わたしたちのご奉公

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さて、つい最近のことですが、朝鮮日報におもしろい記事が紹介されました。

韓国で、サッカーのワールドカップの一番好きなカードは日本戦だというのです。

記事によれば、韓国での日本の試合の視聴率はなんと20%前後で、強豪の試合も上回っているのだとか。要するに彼らは日本が気になってしかたがない。

さもありなんと思います。
彼らの国は、古代以来ずっとウシハク国です。
ウシハク国は、一部の特権をもった人たちが金も権力も握り、民衆を支配し隷属させ収奪します。
そしてそういうことを正当化することが「政治」とされます。

そもそも朝鮮半島では、村落協同体さえも育っていないのです。あまりにも苛斂誅求が甚だしく、村をあげて逃散してしまうから、持続的な村落共同体が育たない。

ところが日本では、3世紀に書かれた魏志倭人伝に、日本の村落では、父子男女の別なくみんなが集まって酒を酌み交わし、みんなで共同体を営んでいたと書かれています(「会同坐起には父子男女別なし人性酒を嗜む」)。

さらに9世紀に養老律令の解説書として書かれた令集解(りょうのしゅうげ)には、それ以前の日本の村落の様子として、(おそらく7世紀頃の)日本の庶民生活の様子が書かれています。

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諸国の村々には、村ごとに神社があります。
その神社には、社官がいます。人々はその社官のことを「社首」と呼んでいます。
村人たちが様々な用事で他の土地にでかけるときは、道中の無事を祈って神社に供え物をします。あるいは収穫時には、各家の収穫高に応じて、初穂を神社の神様に捧げます。神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります。

春の田んぼのお祭りのときには、村人たちはあらかじめお酒を用意します。お祭りの当日になると、神様に捧げるための食べ物と、参加者たちみんなのための食事を、みんなで用意します。
そして老若男女を問わず、村人たち全員が神社に集まり、神様にお祈りを捧げたあと、社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせます。

そのあと、みんなで宴会をします。
宴会のときは、家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定め、若者たちが給仕をします。
このようなお祭りは、豊年満作を祈る春のお祭りと、収穫に感謝する秋のお祭りのときに行われています。
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この文章を読めば、なんとこの習慣は、ちょっと田舎の方にいけば、いまでも同じことが続けられています。
そしてそれがいつ頃からの習慣なのかといえば、すくなくとも、記録を見る限り、魏志倭人伝の記述と、令集解の記述は、ほぼ同じ様子を描いていることがわかりますから、つまり、日本における村落共同体というのは、3世紀にはほぼ全国的に確立していたであろうということが、文書によってあきらかなわけです。

令集解は7世紀、魏志倭人伝は3世紀です。3世紀といえば、日本はまだ弥生時代です。それが全国的に普通に定着していた習俗というなら、実際には上にあるような習俗のはじまりは、もっとはるかに古い時代からのものでしょう。その古い時代に確立した習俗が、2千年経ったいまの日本にもちゃんと息づいているのです。

すごいと思うのは、古代大和朝廷は、そうした村落共同体を「保持することで発展し定着した」という点です。
世界中の多くの国や地域では、都市国家は村落共同体を破壊することで成立したし、その都市国家もより強大な武力を持ったKINGによって破壊され、併呑されることで国が成立しました。ところが日本ではまったく逆に、村落共同体が互いに共生しあうために、大和朝廷が成立しています。

どういうことかというと、その象徴が古墳です。
仁徳天皇陵をはじめとした巨大古墳群は、わたしたちの国にたくさんありますけれど、それがなんのためにつくられたのかと言えば、土木工事のためです。

米を作るためには、水田を開墾しなければなりません。
そのためには水路を引き、用水池をつくり、河に堤防を築かなければならない。するとあたりまえのことですが、大量の土砂が発生します。そうした土砂は、今の時代ならダンプカーで沿岸の埋め立て地に運びますが、昔はダンプなんてありませんから、開墾地の近くに計画的に盛り土します。これが古墳です。

