製というだけで90分の1の値段です。つまり、おなじものを、米国の90分の1の値段で造ることができるわけです。
対外輸出ですから、輸送料は高くつくし関税もかかるけれど、それでも日本で米国での必需品や高級品を造って米国で売れば、飛ぶように売れる。儲かる。

米兵のなかには、そうしたことにさっさと気付いて、日本人の彼女の通訳で日本人の工場主と仲良くなり、米国本土の業者と連携して、大もうけをする者も出てきます。そうするとますます日本の製造業者の需要が伸びるから、これが日本の輸出産業として短期間に育っていきました。なにせ為替相場のおかげで、円はドルの90分の1なのです。

実は、ここが大切なポイントです。
いま、1ドルが360円という超円安になったら、経済界は大混乱してしまいます。
それが1ドル4〜5円だったものから、いきなり360円になったのです。これはもう大混乱どころの話ではありません。

けれど、そのことが輸出産業には良いということはご理解いただけると思います。
ところがその輸出が、米軍が日本に大量にいたために、海を渡る輸出だけでなく、米兵向けの内需、そして米兵とつながる日本人の需要にも貢献したわけです。つまり米国の一部が日本にあったために、超円安が国内でも良い影響となったわけです。というか、日本人はそれを「良い影響」に変えてしまった。ここが日本人のすごいところです。日本人がそうしてしまったのです。

ちなみに、なぜ1ドル4円だったのが、いきなり360円になったのかですが、諸説ありますけれど、要するに実態は、円は○(マル)の意味で、○(マル)は360度だから、360円にした。実に乱暴な話ですが、おかげで日本は内需を含めた輸出産業が急進し、これが戦後復興に大きく貢献してくれたのは事実です。

一方、こうして日本が経済力を回復し、さらに昭和27年には、朝鮮戦争対策の一環として、日本に主権を回復させ、日本の軍を朝鮮半島に派遣しようと目論んだ米国によって、日本は主権を回復し、占領統治から(すくなくともカタチの上では)脱出します。

朝鮮戦争は、昭和25年から28年まで続きますが、そもそも日本の主権回復の話が持ち上がったのは昭和26年、つまり朝鮮半島で南朝鮮が、北朝鮮によってほぼ制圧されかかっていた頃の話で、なんとしても勝たなければならないと危機感をもった米国が、戦争で自国民を殺すよりも、代わりに日本人を戦地に送り込もうとしたのがきっかです。

ただ、こうした米国の目論みは、米国が日本の占領統治のために日本に与えた日本国憲法の9条によって、もろくも粉砕され、結局、サンフランシスコ講和条約を結んでも、日本は朝鮮戦争に参戦しませんでした。おかげでこの時代の、日本人の適齢期の若者たちは、戦争をしないで、せっせと子づくりに励みました。
日本では、団塊の世代が猛烈な人口をもっていますが、その団塊の世代が生まれたのが、まさに朝鮮戦争の時代であったのは、そういう理由です。

戦争直後の時代というのは、とても暗い時代というように、妙に描かれる傾向のある昨今の日本ですが、実は、日本人の庶民は、どんな時代にあっても、どんな苦境にあっても、まじめだし、たくましい。
貧しいからと犯罪や暴行に走るのではなく、貧しいからこそ、努力し、平和を求め、みんなが協力しあってたちあがる。

明治維新のときも同じでした。
西欧の巨大な植民地経済の経済力、軍事力の強さに比べたら、日本は超貧乏国です。そこから立ち上がった。日清、日露の戦争も、軍事力のみならず国力自体が、相手国にはるかおよばなかったけれど、それでも日本人はたちあがりました。
そして終戦直後の日本は、世界の最貧国といって良い状態だったけれど、これさえも跳ね返して日本は立ち上がっています。

そういう日本人の本来持つたくましさから比べたら、平成の日本の元気のなさは、長い日本の歴史のなかでも特筆ものです。これほどまでに元気のない日本というのは、もしかしたら有史以来はじめてのことです。

ではなぜ昔の日本がたくましく、いまの日本が元気がないのでしょうか。
その答えが、国のカタチそのものにあります。

もともと日本は、庶民を「おみたから」とする庶民が主役の国です。
政治は常に庶民のために行われてきたし、庶民のもつダイナミックなエネルギーと政治が、常に共存してきたのです。
そしてその中心となるのが、天皇という存在でした。
政治よりも上位にある天皇が、庶民を最大の「たから」と定義しているのです。
であれば、政治は庶民のためのものでなければならない。

ところが平成日本にある一般的な概念は、天皇を否定し、政治と庶民は対立し、闘争するものという考え方です。

天皇の存在がなければ、庶民がたからものという概念は存在しません。すると政治が権力となり、庶民のためといいながら、庶民から収奪するだけの存在とみえてくる。するとその政治をこきおろし、敵対し、バカにする評論家が世間から絶賛される。敵対し、バカにすれば人気がでるわけですから、そういうところにはもともと反社会的、反日本的な渡来系の人たちが容易に入り込む。そして政治と庶民の対立があおられる。その一方で、何かあると、庶民も評論家たちも政治に甘えようとする。

今回の大型台風は沖縄を襲いましたが、平時にあっては日頃「自衛隊出てけ」といっている反日左翼たちが、いざ被災者となると率先して「自衛隊助けてー」と言い出す。

そういう節操のなさを、平気でできるような「人非人」が、社会の中心のような顔をして威張っているわけです。まるでどこぞの国の李氏朝鮮の時代と一緒です。

政治が変われば日本が変わると思っている人が多いです。そういうことを反日メディアや左翼がしきりに煽っています。けれど、実は違います。「政治が」ではないのです。政治も庶民も一体である以上、ともに協力し共同し合うところに、はじめて「良い変化」があるのです。

その日本には、天皇という存在があります。そして庶民が天皇のおおみたからとされてきたのが日本です。
ですから庶民と天皇と政治は、つねに国として一体でした。だからこそ日本の庶民は、その計り知れないダイナミックなエネルギーを、常に「良い方向へ」とチェンジすることができてきたのです。

政治主導の国の代表例とえいえば、崩壊したソ連や、中華人民共和国、あるいは北朝鮮や韓国です。
けれど政治主導というものが、現実にそれらの国の庶民の暮らしを良くしてきたかというと、全然そうはなっていません。結果として政治権力者が肥え太っただけです。

天皇が政治権力をふるわずに、庶民を「おおみたから」とする体制、その体制の凄みは、実際に政治が機能しなくなった戦後の焼け野原の時代が見事に証明しています。
日本は政治力ではなく、庶民のエネルギーが、国を復興に、そして発展に導いたのです。

日本人をバカにし暴力で支配しようとする朝鮮人や、1ドルの為替相場を360円などというとんでもないものにした米軍がいたけれど、そうしたすべてのマイナス要素を跳ね返して奇跡ともいえる復興を遂げたのは、日本の政治家ではありません。天皇を尊敬する戦前の教育を受けた日本の庶民です。

日本を取り戻すというのは、日本的なそうした、なにものにも負けない、どんな苦境にあっても強く生き抜く日本的マインドを取り戻すことです。

日本の庶民が日本に誇りをもち、日本を愛し、同じ日本人としてみんなが立ち上がったとき、日本は変わる。

それがシラス国日本の、日本人の底力となるのです。

コメント


認証コード4825

コメントは管理者の承認後に表示されます。