「飛び地自治体」

金魚 世にも奇妙な「飛び地自治体」はなぜ続出したか?

平成大合併のやり直しを図る桐生広域圏の遠い道のり

平成の大合併で様変わりした地方都市
奇妙な「飛び地自治体」が生まれた理由

1995年に国主導による「平成の大合併」が始まった。合併を目指す動きは瞬く間に全国に広がり、各地で新設(対等)合併や編入(吸収)合併が相次いだ。

全国に3234あった市町村数はみるみる減少し、いまでは1718を数えるのみとなった。国が巧妙に繰り出した「アメとムチ」の威力はそれほど絶大だった。「平成の大合併」で激変したのは、市町村の数だけではなかった。各地の地名も大きく様変わりした。

古くから伝わる独特の地名が合併を機に、ごくありきたりの名前にとって代わられるケースが続出した。いまや地名を聞いても、それがどの地域なのか即座にわからないような状況となってしまった。

もっとも市町村合併は、行財政の効率化を図り体質を強化するための手段とされた。分権のしっかりした受け皿作りが目的で、無駄を省き、行政機能を高めようというものだ。少子高齢化と人口減少、さらには財政逼迫の状況下にある日本の全ての自治体が、取り組むべき課題である。合併で生まれ変わった自治体がそうした本来の目的を達成すべく努力を重ねているならば、いつまでも「合併前はよかったな」と懐古していてはいけない。

だが、国の大号令の下で進められた「平成の大合併」は、様々な歪みも生み出していた。自治体の中には、「どこかと合併しなければならなくなった」と、焦燥感を募らせるところも多かった。合併することを国から課せられた責務のように捉え、合併そのものを目的化して走り出すケースも少なくなかった。そのため、あまたに及ぶ市町村合併事例の中には、「なぜ、こんな枠組みで?」と、首をひねらざるを得ないような奇妙なカップルも誕生した。

たとえば「飛び地合併」である。行政区域を接していない自治体同士の合併だ。つまり、お隣同士ではなく、別の自治体の行政区域を間に挟んでの合併である。

「なんでわざわざ離れている自治体が一緒になる必要があるのか」と誰もが不思議に思うはずだ。行政の効率化やスケールメリットとは無縁で、むしろ、それらに逆行するものであるからだ。

中心部を別の自治体が切り裂く「ワニの口」のような桐生市

もっとも自治体間でも、人間と同様に「お隣同士が険悪」という例はそれほど珍しくない。徳川幕府がとった「分断して統治する」政治手法の残滓と言えるかもしれない。また、地域の中核となる自治体が何らかの課題を抱え、求心力を失っている場合もある。

こうした諸々の事情が要因となってのことだろうか。「平成の大合併」によって全国各地に「飛び地自治体」が生まれている。代表的な事例を紹介しよう。

青森県の津軽半島に3組もの飛び地合併自治体が存在する。3組いずれも2005年3月28日の新設合併で、しかも隣接しているため、地域全体がまるでモザイク模様のようになっている。津軽半島の中央部から北へ五所川原市(旧五所川原市と旧金木町)、中泊町(旧中里町)、そして五所川原市(旧市浦村)、再び中泊町(旧小泊村)となっている。その東隣が外ヶ浜町(旧三厩村)で、南に今別町を挟んで再び外ヶ浜町(旧蟹田町と旧平館村)と、複雑に入り組んでいる。

市域が飛び石で3つに分かれた大垣市に
中心部を別の自治体が切り裂く桐生市

市域が3つに分かれた飛び石型飛び地合併となったのが、岐阜県大垣市だ。2006年3月27日に大垣市は、上石津町と墨俣町を編入(吸収)合併した。ところが、3つの自治体はいずれも隣り合っていなかったため、新しい大垣市のエリアは3つに分かれ、世にも珍しい飛び石状態の自治体となった。