古墳を墳墓(豪族たちのお墓)とする説がありますが、逆です。雑木林や湿地帯などの広大な地所を開墾するとなれば、昔はそれを手作業でやったのですから、一代ではできません。爺さん、オヤジ、自分と何代にもわたって地所をみんなで開墾し、ようやく広大な田んぼを手に入れることができる。その開墾の言い出しっぺであり、陣頭指揮をとり、みんなを励ましてくれたのが死んだ爺さんなら、そのお墓は、みんなの意思として、どこに造るでしょうか。
開墾した田畑を全部見渡せる小高い丘となれば、まさにみんなで盛り土したその上ではないでしょうか。
「俺たちみんなで開墾したこの土地を、爺さん、ずっとずっと見守っててくれよ」そんな感謝の気持ちで、盛り土の上に墓を造った。それだけのことです。

このことは、最大の古墳である仁徳天皇陵が、見事に証明しています。

以前、大林組が仁徳天皇陵を造るのに、どれだけの労力がかかったかを計算しているのですが、このときの計算では、完成までに15年8ヶ月、必要人員が延べ796万人かかるという計算になりました。

最近の学者は、天皇が強権発動して、自分の墓をつくるために民衆を使役して古墳が作られたなどとバカなことを言っていますが、仁徳天皇のご治世の頃の日本列島の人口は全国でも4〜500万人程度です。

そんな時代にどうやって800万人も動員したのか。しかも約16年もの間、民を無駄な山盛りだけに使役したら、民そのものが飢えて死んでしまいます。

そうではないのです。
仁徳天皇は、それだけ巨大な土木事業を、民とともに営んだ。その結果、あの巨大な盛り土ができあがったのです。

仁徳天皇陵は、周囲が堀になっています。
巨大な盛り土なのです。盛り土は、土が柔らかいですから、雨で土砂が流れます。そうすると周辺の田んぼに被害が出ます。
そうならないように、周囲をお堀で二重に囲む。実に効果的な方法です。

その仁徳天皇は、日本書紀によれば、難波の堀江の開削、茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造(日本最初の大規模土木事業)、山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)の灌漑用水、茨田屯倉(まむたのみやけ)設立、和珥池(わにのいけ、奈良市)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)をの築造、灌漑用水としての感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)の掘削など、広大な田地の開拓を行った、たいへ失礼な言い方ですが、かまどのお話よりも、むしろ仁徳天皇はいわば「土木(どぼく)天皇」といってよいくらい、民のための広大な土木事業を営んだ天皇です。

仁徳天皇陵もそうですが、そもそも古墳は平野部にしかありません。
平野といっても、ご近所をみたらわかりますが、原始のままならでこぼこです。それを水田にするには、全部を水平にならさなければなりません。水田は水を使うのです。水平でなければ水田にならないのです。そして水田には水を引きますから、水路も必要です。しかも平野部は大雨のときの水害に弱いですから、その対策には、河川に堤防も築かなければなりません。

このような広大な土木工事を営むとなれば、単独の村落共同体だけの活動では不可能です。
たくさんの村落共同体が集まって、みんなで力をあわせる。そして子や孫たちが、将来、安心して腹一杯飯が食えるように、みんなで協力して、工事を推進しなければなりません。

大和朝廷は、まさにそうした村落共同体のリーダーとして、みんなを支え、みんなのために、民こそ宝という体制を築いてきたわけです。このとき、みんなをまとめるために行われた統治が、シラス(=知らす)でした。
みんなで共通の問題意識、つまり、子や孫たちが、将来、安心して腹一杯飯が食えるようにしようじゃないかという問題意識を共有し、みんなが協力しあって共同して大規模な工事を営む。だから、シラス、です。

古墳は、山間部にはありません。
全部、平野部です。
なぜそこが平野なのかといえば、そこを整地したからです。整地の結果として、古墳があるのです。
そしてその古墳は、かつては、シラス象徴でもあったのです。

これがウシハク社会となると、まるで様子が違ってきます。
たとえば支那の「京杭大運河(けいこうだいうんが)」がその良い例です。
この運河は、北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルの大運河です。隋の二代目の皇帝、煬帝(ようだい)が発案し、わずか5年でこれだけの施設を完成させました。これだけみたら、すごいです。

けれど煬帝は、この運河建設のために、女子供まで含む100万人の民衆を強制的に動員し使役しました。

強制労働というのは、世界中に例がありますが、基本的にその仕組みは変わりません。作業員にろくに飯も与えず、昼夜を問わず、死ぬまで、ただ働かせます。食べれないから、労働者は骨と皮ばかりになる。

尻の肉をつまんで、まだ肉がついていれば働かせるのです。そうすると最後には、並んで立つと、前に立っている人の尻の穴が上から見えるようになる。
人間は、そこまでガリガリに痩せます。

