喧嘩にならない

画像の説明 文化論は喧嘩にならない

八雲立つ出雲八重垣妻籠みに

よくいく、ある保守系の集い。集まる皆さんは、それぞれが一国一城を成した大物さんたちばかりで、どなたも一家言を持っておいでの方々です。実績もあり、プライドも高い皆様ですが、集まりでは毎度、憲法は破棄か改正か、議会におけるヤジは必要か不要か等々、政治談義となると微妙な点で議論になり、ときに激高し激論になることもしばしばです。

なにぶんご高齢なので、血圧は大丈夫かと、はたで見ていて毎度心配になるのですが、閉会してみれば、さっきまでの激論などなかったかのように、穏やかに談笑がはじまります。
そういう姿を見ると、「ああ、日本人なんだなあ」と思います。

ところが先日、この会にお伺いしたときには、これが全然、議論にならない。
いつもの怒りの感情ではなく、笑顔と喜び、ワクワクする高揚感のある会となりました。
なぜそうなったかというと、議論のテーマが「日本文化の素晴らしさ」であったからです。

とかく政治の話は、不条理への怒りが話の基点になりがちです。けれども、日本文化論は、喜びや尊敬が話の基点になる。だから喧嘩にならない。

考えてみると、たとえば日教組なども、トップにいる凝り固まった反日連中というのは、どうしようもないウシハク阿呆ですが、下々で現場を預かる先生方は、ただ騙されているだけで、本当は子供達が大好きだし、いつまでも平和な国でいたいし、教育への情熱を持った人たちでもあるわけです。

そういう誠実を、左翼は利用主義的に利用してきたわけで、これは赦せないことですけれど、逆にいえば、そうした左翼的呪縛が解ければ、現場の教師達はまたたく間に正常化していく。
なかには、どうしようもない凝り固まった阿呆もいるかもしれませんが、全体として本来の日本人としての歴史と矜持を取り戻すことには、そこに感動があるし、感動は人を動かすし、子供達にも良い影響が生まれるわけです。

目先の不条理に対して反応的に敵対することは、もちろん大切なことです。おかしな連中を野放しにしておくことは、これは放縦であって、世の中を貶めることになります。そういう者は断固排除していかなければなりません。

けれど、そうした戦いと同じくらい、もしくはそれ以上に、日本的文化や本来の日本人的価値観を取り戻して行くことは、とっても大事なことと思うのです。そしてそこには喜びがあるし、目からウロコがはがれ落ちるような感動もあります。

「嘘も百回言ったら本当になる」という言葉がありますが、そうは思いません。嘘は百回言おうが、千回、万回言おうが、嘘は嘘です。真実には、千万回の嘘を、一瞬にして崩壊させる力があります。

たとえば、昔の和風住宅では、台所は陽のあたらない北東に置かれました。
これを左翼は、「女性の働く台所をそういう陽のあたらない場所に置いたのは、男尊女卑であり、女性蔑視の名残である」などと言います。まったくもってバカな話です。

そもそも昔は冷蔵庫がなかったのです。
そういう時代に、食料がすいたり痛んだりしないようにするためには、できるだけ風通しがよくて冷安場所に食料を保存しなければなりません。
ということは、陽のあたる東も南もダメです。西陽のあたる西もダメです。
となれば、北側に食料の保管場所を置くしかない。
そうなると、風通しを考えれば、朝日が入り、食料保管場所にも近い北東に台所を置くのは、実に理に叶ったことであったわけです。
そうでなければ、買ってきた食料がみんな腐ってしまうのです。女性蔑視どころか、これは生活の知恵です。

女性といえば、そもそも日本の最高神は天照大神様で、女性です。縄文時代の土偶も女性です。「妻」という字は、支那で生まれた象形文字では、もともと女性が髪の毛の中に手を入れている姿をあらわすもので、音読みは「sai」ですが、訓読みでは「つま」です。

「つま」というのは、「つ」が「連なる(つらなる)」意で、「ま」は、「身(み)」が転じたもので、もともとも意味は「連れ身(つれみ)」で、男女を問わず配偶者をあらわします。

八雲たつ出雲八重垣妻籠みに
八重垣作るその八重垣を

この歌は、八俣大蛇(やまたのおろち)を退治して櫛名田姫(くしなだひめ)を得た須佐之男命(すさのおのみこと)が、新婚の宮を造ったときに詠まれた歌で、ここに出てくる「妻」が、我が国の「妻」の字の初出です。

歌の意味は、「雲が涌きいでる地といわれる出雲の地で、瑞兆である八色の雲が涌きいでたので、そこに二人で暮らす新居を構えることにした。新居には誰もはいってこれないように、幾重にも垣根をめぐらしたよ。もう二人きりだよ」といった意味になります。

結婚の式を済ませ、ようやく二人きりになり、さあこれから愛し合おうといった、若さと情熱と愛が見事に詠み込まれた歌になっています。

ここでいう「妻」は、女房のことを指すわけではありません。「つま」は、あくまで「つれあう身」ですから、二人でひとり、男女でひとつ、といった夫婦和合の意味合いの言葉です。
つまり、夫婦間において、男女は「対等」なのです。その「対等」というのは、互いの違いを認め合いながら、相互補完しあい、かつ自分も成長していこうという概念です。

要するに、男が上とか女が上とかいうのではなくて、男も女も対等な存在としての認識しか、もともとの日本文化には存在しなかった、ということです。

「女房」という言葉も、もともとは宮中の高貴な女性に与えられた部屋を指す言葉です。
つまり、「ウチの女房」というのは、わが家の高貴な女性という意味で使われ出した言葉であるわけです。

「カミさん」になると、まさに「神様」で、しかもそのカミさんは「北の方」ですから、これは神々の中でも、もっとも強い神様です。

特に女性を大事にしたとかそういうことではなくて、日本では古来、男女がそれぞれに役割を果たすべき対等な存在として、あくまで共生するものとされてきた、ということです。

このあたりは、個を重んじるあまり、自分以外のすべてと対立し、闘争しようとする昨今の世界の流行要理も、はるかに奥深い伝統的な哲学が日本文化の中にあることをあらわしています。

ともあれ、日本的価値観や日本人としての文化観をただしく取り戻すこと。そうすることで、対立と闘争ではない、和と結いと対等意識に支えられた日本的価値観を共有することができる。
そこには右も左もなく、等しく日本人として生きるという感激や感動があり、そういった感動こそが、戦後日本という、歪みを矯正する、新たな大道となっていくものであると思います。

そしてこのような日本文化論は、そもそも喧嘩になりません。そして一部の保守層だけでなく、より広い文化的伝播力を持つものです。

日本人の奥底には、誰しもかならず和の心があります。なぜなら、日本人は日本語を話すからです。

そういう輪を広く知らせて行く。そうすることで民度をあげて行く。それがシラス国の基本となる拡散のカタチであると思います。

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