ワニが大きな口を開けたような形になったのが、群馬県桐生市だ。市域の真ん中を別の合併自治体が切り裂くように割って入り、東西に鮮やかな飛び地を形成している。まるで喉に大きなものを詰まらせ、外に吐き出しているワニの姿にも見える。

上顎にあたる市域の西部分は、桐生市が2005年6月に編入合併した旧新里村と旧黒保根村。下顎にあたる東部分が旧桐生市である。

「お偉方の思惑や感情によって、こうなってしまった感があります。一般市民はこんな形を望んでいなかったはずで、色々な怨念はあるかと思いますが、それらを乗り越えて(桐生市と)大同合併した方がよいと思います」

桐生競艇の存続を巡って紛糾。桐生市を除外して進む合併協議

こう語るのは、群馬県みどり市の田部井多市・市議。みどり市は2006年3月に大間々町と笠懸町、それに東村の2町1村が新設合併して生まれた新市。人口は今年5月末現在で約5万2000人。市域は南北に細長く広がり、桐生市の真ん中を貫いている。

群馬県東部の旧1市2町3村は桐生広域圏を形成し、ごみ処理や消防、斎場などを共同で実施している。生活圏を1つにしており、その中心地は桐生市だ。ところが、桐生広域圏は「平成の大合併」で迷走を重ねることになった。圏外自治体も含む様々な合併の枠組みが模索され、浮かんでは消えていった。

すったもんだの大混乱の末にどうにか落着したのが、現在の姿だった。東西に飛び地となった桐生市(1市2村)とその間に挟まれたみどり市(2町1村)である。なぜ、こうした歪な形での合併となったのだろうか。

桐生競艇の存続が地域の一大課題に
桐生市を除外して進む周辺の合併協議

赤字の桐生競艇の存続が課題となり、協議中の市町村合併に影響を及ぼした

桐生市は織物の街として栄え、「西の西陣、東の桐生」と称された歴史と文化を持つ日本でも指折りの老舗都市である。しかし、地場産業の衰退とともに人口流出が続いていた

1975年の約14万8000人をピークに減り続け、2村を編入合併した2005年の人口は約12万8000人。今年5月末現在の人口は12万を割り込み、近隣都市(太田市や伊勢崎市)に大きく水をあけられている。人口の流出先は主に連坦するみどり市域であった。桐生市の人口減は市財政にも影響を及ぼしていた。周辺自治体と比べ、住民1人当たりの市債残高の多さが目立つようになっていた。

桐生市は1市2町3村の広域圏での合併構想(その前には太田市などとの広域合併も模索したものの断念)を打ち出したが、うまくいかなかった。そこには、この地域固有のある問題が絡んでいた。

桐生市は1956年から公営ギャンブルの1つ、桐生競艇を開催してきた。競艇場は隣接する笠懸町の阿左美沼に設置され、翌1957年からは笠懸町と大間々町、薮塚本町も競艇事業に参画した。3町で一部事務組合(阿左美水園競艇組合)を設立し、競艇を開催するようになったのである。桐生競艇のあがりが主催自治体の財政を潤す時代が長らく続いた。

悩むに悩んだ大間々町の「二股協議」が、町長リコールに発展

しかし、競艇人気は低迷し、赤字を記録する事態となった。このため、行財政改革を進めていた桐生市は2003年に競艇からの撤退を決断した。それにより、桐生競艇のレースは3町による組合主催のみとなった。

桐生競艇の存続が地域の大きな課題となり、協議中の市町村合併の枠組みにも影響を及ぼすようになった。とりわけ、桐生競艇場の地元・笠懸町では、桐生市を見る目がより厳しくなった。桐生市を除外した枠組みの合併協議を進めることになり、大間々町と東村の2町1村による対等合併にこぎ着けたのである(競艇を主催するもう1つの自治体、薮塚本町は太田市との合併を選択した)。