飯場の手配や、労働者たちのための炊事や食料の調達、宿場の手配といった、いわゆる人を使うための基本的な計算は、何もありません。作業員が死ねば、そのひからびた屍体の肉が生き残った作業員の食料になるだけのことです。これがウシハク国です。

朝鮮半島も、まさにウシハク国です。
昔も今も、です。

いまの韓国は、いちおう民主主義の建前をとっていますが、いまだに草の根ファシズムの国です。ですから庶民は、使役され、収奪され、ありとあらゆる辛苦が強いられる。

ところが韓国には、そのすぐ隣に、まるで人類の理想社会とさえもいえるシラス国日本があるわけです。これは、地獄の隣に天国があるようなものです。地獄の住民にしてみれば、天国がうらやましくて仕方がない。

ですから、中には気の利いた者もいて、自国(地獄)を天国に変えようよという運動を始めたりもします。けれど、そういった動きは、地獄の支配層にとっては、まさに邪魔な動きです。なぜなら、ウシハク国がシラス国に生まれ変わるということは、ウシハク国の権力者がその権力を失うということだからです。

ですから韓国にせよ、支那にせよ、支配層にいるウシハク人々は、その権力と財力にモノを言わせて、
「実は日本は悪い国なのだ」と、国の内外に向けて宣伝します。正を邪ととなえ、邪を正ととなえるわけです。

ウシハク国では、権力者が富と権力を独占しています。
これは簡単な理屈です。100人の国民が100の富を生み出すとき、権力者も民衆も等しく1ずつ100人で分けようというのがシラス国です。
これに対してウシハク国では、権力者が80の富を独占します。そして残りの20を、99人の民衆が分け合うわけです。権力者は、80という途方もない富をもっていますから、その富を使い、貧しい民衆にわずかばかりの捨て扶持を与えて、嘘やデタラメの宣伝に使います。富と権力を用いて、シラス国を壟断しようとするわけです。
それが、支那朝鮮と、日本の立ち位置です。

シラス、ウシハクの概念は、我が国では大国主神話に登場する古典的観念ですが、その大国主神話でも、高天原から遣わされた使者が、何人もウシハク大国主の側に取り込まれてしまっています。

ちょっと簡単に書いてみると、
最初に天照大御神が大国主の国への赴任を命じたのが天忍穂耳命(あめのほしおみみ)なのですが、天忍穂耳命は天の浮橋から下界を覗いただけで、「葦原中国は大変騒がしすぎて、自分の手には負えない」と、これを拒否してしまうのです。
日本の最高神である天照様の指示であっても拒否しちゃうというのが、そもそもすごいことで、支那の皇帝や韓流文化では、これ自体、ありえないことです。

そこで高天原では、天の安河に八百万の神々を集めて、誰を派遣しようかと協議するわけです。そこで決まったのが、天菩比命(あめのほひ)の派遣なのですが、この天菩比命は、大国主のもとに行くと、大国主の財力を駆使した歓迎にすっかり肝を抜かれて、ついには大国主神の家来になってしまって、三年たっても高天原に戻らないわけです。

そこで次に遣わされたのが、天若日子(あめのわかひこ)です。
ところが天若日子は、大国主の娘の下照比賣(したてるひめ)と良い仲になってしまい、彼女と結婚し、すっかり大国主のとりこになってしまって、八年たっても高天原に戻らない。

そこで最後に派遣されたのが建御雷神(たけみかずちのかみ)であったわけです。
その建御雷神は武門の神様です。
建御雷神は、出雲国伊那佐の小濱に降りたつと、腰の剣を波の上に逆さまに立て、その切先の上に大あぐらをかいて座り、大国主に「汝がウシハクこの国は、我が皇孫がシラス国ぞ」とおっしゃられるわけです。

大国主神話は、記紀の中でも、たいへんなページ数の割かれた一大叙事詩です。
因幡の白兎の物語からはじまり、人の良いオオナムチが、八十神たちによって迫害され、スサノオと出会い、スクナビコナの協力を得ながらたいへんな努力をして、おまじないや医道を整え、豊かな葦原中つ国の主(ぬし)となるわけです。
けれど、そこまで苦労に苦労を重ねて、ようやく築いた国を、天孫は差し出せという。

