七夕

画像の説明 七夕といえば、ご存知の通り、織姫と牽牛が一年に一度、天の川を渡って逢うことが許された日です。

これは、梁の時代の殷芸(いんうん)の書いた物語で、概略以下のものです。

天の河の東に織女有り。天帝の子なり。
年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。
天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。

嫁してのち機織りを廃すれば、
天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、
一年一度会うことを許す。

なぜこのような物語が生まれたかというと、旧暦の7月はじめ、これはちょうど、いまでいったら8月半ばのお盆の頃にあたるのですが、この時期、琴座のベガ(織り姫星)と、鷲座のアルタイル(彦星・牽牛星)が、天の川を挟んでよく光ることから、このような物語になったとされています。

この物語が、奈良時代に日本に伝わり、実はここからがとても面白いのですが、これが日本の古くからある「棚機(たなばた)」と呼ばれる神事と重なることで、いまの「七夕(たなばた)」となりました。

棚機(たなばた)というのは、古代から伝わる日本独自の禊ぎ(みそぎ)のための神事です。
秋の収穫を前に、選ばれた乙女が「棚機女(たなばたつめ)」となって、禊(みそぎ)をして穢れ祓ったあと、水辺に設置された機屋(はたや)にこもり、そこで機織り(はたおり)をします。

乙女が機屋の中にこもって縦糸と横糸で「布」をつくるわけですが、このとき使われる道具が「棚機(たなばた)」です。
できあがった反物(布)や着物(地域によって異なる)を神様に奉納し、そこに神様をお迎えし、村のみんなで秋の豊作を祈るわけです。

布は、もともとは野原に生えている麻などを伐(き)って乾かし、そこから繊維をとって糸にし、その糸を織ったり編んだりして布にしていきます。
日本では、福井県の鳥浜貝塚などから約8000年前の布が出土していますが、要するに縄文時代から布が使われていたわけで、当時は自給自足ですから、布も村の中で、それこそ草から繊維をとり、糸にして布にするところまで、村落内で行われていました。

ですから一枚の布でも、それは母たちが心をこめて作ってくれたとても貴重で大切なものです。だからこそ神様に、いの一番に捧げて感謝をする。そういう風習が古い時代から定着したのです。

実は、このように一枚の布に対してでも感謝の心を持つという文化は、征服し征服されるという文化のもとでは、絶対に育ちません。

なぜなら、権力者(支配者)は、他所から布でも衣類でも、武力をもって収奪してくれば足りるからです。収奪するところに、感謝の文化は育ちません。
つまり、布は、あるのがあたりまえで、不足すれば奪えば良い。布は感謝の対象ではなく、収奪による戦利品としての富の証へと変化するわけです。

ところが日本というのは、旧石器、縄文、弥生、大和、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和、平成と、ずっと時代が連続し、太古の昔からの文化が、そのまま持続している国です。ですから、古代からの気風がそのまま残る。
つまり、糸でも布でも、それを苦労して作っていた時代からの気風が連続しているから、そこに時代を超えて、変わらぬ感謝の心を持つわけです。

ただの一枚の布でも、あるいは道具としての茶碗やお皿、あるいは大工道具や刀剣類までも、そうした道具のひとつひとつに神様が宿ると考え、ものを大切にする文化を日本が持つということは、それがはじめて作られた原初の時代から、日本が他所の国や民族に征服されることなく、何千年も前からの古くからの文化をずっと大切に保持してきているからです。

つまり、日本は「歴史が連続している国」であるということなのです。

その日本に、織り姫と牽牛の故事が伝わったのは、6世紀の仏教伝来の頃であったとされています。
男女が一年に一度出会うという物語は、とてもロマンがありますし、牽牛は農業の神様でもあります。
そこで渡来仏教側では、民間に古くから定着していた棚機の行事を、「お盆にご先祖の御霊を迎える準備」に変換して、神事の棚機と同じときに、これを行うようにしていきました。

ちなみに昔は旧暦ですが、7月7日というのは新暦ですとだいたい8月15日のお盆の頃にあたります。

それで7月7日の夕方に、ご先祖の御霊をお迎えするから、これを漢字で「七夕(しちせき)」と書きました。ところが、日本古来の神事では、この日は「棚機(たなばた)」の日です。
それでいつしか「七夕」が「たなばた(棚機)」と呼ばれるようになりました。

つまり、「七夕」と書いて「たなばた」と、あり得ない読み方になってるのは、実は、もともと「棚機(たなばた)」という神事が古くからの日本にあって、これが渡来仏教と入り交じった、つまりもとからある行事に、後から別な漢字が当てられたからだ、ということです。