生活圏は桐生と同じでも一緒になれない
「二股協議」が町長リコールにまで発展

議論紛糾の末、桐生広域圏がまとまって誕生したみどり市

そんな中で悩みに悩むことになったのが、桐生の西隣に位置する大間々町だ。町の中を走る鉄道も道路も皆、桐生市に向かっており、住民の生活圏は桐生とほぼ一体となっていた。これに対し、南側の笠懸町とは結ぶ道路はあるものの接する区域が狭く、くびれた形となっていた。

つまり、大間々町は競艇関連で笠懸町と結びついていたが、住民の生活や交流、経済といった面でのつながり度は圧倒的に桐生市だった。

桐生か笠懸かで股裂き状態に陥った大間々町は、やむを得ず苦肉の策に出た。しばらくの間、二股をかけることにしたのである。桐生市や新里村、黒保根村との合併協議と笠懸町、東村との合併協議の双方に参加することになった。こうして桐生広域圏は大間々町の決断次第で、市町村合併によって生じる飛び地の形が変わるという異例の状況となった。

さすがにいつまでも思わせぶりを続けるわけにもいかない。大間々町は2004年10月、住民投票で合併協議の枠組みを1つに絞り込むことになった。注目の結果は桐生市などとの協議会設置に賛成5349票、反対4845票となった。

これで迷走に終止符が打たれるかと思われたが、そうはならなかった。大間々町長は住民投票後も笠懸町などとの協議を続行し、それに納得いかない住民たちが2004年12月に、町長リコールを求める署名集めに乗り出した。その中心人物の1人が、当時大間々町議だった田部井多市さんである。

みどり市議会に桐生市長が異例の出席。合併のやり直しは叶うか?

有権者の3分の1(約5900人)を超す約6500人分の署名が手元に集まり、田部井さんらは快哉を叫んだ。

ところがその後、事態は急変する。署名の縦覧期間中に住民からの異議申し立てや撤回が相次ぎ、選挙管理委員会の審査で「無効」とされるものも続出した。有効署名数はみるみる減少し、結局リコール運動は失敗に終わった。直後に実施された町議会選挙で田部井さんは落選し、議席を失うことになった。

その後、合併特例法の適用期限切れも迫ったこともあり、桐生市は2005年6月に新里村と黒保根村を編入合併した。さらに2006年3月には笠懸町と大間々町、東村が新設合併し、みどり市に生まれ変わった(桐生競艇はみどり市による単独開催となり、経営状況も好転するようになった)。

こうして桐生圏域にワニの口のような珍しい飛び地自治体が誕生したという次第である。その喉部分にあたるエリアは両市の境界が複雑に入り組み、公共施設やインフラの効率的な活用や整備が進めにくくなっていた。

みどり市議会に桐生市長が異例の出席
桐生広域圏の新しいまちづくりは叶うか?

「平成の大合併」の嵐が過ぎ去って8年が経過した今年の5月20日、群馬県みどり市役所に意外な人物が姿を現した。お隣の桐生市の亀山豊文市長で、みどり市議会の全員協議会に出席するためだった。もちろん、首長がよその自治体の議会に出席すること自体、極めて異例なことだ。

桐生市の亀山市長はこの8日前に、みどり市の石原条市長に任意の合併協議会(任意協)の設置を要請していた。任意協は両市長が合意すれば設置できるが、みどり市議会にも理解を求めるため全員協議会への出席となったのである。

桐生市の亀山市長は集まった20人のみどり市議に、「過去は過去としてこれからは未来志向で」と語り、合併が必要と考える理由や合併後のまちづくりのコンセプトなどを丁寧に説明した。

「平成の大合併」で全国各地に飛び地自治体が誕生した。その解消を目指す取り組みが群馬県の桐生広域圏で始まろうとしている。はたして行財政の効率化や行政機能の強化、新しいまちづくりといった本来の合併効果を、桐生広域圏は手にすることができるだろうか。2度目の大合併を模索する新たな動きに注目したい。

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