けれど大国主には、その理由がわからない。
ですから高天原からの遣いであっても、これを自身の富と権力で籠絡してしまって、逆に自分の味方につけてしまうわけです。
けれど最後に、武門の神様である建御雷神(たけみかずちのかみ)によって、「あなたが築いた国は、ウシハク国であって、シラス国ではない」といわれ、そこではじめて、ハッと気がつくわけです。
「俺は間違っていた!」

そして出雲に、巨大な神殿を築いてもらうことだけを条件に、自分は引退し、国を天孫に渡す。
これが国ゆずり神話です。

なぜ、記紀がこの国ゆずり神話に大きなページ数を割いたかといえば、それだけ実は、シラス国の国作りというのは、たいへんなものであるのだ、ということを、後世にしっかりと伝えるためであったということができます。

神々でさえも、ウシハク国に取り込まれてしまうことがあるのです。
けれど、そのことは、決して民に幸せをもたらさない。

いいかえれば、シラス国を保持するということは、たいへんな知性(ちせい)が必要だということだし、だからこそ、政治のことを昔は治世(ちせい)だと言ったわけです。

ウシハク国の財も権力も持った人たちは、その財力、権力を総動員して、身を守るためにシラス国への国民の傾斜を防ごうとします。そのために、宣伝も、工作も行います。

これに対して、シラス国の住民は、国は富んでいても、富は庶民に分散されていますから、ウシハク国のお金持ちと比べたら、シラス国の住民は貧しい。
その貧しいシラス国の住民が、ウシハク国の拒否を投じた宣伝工作と、等しく宣伝で戦おうとしても、そこには無理があります。

一方に、金も権力も豊富に持った連中による意図的な宣伝があり、一方は金も権力も分散している住民がいるわけです。宣伝工作では、歯が立たない。あたりまえのことです。

では、どう戦うかといえば、結局は、シラス国にはシラス国なりの戦い方があるとしか言いようがないのではないかと思います。宣伝ではなく、民衆の文化と知性による戦いです。

ウシハク国とシラス国では、どちらが庶民にとって幸せかといえば、答えは明らかです。
その文化性の違いを、シラス国の人々が明確に認識し、ひとりひとりが、ウシハク人々に籠絡されないしっかりとした道徳心、歴史認識、価値観を持つことなのです。

具体的には、日本が日本人の文化性を、きちんと主張していくこと。
ただ単にウシハク国の宣伝が間違っている、おかしいと言ってみたところで、彼らはおかしいことを承知で、ただ宣伝工作のために、おかしなことを言っているにすぎないのです。

たとえば、美白化粧水は、実際にはたいした効果などなくても、宣伝でこれを売ります。
それが実はたいして効果はないということを、きちんと分析し、立証しても、それが立証される頃には、化粧品会社は、次の新商品を出します。

日韓、日中で行われていることは、これに似ていると思うのです。
慰安婦問題、南京問題等、どれだけ日本がしっかりと証拠を示して反論しても、彼らはまた、ちょっとだけ切り口を変えて次の宣伝をする。どこまでいってもいたちごっこです。

そもそも学術より宣伝が、社会効果を発揮することは、化粧品がこれを証明しています。
しかし、文化観とか価値観といった思想は、宣伝を凌駕します。

たとえば、ニュージーランドのある民族は、男性同士が出会ったとき、互いに親しみを込めて、互いのチンチンをさすり合うのだそうです。
これが彼らにとってどんなにすばらしい習慣であったとしても、いまの日本人は受け入れないでしょうし、世界の多くの人々も受け入れないことでしょう。

同様に、支那人の残虐性や朝鮮人の強姦癖など、およそ先進国の知性ある人々なら、誰もそのようなものを受け付けない。嘘吐き癖も同じです。

逆に、日本人が、なぜ礼儀正しいのか、なぜ優しいのか、どうして約束を守るのか。その背景は何かという、およそ日本人なら誰もが「あたりまえ」と思っていることが、なぜそうなるのかを、日本人があらためて認識し直し、そしてそのことを世界に向けて謙虚かつ堂々と情報発信していくことは、嘘吐き宣伝よりも、はるかに大きな文化的伝播力を発揮します。

そのためにこそ、日本を取り戻す。日本人としての価値観を取り戻す。

それが、戦後生まれのわたしたちに与えられた、人生最後の、祖国へのご奉公なのではないかと思います。

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