このように、まったく異なるものが、渾然一体となって、最後にはみんなが楽しむ「七夕祭りのお祝い」に昇華してしまうというのは、まったくもって実に日本的な話といえます。

なぜならこうした展開は、こだわりが強くて排他的な一神教的文化、つまり、ひとつの価値観しか認めない文化のもとでは、否定され、起こりえない出来事だからです。

この七夕に関連した、有名な和歌があります。
大伴家持の歌で、

鵲(かささき)の渡せる橋に置く霜の
白きを見れば夜ぞ更けにける

という歌です。
この歌は百人一首にも選ばれているのでご存知の方も多いかと思いますが、ここでいう「かささぎ(鵲)の渡せる橋」というのが、七夕のことです。

鵲(かささぎ)というのは、カラスに似た鳥で、カラスは全身が真っ黒ですが、カササギは、白黒の柄がはいっています。
このカササギが、織り姫と牽牛が年に一度天の川を渡って出会うというときに、どこからともなく集まってきて、隊列を組んで天の川に架かる橋になります。
織り姫と牽牛は、このカササギがつくってくれた橋を渡って、年に一度出会うわけです。

この歌の解釈は、偉い大学教授さんの書いた解説書などをみると、「かささぎが連なって渡したという橋のように白く霜が降りている。もう夜もふけてしまったのだなあ」のような意味の歌だとされているようです。
けれど、その解釈は、どうみてもおかしいです。

というのは、カササギが橋をつくるのは、旧暦の7月7日、いまの暦でいったら8月15日頃の真夏の出来事です。
そんな真夏には、たとえ夜といえども、霜は降りません。霜が降るのは冬です。

ところが、この歌は、七夕にカササギが作る橋に霜が降りている、というのです。こんなことはあり得ません。ということは、解釈自体が間違っている、ということです。

実は、この歌の季節は、冬なのです。
冬だから、霜が降る。
けれど、冬でも、真夜中すぎになれば、天空には夏の星座が浮かびます。
つまり、織り姫星も、彦星も出てきます。

この歌を詠んだ大伴家持は、いまで行ったら自衛隊の幕僚長か防衛大臣、旧軍なら大本営の参謀長のような立場の人でした。

その大伴家持は、白村江の戦いの後、いつ唐や新羅の連合軍が日本に攻め込んでくるかわからないという危機感の中で、本土防衛のための兵役から兵站、防衛ラインの制定から、武器の調達、訓練内容の選定などなど、ありとあらゆる可能性に対処するために、まさに毎夜、夜中過ぎまで仕事をこなしていたわけです。

そして帰ろうとして庁舎を出ると、あたりには、もう真っ白に霜が降っている。ほとんど冬景色です。
ところが空を見上げると、そこには満天の星、しかもその星座は、夏の星座です。
その夏の星座に浮かぶ、織り姫星と彦星の出会いのために架かるカササギたちが連なる橋は、まるで隊列を組んだ軍隊の行軍のようでもあります。

祖国防衛のために、軍の総責任者として夜半過ぎまで働く大伴家持にとって、そのカササギたちの隊列を組んだ姿は、祖国を守るために出征する兵士たちの姿に重なったことでしょう。

織り姫に代表されるのは、機を織る女たち、彦星に代表されるのは、農業を営む男たちです。

その男と女、つまり民衆を守る。
そのために命がけで軍の組成や兵站や武器の手配や教練にあたる。その企画をする。そんな大伴家持の姿を詠んだのが、実は、この歌に込められた意味となります。

わたしたちの国日本は、そうやって大昔から、持続し、連続している、世界でも希有な国です。
その日本を守る。

自衛権は、憲法以前に、世界中どこの国にも、そしてどんな人にも備わった自然権です。
日本が憲法で戦争を放棄しても、戦争は日本を放棄してくれるわけではありません。

そうである以上、日本単独でも自衛権は発動するし、日本単独ではなく、他の諸国と力を合わせて非道と戦い、身を守る。それが集団的自衛権です。
これを否定するということは、むしろ戦争を誘発することになる。

なぜなら、戦争は軍事バランスに強弱がついたときに、起こるからです。

世界の歴史は、強い者が弱い者を攻め滅ぼして財産を横取りしてきた歴史です。
日本は真逆で、強い者が弱い者を守ってきた歴史を持ちます。

日本こそ、強い武力を持たなければならない国なのです。

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