「俺は中国から脱出する!」

画像の説明 ある中小企業経営者の中国撤退ゲリラ戦記

低コスト生産の魅力が減退する中国。現地に進出する日本企業なら一度は撤退を考えたことはあるだろう。だが、現実を知って愕然とする。「撤退したくとも撤退できない」からだ。

撤退コストを算盤で弾けばざっと1億円、董事会(取締役会に相当)もなかなか首を縦に振らなければ、手続き関係もややこしい。中国の動画サイトでは、日本人経営者が中国人の工員に吊るし上げられ、土下座して謝っているシーンが流れる。となれば、結論はこうなる。

「じっとしているのが一番だ」―――。

だが、「ここに居続けていいのだろうか」という思いも払拭できない。中国はもはや低コスト生産の適地でもなければ、ハングリーな労働者が集まる拠点でもなくなった。日本の、とりわけヒト・モノ・カネにも限度がある中小の製造業にとっては、これ以上赤字を垂れ流している場合ではない。では、どうしたらいいのだろうか。

1通のメールをいただいた。メールの主は撤退に成功した日本人経営者だ。そこにはこう書かれていた。「中国からの撤退には秘策があります」――。筆者は早速、この人物を訪ねた。なお、匿名を希望されているため、ここではA社長と呼ぶことにする。

物は盗む、仕事はしない…
撤退の動機は「我慢の限界」

首都圏で自動車部品の製造を手掛けるA社長の会社B社が中国に単独出資で進出したのは2001年にことだった。13年前、中国は「世界の工場」として脚光を浴びつつあった。4000万円を投じて、2000坪の土地を購入、そこに工場建屋を建築した。安価な人件費で製品を加工し日本に輸出、そこから欧米に販売するモデルは、この中国沿海部を舞台に急速に発展し、売上もうなぎのぼりに上昇した。

B社はいわば日本の町工場に過ぎないが、それだけに身軽さがあった。A社長は自ら現地に乗り込み、代表権のある董事長となり、すべての株を掌握する形を取ることでスピーディな事業展開を可能にした。従業員もピーク時には85人を抱え、「このまま行けば長者番付に名前が出るかも」、そんな本気ともつかない冗談すら出るほど、現場は好回転した。

当初は名実ともに“家族”だった現地従業員

本社社長室の壁には、中国の地方紙が額に入れられ掲げてあった。よく見るとそこには若いA社長が映っていた。中国で小学校を建設する希望工程への寄付が取り上げられたのだ。「地元密着型の企業を目指す――」、新聞はこの現地法人のそんな前向きな取り組み姿勢を紹介していた。

A社長にとって、中国の従業員は名実ともに“家族”だった。従業員の個人的なトラブルのみならず、その家族まで面倒をみた。盆暮れの労いや病人の見舞いなども決しておろそかにはしなかった。おかげで十数年も共に働く「老員工」(古株)にも恵まれた。B社は地元が誇る唯一の日本企業でもあった。

それから12年が経った昨年末、A社長はある大きな決断をした。それは中国からの撤退だった。「我慢の限界」――それがA社長の偽らざる心境だった。

「物は盗む、仕事はしない。(月給が)10元違えばよそに行く」と、農村出身の従業員にはほとほと手を焼いた。10年前はハングリーさと手先の器用さが評価された中国の労働者たちも、昨今は「80后(80年代生まれの若者)は1時間で辞職する」など、質の劣化が進んでいる。日本で採用し一人前に育てたはずの人材も、中国に赴任させれば一人の例外もなく会社の金を使い込んだ。

人件費、原材料費が上がり出した中国のビジネス環境は、2000年代初期とは明らかに違うものになっていた。ふたを開けてみれば、コストは進出当時と比べ5割も上昇していた。急成長した中国での事業だったが、振り返れば2005年をピークに徐々に成長の鈍化が始まっていたのだ。

中国に拠点を置く意味は次第に薄れた。むしろ中国からの出荷体制を維持することは、個別の受注に即時対応できないというチャンスロスにもつながった。「気がつけば3割の客を逃していた」とA社長は語る。

「撤退しない限り、赤字を垂れ流すことになる」

すでにこのとき、A社長を支配していたのはこうした強い危機感だった。「撤退するなら今しかない」と腹をくくった。

撤退を正攻法でやっても埒が明かない

中国から撤退するには、会社自体を解散する清算や破産以外に、合弁パートナーに自社持分の譲渡をするという方法が採られることが多い。いずれのケースも董事会での承認が必要となるが、そもそも中国人役員らにとっては職を失うことにもなりかねず、なかなか彼らは首を振らない。

中国ではよく台湾人が“夜逃げ”という手段を選ぶが、それにはもっともな理由がある。つまり、撤退を正攻法でやっても埒が明かないのである。

しかも、「撤退させたくない」のが地元政府の本音だ。「はい、そうですか」とハンコを押してくれるわけがない。

かくなる上はゲリラ戦法
“風林火山”を地で行く

だが、A社長には“秘策”があった。言ってみれば「ゲリラ戦法」である。その戦術はまさしく、武田信玄の風林火山だった。

「疾(と)きこと風の如く」は「スピード」を、「徐(しず)かなること林の如し」は「隠密裏に行動」、また「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」は「勢いを持って団結を解く」、「動かざること山の如し」は「決意を翻さない」というのが、中国撤退のキモなのである。

A社長はまさにこれを地で実践した。決行日は2014年5月5日。この日に向けて昨年後半から、着々と手を打ち始めた。

迷ったのは、この計画をまず誰に打ち明けるか、だった。隠密裏に行動しなければならないとはいえ、決行には仲間が必要だ。「金を積まれればなんでもしゃべってしまう連中、そこは警戒した」とA社長、だが意外にも腹心を得ることに成功する。

力になってくれたのは、皮肉にも地元政府に勤務する5人の友人だった。日頃の腹を割ったつきあいがこのとき活きた。協力的な中国人弁護士も現れた。“中国流ゲリラ戦法”を示唆したのもこの弁護士だった。

現地法人は存続させ「董事長が交代」

撤退計画の第一歩を踏み出すには、大義名分が必要である。企業が撤退すれば、地元の税収にも雇用にも影響する。基本的に撤退を承諾したがらない地方政府に、いかにしてそれを認めさせるかだ。

それには「現地法人を存続させる」という前提が必要だ。そこで有効なシナリオは、「A氏は現地法人の董事長を退任するが、後継者がいる、すなわち現地法人はなくならない」という絵図を描くのが理想となる。しかも、退任理由はA社長個人の「体調を壊したので日本で入院する」。これなら地元政府も文句は言えまい。

A社長はまずは関係当局に出向き、「体調を壊しこれ以上事業が継続できない」と訴え、「自分は退任するが、新しい社長がいる」と伝えた。A社長にとっては事実上の撤退だが、地元政府にとっては“代表者の交代”だと理解させたのだ。しかし、水面下でA社長は、中国人新社長と“工場売却の密約”を取り交わしていた。

他方、新社長はこれまでとは異なる新事業を立ち上げるため、社名変更と営業許可証の申請が必要となった。この営業許可証の取得は難儀で、たいてい書類はたらい回しにされ時間ばかりが過ぎて行く。これがうまく行かないと、A社長の計画も水泡に帰す。だが、これもA社長の“友人”が裏で手を回し、ものの数時間で許可が下りた。

Xデー目指し一気呵成に決行
「今日から新しい董事長になるCさんです」

「撤退決行Xデー」は5月5日に決めていた。もともと中国では3日間の連休だったが、従業員には連続して6日の長期休暇を与えた。その間、A社長は工場の機材や私物を運び出した。手助けしてくれたのは、地元の“威勢のいいお兄ちゃん”たちだった。彼らはこの休日中に40トントラックを運転し、5人の人足とともに工場にやってきた。

設備や機械などは分解し、これをトラックに搭載した。エアコンなどの室外機も近所から専門業者を探し出し解体させた。金属なども溶接機で切って鉄くずにし、十把一絡げで投げ売りしたが、それでも手元に100万円が残った。5月4日にはこの工場はすっかり「もぬけの殻」状態になっていた。

翌日、何も知らされていない従業員はいつも通り出社した。だが、なぜか工場にはカギがかかっている。案の定、「どうしたんだ!どうしたんだ!」と大騒ぎになった。

カギを握る従業員の補償問題

撤退関連の費用は50人程度の日系企業でも1億円と言われている。だが、それらのうち大部分は、協力者を動かすための必要経費だともいえよう。それをどれだけ圧縮できるかは経営者本人の手腕にかかっている、というわけだ。

たとえば、A社長が協力を得たのは5人の役人だった。普通ならばひとり100万元(約1600万円)はかかるだろうが、これを一切ナシで済ませた。A社長は言う。

「撤退がらみで、多少の食事代の出費はしましたが、それを除けば一銭も使いませんでした」

最後に力を貸してくれるのもまた中国人
「平和裏に話し合いで」は通用しない

A社長にとって最後に残る関門は、どのように利益を中国から運び出すか、であった。これはまさしく進行中であるので、成功を待ってから機会を改めてお伝えしたい。

さて、この撤退劇は、「スピード」そして「隠密裏に行動」、さらに「勢い」が成功を導いた。これらは、本人が「何としても撤退する」という強い意志を持つことで成就したと言える。「風林火山」はもともと孫子の兵法の一説であり、現代中国のビジネス社会でも有効な戦術。A社長は無意識のままにこれを実践していた、というわけだ。

日本人はとかく「平和裏に話し合いで」と、相手も自分も傷つかない方法を選びたがるが、ひとたび国境を越えればこんな甘い話は通用しない。「入郷随俗」(郷に入れば郷に従う)は中国に来た日本人が一番初めに刷り込まれる格言だが、このとき日本人は「ここでは日本の常識は通用しない」ことを悟る。これは撤退においても十分に通用する道理であり、強引にでも自分の決めた結論に向けて突進するしかないのである。

B社の事例は、日本の中小企業が独資で進出した場合の撤退事例であり、すべての日本企業に当てはまるわけではない。それでも他社にとっても教訓になるのは、「最後に協力してくれるのも、やはり中国人」だということだ。

その協力者を日頃から育てていたのがA社長だった。もちろん当初からこの「撤退劇」を想定していたわけではないが、結果として人脈が生きた形になった。撤退成功のカギは「中国人の仲間」だ。「金銭なしに動いてくれる中国の仲間」さえいれば、脱出作戦は半ば成功したと言えるのではないだろうか。

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